17 苦痛の果て
立花颯汰にはシトリーと戦う理由はない。
しかし、『相手が殺しに来ているのならば、殺すしかない』と自然に、躊躇いもなくそう思った。
また、同時に今の自分の実力では獣刃族のシトリーに勝てぬ事も理解していた。刃物を持っても所詮は手足も短い子供。相手は若い女とて戦士として一流だ。
猛攻を避けながら、心内で冷めた声で呟いた。
――やるしか、ない
敵である女戦士シトリーは“親愛”と“闘争”、“期待”を持って颯汰を見つめ、攻撃を繰り出していた。
シトリーは攻撃速度を落としていたが、それは鍛えた兵士ですら回避が厳しい猛攻であった。
それなのに、颯汰は紙一重で避けてみせた。
ゆえに嬉しさが表情に現れていたのだが、その真意に気づかぬ立花颯汰の瞳には『楽しそうに笑みを浮かべて殺しに来る狂人』に映っていた。
早晩、あの爪に追いつかれる。
だが、抵抗する暇もない。
反撃の隙があっても腕のリーチと速度がどうしても足りない。
内に宿る“獣”の力を使わねば勝てないが、どういう訳か使う事ができなく困惑していた中、観戦しているだけの紅蓮の魔王の助言により、颯汰は納得できた。――“獣”が眠っているから“力”が使えない、と。
単純な理由であり、致命的であった。
起こすのに『憎悪』の感情が必要らしいのだが、彼女は憎しみもなく襲い掛かって来ていて、颯汰は彼女へ殺意を抱いているはずなのに“獣”は目を覚ます気配がない。そして、お互い憎しみ合わないとダメなのかと颯汰が思った矢先、シトリーが本気を出し始めた。
シトリーは颯汰が『魔王を殺した』――つまり自分よりも強い雄であると確信したが、その力を直に見ないと気が済まなかったのである。彼に対していわば憎悪と真逆の感情を持ち合わせていて、それを簡単に変える事は出来ないし、自分が本気を出して襲えばその眠っている“力”とやらも慌てて目を覚ますでしょ、くらいに安易な考えの獣化であった。
豹の耳と尾を持つ美獣が両掌を地面に着けて吠えると、あっという間に黒豹へと姿を変えた。
はち切れんばかりに筋肉が肥大し、手足の長さも変わって、乙女は完全な猛獣になり果てた。しかし、その毛並みといい表情といい、麗しさは消えていない。むしろ力強く、気高い美獣であった。
猛獣のじゃれあいでもヒトは耐えられないと言うのに、本気で殺しにかかれば子供が生きられるはずもない。
だから、颯汰は改めて覚悟を決めた。
――死ぬ。ああなってしまえば避けられない
――やるしか、ない
恐れも迷いもない。
冷めた感情で握った柄に力を込め、刃を思い切り自分の左腕へ降ろす。
「……おい!! あいつ! 気が狂ったのか!?」
「信じられない……!」
獣刃族のオセが叫び、フラウロスが呟く。
颯汰は狂ったわけではないつもりだ。
覚悟を決めただけだ。
相対するあのシトリーという獣刃族の女戦士に今の状態では何をしても勝てない。
それに彼女の本気の一撃は避け切れないだろうし、受ければ確実な“死”が訪れるとも。
なれば、腕の一つなど安いもの。
それが、どうしたというのだ。
腕から伝わる熱と一気に駆け巡る激痛も、迅雷の魔王と相対した時や遠いヴェルミの王都へ飛んだ時に比べれば、さして我慢できないものでもないと。……無論、強がりである。
「――ッアぁ!! ぐっ……あぁぁああッ!!」
小さな子供の腕を、ナイフが深々と突き刺さる。悲痛な声を上げながらも柄を握る手を緩めない。むしろ左腕を貫かんとしている。
これ以外に手段はないと信じ切っていた。
馬車を囲んでいる獣刃族の戦士たちは目を見張る。無論、馬車の上に乗る者たちもその凶行が理解できない。紅蓮の魔王ですら静かであったが、驚きを隠す様子はない。
だが、この中で、ただ一人――。
共に居た時間も僅かでしかない、今や眼前で戦いあっていた女豹だけが、誰よりも彼を信頼していた。だから慌てず待つのみ。
「寝ぼけて……、場合じゃ、……い、ぞ……」
表皮を破り、神経を断ち、血管を侵す白銀の刃。
「一緒に戦えって、言っておいて……笑わせんな、ァッ……!」
強い痛みのせいで苛立ちが湧き上がる。しかし、柄から手を離さず、より深く潜らせようとする。
――そうだ“力”は従わせるものだ
赤き魔王が予兆を感じ取り落ち着いて腰を下ろして、再び様子を見守り始める。
颯汰の左腕はナイフが真っすぐ刺さったからか、噴水のように噴き出すことはなかったが、赤い鮮血はじわりと溢れ、上手く骨の間を通り、ついには腕を真っすぐ貫いた。蓋となった刃を抜けば、通常であればたちまち血は一気に飛び散って降り注ぐだろう。しかし、もうそうなる事はない。なぜなら――、
「ァぁ、ぐッ! 目ェ、覚ませッ……! 起きないと死ぬぞ……ッ『デザイア・フォース』ッ!!」
宿主の生命の危機に反応し、それは強制的に目覚めさせられたからだ。
その左腕を掲げて叫ぶと、零れて腕に滴る赤が、色を変え始める。
腕から奔る強い銀の光。
突き刺さった刃物が逆再生された映像のように勢いよく抜けて昇っては地面へと落ちた。
噴き出すはずだった赤は深淵の黒へと変わり果て、それが液体ではなく瘴気へと変じ、颯汰の身を包んだ。
覆い被さる闇は、滅びの光を内包する――。
黒のベールが球形を模り、高速回転を始めた。
嵐の如き速度で凄まじい動きを見せるが、それは三つ数える頃には破り去られた。
世界を滅ぼす力が胎動し、それは覚醒したのだ。
形成された黒き繭の中、禁断の力が再誕する。
繭から銀の光が迸り、黒い障壁が粉々に割れて銀が溢れ、障壁ごと光へ還る。
そして、大いなる力を携えた“獣”が顕れた。
「なんだ、あれは……!?」
オセとフラウロス、他の獣刃族の戦士たちは理解が及ばない存在に慄く。
それは間違いなく、立花颯汰であったモノであるのだが、著しく変化が起きていた。
左腕を包む漆黒の籠手。
両足には同色の脛当て。
右腕と全身は夜闇の如き濃紺であった。
双眸は青白い氷のように映るが、奥で静かに燃えている。
背中の創傷からは白銀の後光。
二つに割れた半面が両側に追いやられ、理性なき獣性が解き放たれている。
その中でも体長の変化が顕著だ。明らかに何年か老けている。
彼ら獣刃族の戦士はあずかり知らぬ事であるが、縮む前の颯汰の大きさに戻っていた。
『……ゥウウ……』
剥き出しの牙のある口から唸り声が響く。
『……?』
両腕をだらりと下げ、猫背の姿勢の“獣”は周囲をその氷のような青い瞳で見渡す。
――不完全……、魔力が足りぬ故か
紅蓮の魔王が分析し看破するが口には出さない。
胸部の装甲と右腕の籠手が形成されず、手足や背に蒼い炎が燃えていない。またジリジリと身体を覆う闇色の装甲がそこかしこでノイズが走り、消えかかっているように見えた。
アンバードの王都バーレイでは土地の龍脈から魔力を吸い取り、さらに黒泥に溶けた魔力まで存分に吸収した結果が前回の姿である。
迅雷の魔王と相対したその時と比べれば不完全さはあるが、急激に膨れ上がった強い魔の波動――天を貫いた光の柱から感じた気配が、そこにあったからには、敵である獣刃族の全員がシトリーの妄言であったと思った『あの幼き少年が魔王を打ち倒した』という事柄が真実であると認めた。
あれこそが『魔王』なのだと誤った認識と、恐るべき“敵”であるという正しい認識を抱く。
「それが、君の本気だね?」
躙り寄る女豹。
『…………』
「じゃあ、改めて始めよっか。加減なんて必要ないっぽいし……」
牙を剥いて挑発的に吠えた。あの頃と同じ、遊びという感覚を捨てていた。
「あたしが勝ったら、君の全てはあたしのモノ。君が勝ったらあたしの全ては君のモノ。いいでしょ?」
「「!?」」
『――? ……? ……????』
その言葉を受けた“獣”は目を細める。おそらく言いたい事は「なにいってんだコイツ」。また同族である獣刃族の皆も同じ思いであった。次期族長たる彼女が何を求めて戦いを挑みだしたのか理解できないまま流されかけていたが、ここでフラウロス、オセが気づき始め、苦い顔をして過去の妄言を思い出していた。
「じゃあ、始めるよッ!!」
沈黙は了承、とシトリーが動き始めた。
飛び掛かり、全身を使って右前脚の爪を立てる。当たれば肉は抉られ、ひとたまりもない。彼女たちの爪や牙は厚い鎧だって簡単に貫けるものだ。
しかし――、
「っ!?」
次の瞬間、女豹の姿が消える。
否、地の上を翔ける流星のように一瞬で遠くへ吹き飛ばされていた。
“獣”が左腕で薙ぎ払うように振るい、それを受けたシトリーがぶっ飛ばされ、黄色い草原を転がっていく。
一瞬何が起きたか理解が及ばなかったシトリー。
“獣”はそれを追撃せず、数瞬の間だけ彼女の方を見て、他方へ意識を向ける。
……実のところ“獣”は混乱していた。
強制起動――宿主である立花颯汰に甚大で命に係わる傷が生まれた事で目覚めたが、周りから『憎悪』の感情や強い『殺意』がないのだから。
腕の傷はほぼ修復したが、敵が見つからないうえ、何か変なものが『じゃれてきた』。
敵ではない者を相手するだけ億劫であるため、蚊を払うように腕を振っただけ。
黒豹は地面へ転がった。叩きつけられた衝撃で内臓と骨にダメージがあり、目眩いを引き起こす。並みの戦士では立ち上がる事はできない。
『…………』
「敵は、どこだ?」と“獣”が周囲を睨みながら確認を始めたが、
「……余所見、しないでよねっ!!」
女戦士の矜持が離れていく意識を現実に結びつけ、むくりと起き上がるシトリー。
たった一撃で満身創痍となったが、彼女は折れるつもりはない。
むしろ歓喜に打ち震えていた。
「行くよ……!」
闇に溶ける黒い表皮に紫色の紋様が浮かぶ。
それこそ、獣刃族の証――。
魔法の類いは使えぬが、その内に宿る魔力はすべて肉体の強化に行使できる。
仲間たちは戦慄する。いつぶりだろうか、シトリーが真に本気となった姿を見るのは。そして、それに値する敵の強大さに恐怖した。
黒い影が揺らめくように映る。
そして、地を蹴ると最速で獲物に向かった。
猛然と大地を黒い線が駆け抜ける。
剥いた牙の奥の赤が血を求めて滾る。
だがそれは――深淵の闇へ引き寄せられる無力な羽虫にも似た愚かしさに近かった。
迫る驚異――横目で捉えた“獣”はその場で大きく跳躍した。
身体を捻りながら宙を舞い、シトリーの突撃を避けるだけで終わらない。
女豹が下を通り過ぎる前に、左腕を向ける。
左腕から噴出する黒い瘴気が牙を模り、実体を持って真っすぐ飛んでいき、逆に獲物の胴に喰らいついた。女豹が叫びを上げる前に『黒獄の顎』が捕まえた敵を宙に引っ張り上げる。
伸びた鎖を巻き取るように“獣”の左腕へ吸い込まれていくと、顎が“獣”の腕の中へ溶け、宙に浮かんだシトリーは左手で思いきり掴まれる。
抵抗する間もなく空中で一回転し、その遠心力でさらに遠くへ投げ飛ばされ、林の中へぐるぐると転がっていく。
「にゃろう……! ――ッ!?」
一匹の獣刃族が次期族長の命を無視し、加勢しに行った。その凍り付いた瞳に射竦められていたが、大事な仲間を傷つけられた衝動が、彼を動かした。
問題は――『強い憎悪』を一瞬でも抱いた事だ。
着地した“獣”がそれに反応する。
『ゥオァッ!!』
短いが力強い叫びを上げ、縮地の走法で近づく。
いきなり眼前に現れた強大な捕食者の左腕で吹き飛ばされた仲間の黒豹――その姿を見た他の四頭もほぼ同時に襲い掛かる。
恐怖もあったが、それ以上に仲間に対する想いが勝ったため足が動く。
オセとフラウロスまで獣化し、脅威を滅しに動く。本能のままに“獣”を群れで狩ろうと。
呻り、噛みつく豹の牙。左と右と順にやって来たが白く鋭い歯は黒い金属の籠手を通さない。闇色に塗りつぶされた右腕にはオセの牙はめり込むが、噛んだ感触と舌を奔る感覚が肉のそれとは異なる。離さぬように前足も使って骨をも砕く絶大な顎の筋力で噛み砕かんとするが、敵の堅さも尋常ではなく歯が途中で止まる。
“獣”は上体を大きく動かし、まず左腕から振り落とすついでに後方から来た一頭に直撃させ、前から来た一頭に左手を突きつける。溢れ出す闇――『黒獄の顎』が獲物に喰らいついては引き寄せた。
右に深く喰らいつくオセに対し右膝で一回、二回と腕と挟むように叩きつけ、痛みと衝撃で口を離した瞬間、頭部を掴んだもう一頭の豹からヒトに戻った戦士を勢いつけて振り下ろした。
どれも“獣”よりも大柄な豹であるのに、その膂力にただ、道具のように振り回されて、力尽きる。
転がる敵を、ただ睨めつける“獣”であったが、自身の手や身体に現れる現象……魔力不足による肉体を覆う構成物質の維持が困難になり、ノイズと共にジリジリと一部が空気中に霧散する勢いが増し始めた。
――『喰らわねばならない』
そう判断した“獣”は、敵対者の中で最も強く、魔力を持っている者を選び、近づく。
「うっ……、うぅ……」
気を失い、獣化が解けていたシトリー。まだ自然が豊かな地域であるため伸び切って槍衾のような黄色の林の中――仲間の惨状が見えない場所であった。
身体を起こそうにも、力が入らない。何か所か骨が折れている。そんな状態である中、死の擬人化した存在が近づく気配を感じた。
林を割って、黒き魔神が現れる。
睥睨するその瞳が、何よりも綺麗だと感じた。
死を悟るシトリー。負けたから全て――この命さえも彼のモノであると委ねた。
闇の淵から這い出た――いや、闇そのものをヒト型に切り取った存在の左手が、浅黒くほっそりした首を掴んで持ち上げた。
締め上げられた首の頸動脈が圧迫される。
その結果、血中の酸素が脳へと充分に運ばれなくなる。
さらに身体から抵抗する力まで奪われていくのがわかる。“獣”がその左手でエネルギーを吸い取っていたのだ。その証拠に、ノイズは劇的に減って回復しているのが見て取れた。
一方で衰弱し、どんどん死に近づく女豹は……遠のく意識、明滅する視界の中で満たされていた。
死に瀕した脳が神経物質を多量に分泌したせいもあるが、あの日の少年が自分の想像以上の存在であり、戦士として完膚なきまでに敗北し、その雄の手で喰われるならば本望であると――その手で首をへし折られようと構わない気概であった。
背丈が変わらないため持ち上げた顔が“獣”からは見えないが、苦悶と幸福が入り乱れた顔となっている。その終わりは、きっと死と共に到達するのだと彼女は悟る。未だかつて味わった事のない快楽の先へ至らんとした――。
休みなくなったので今日投稿しました。