16 諍いの命運
熱を帯び、酔いしれた双眸。
その強い眼差しを受けた当人の血の気は引いて、寒々とした感覚を味わっていた。
相対するその女性は十七か十八くらいだろうか。他の獣刃族と同じく黒衣を纏い、露出した肩から腕にかけて、ほんのり焼けたような色の肌をしている。髪は黒のセミロングで少し癖がある跳ねっ毛。頭の上には猫耳のような黒豹の耳。女性らしさを主張した体つきで、しなやかな尾は真っすぐ立っていた。
薄黄色の豹の瞳が熱く、静かに、燃えている。
その熱意が、純粋な好意だけであれば、その外見の美しさと同居する可愛らしさに、立花颯汰はどぎまぎしていただろうが――いや、純粋な感情であるのは間違いない。
しかし、実際に睨まれたネズミの如く、身体が危険信号を受信している。
元より颯汰は人見知りなうえに、他人を観察しながら何んとか合せて生きてきた。ゆえにその目が何を物語っているかを理解できたのだ。
「…………あの、すいません。ぼ、ぼくは、あなたを、知りません。それに僕みたいな普通の子が、あんな光の柱なんて作れるはずが、ありませんよ」
颯汰は努めて、その身の丈にあった精紳よりもさらに若干幼く、無垢なる少年を演じようと試みた。
声色も高く、喋りもオドオドとした感じにし、自分が“魔王”を討ち倒したものではない――ただのあなたの勘違いですよ、と迫る運命を変えようと抗う。
しかし、その刹那――、
「――ッ!?」
颯汰の身体が、咄嗟に動いた。
何かが眼前に飛んできて、反射的に後ろに回していた――ナイフの柄に触れていた左手が、サッと鞘からナイフを抜き取って、飛んできた何かを切り払っては落とす。
刃渡りは十メルカン(約十センチメートル)ほどの片刃が煌めき、飛んできたそれがコロリと地面に落ち転がって動きを止める。
――何だ? ……、石?
「にゃはは。やっぱり、弾いたね――!!」
ニヤリと黒衣の女が、笑う。
跳ねっ毛の持ち主が石を颯汰の顔面に向かって投げていたのだ。速度的に当たったら怪我で済むはずないが、シトリーは相手がきっとそうすると確信していたからこそ、投擲したのだ。
その声が、次第に大きく……いや近づいたのだ。
シトリーが地を蹴り、跳躍し、颯汰に向かって爪を立てて左腕を振る。
弾丸の如く飛来する石に続き、獣の刃が襲い来る。
颯汰の上半身があったところを薙ぎ払うように左腕が通過した。
その真横のヒルデブルクと少し下がってエイルはその速度に対応できずじまい。
真ん中に居座る魔王だけは何事もない様子だ。
標的となった少年は、台から飛び降りてなんとかその爪から逃れていたが、
「普通の男の子が! 今の速度の投石を弾いて、今の攻撃を、避けれるはずはないよね!?」
息をつく間も与えぬと、シトリーは台に着地したと同時に颯汰が降り立った場所に向かって跳んでその手の爪で切り裂く。
「――ッ!!」
目で追う前に、シトリーの気配を掴んでは転がり、回避行動をとり、瞬時にナイフを逆手で構えて臨戦態勢をとった。土埃が立ち、一瞬の静寂が訪れる。
すると、少女は少しだけ満たされた顔で言う。
「というか男の子が自分を“普通の子”って言うはずないじゃん!」
「――……!! たしかに……」
そこは、盲点だった。
颯汰は空いている右手で、口を押さえる。
「じゃあ、改めて。久しぶりだね。あ! あたしはシトリー! あなたの名前は?」
咲くような笑顔。そう思えばと思い出して名乗り始める。互いの存在は忘れてはいないが、名は知らなかったのだ。
「…………名乗るほどの名じゃないよ」
最大限に警戒を始めた颯汰はひねくれものの調子を取り戻したのかそう返す。視線は一瞬横へ――他の獣たちが動かぬか、また距離を概ねではかる。ごく自然に身体がそう動いていた。
「むぅ……! じゃあ、頑張って聞き出す事にするね!!」
楽しそうに、だけど強い攻撃性が宿った瞳が笑う。
得物を持っているとしても所詮子供と侮っているのか問答無用で突っ込んできた。
颯汰は、武器を持ちながらも、圧に怖じ気づいたのか迫る攻撃の悉くを、回避に徹する。
「ちょ、それは、おかしいぞ!? なんで、たたかう、ッお!? 危なっ! ……戦う、必要なんて! ないだろ!?」
「言ったでしょ? 別れるときの約束。また今度会った時、闘おうってね!」
「そんなの! 知らないよ!!」
颯汰の悲鳴にも似た叫びすら、彼女は無視して身を滾らせた。
しかし、今更あなたなんて知らないと言ったところでもう無駄だ。彼女の“興味”から逃れられない。
足蹴に続き爪を振るう女。
その猛攻を、一度受ければ死に直結すると速度と鋭さから理解できる。
「みんな! 手ェ出したらブッ殺すからね!!」
颯汰への攻撃をまたもや回避され、同族に向けてシトリーは吠えた。
過激な言葉で、獲物を横取ろうと言うならば、仲間とて容赦しないと牽制した。
それはむしろ颯汰にとっては好都合。
これ以上、手数が増えるといよいよ勝機がなくなるというもの。
足払いでも正拳でも、とにかく後ろへ退くしかない。自分が思った以上に動ける事に内心驚きつつ、しかし冷静に状況を打開する局面を待った。
慎重ならざるを得ない。
しかし、問題は体力だ。息切れが思ったより早い。
病み上がりの肉体を酷使している状態だ。
募る焦り――。
颯汰は頭を動かす余裕も与えられない。
――なぜ。なぜ……? 命を、狙う……?
覚束無い思考が、シンプルな答えを導き出す。
それは相手の事を考えるのではなく、解決策と呼ぶには些か乱暴で、短絡的なロジックであったといえよう。
この命を狙うならば、
――ここで、殺すしかない
双眸に宿る意思の変化を感じ取った女はニヤリと笑い、攻撃の速度がさらに増す。避けられても即座に攻撃し、離れては食らいつく。
相手が女とはいえ戦士、自身はただの子供であれば敵う道理もない。
ならば、どうやって、殺す――か。
それをやれるだけの力を、その身に宿している。
酷く弱体化していたとはいえ『魔王』すら倒し切り、焼き払った熱量を持った“力”を――。
頭に過るのは、この幼くなった肉体で行使できるのか、操れるのかという不安であったが、
――今やらないと、殺される。ならば、誰であろうと……
およそ九から十歳ほどの年齢では持ち合わせているはずもない――また元の年齢であってもここまで冷徹な、凍り付いた心で他者を見やるモノも早々いないだろう。スイッチが切り替わり、劇的な変化を見せる精神。その力――“獣”を引き出す呪文、あるいは祝詞を静かに、口にした。
「――『デザイア・フォース』……、……!?」
覚悟は決めたはずだった。
襲撃を掻い潜り、もう一度。
さらに、もう一度唱える。
ついに叫んでみたが、一向に何も起こりやしない。
大声の瞬間だけ緩んだ手も、再び元の速度となって襲い掛かる。
突き刺す一手が首の真横を通った。
――……まさか!
思考を巡らせるが時間は止まりはしない。
「――……マズっ!?」
思考により反応が僅かばかり遅れ、頬に爪が掠る。薄皮が裂かれ、右頬に血が滲み出す。当人よりも、ヒルデブルクが両手で口を押さえ、悲鳴を上げていた。
自身の声で呪縛が解かれたのか、王女は雰囲気が変わった神父服の魔王の右肩を掴んでゆさゆさと揺すりながら言う。
「神父さん! ダメっ! 止めなきゃ! このままじゃあ、ソウタが死んじゃう!!」
座っている魔王はヒルデブルクになされるがまま揺ら揺らとしているが、止めるつもりはない。
「確かに、女豹が本気になれば死ぬだろう。それに私が止めに混ざったところで止められやしない」
「そんな……」
虚偽、とボソっと言ったエイルの声は――戦闘と呼ぶには一方的な闘いによる、土が巻き上がる音と拳が空を切り裂く音などで潰された。
頬から痛覚が脳髄へ届く前。
極至近距離。
攻撃を受けたからこそ生まれたチャンス。
カウンターを決められるとナイフの柄を握った左手に力がこもった。
器用に片手だけで持ち方を逆手から順手に変え、腕を振ればそれだけで女の肉を切り裂ける――と思った瞬間に、
「――っっ!?」
肌にゾワッとした怖気を感じた颯汰は攻撃を止め、後ろへ飛び退いた。
予感がした。もし攻撃をしていたら逆に自分がやられていた、と。彼女の姿はまだヒトの形をしているのに、豹の強靭な顎に首筋を噛まれるビジョンが頭に浮かんでいた。存在しない幻視であるが、颯汰はその幻覚を確かに感じ取ったから、回避し大量に汗が噴き出す。
それを見たシトリーが残念そうな顔をして動きを止めると、ゆったりと運動後の小休止のつもりか、息を吐いた。
冷や汗を浮かべる颯汰に向かって指差しながら、魔王に向かって叫んだ。
「全然、本気出してくれないんだけど!」
不満を噴出し、両手を頭の後ろに回してつまんなそうな顔をした。
「どうしたら本気出してくれる? ねぇねぇ」
目の前の颯汰と右の馬車の上にいる魔王を交互に見ながらシトリーは問う。
颯汰はすでに肩で息をするくらいに疲れが表立っている。他の獣刃族から見ても子供がやるには奇跡的とも言える素晴らしい回避の連続であり、どう見ても手を抜いているように見えなかった。ただ沈黙し、驚きの感情は目や顔に出したまま豹たちは静観し続ける。
颯汰も反論をしたかったし、何故、『力』が使えなくなっているのかわからなかったが疲労で声が上手く出せなくて呼吸するのでいっぱいいっぱいだ。
その答えを求めるように彼も神父服の魔王の方を見ると、問われた紅蓮の魔王が口を開いた。
「本気ではあるはずだ。何も嘗めてかかっている訳じゃあない。少年が今、持てる力を全開でこの程度なのだ。しかし、貴様も本気で『じゃれている』だけで、殺すつもりはないように見えるが?」
薄々そうなのではないかと勘付いていたが、改めて指摘されると苛立ちを覚える。しかし疲れから何かを言う気も起きない颯汰は、代わりに睨んでいた。
一方でその視線を受けては「たはは……」と誤魔化すように笑うシトリー。
彼女が望むのは颯汰の本気の姿であるから、それまで手を抜いていたのである。
「教えてやろう。少年、貴様の中のそれは目覚めていないだけだ」
「!」
魔王の指摘で、颯汰は静かに己の左腕を凝視した。
改めて意識を集中しても、変化は起きない。
「少年が女豹へ、女豹から少年へ真に『憎悪』を抱いていないから、眠り続けている」
続けて言う魔王の言葉に首を傾げながら、
「ふーん。よくわからないけど……。じゃあ、無理矢理――」
互いに恨みはなく、恨みを買うつもりもないシトリーが出した答えもまたシンプルであった。
「――こっちから本気で、叩き起こせばいいんだね!」
獣刃族の真骨頂――獣化。
麗しき女が、猛々しい黒豹へと姿を変える。
戦士たちの殆どは、これで万が一も襲われている彼に勝算はないと断じた。
奇跡のような立ち回りによる回避行動の数々は目を見張るものがあったが、それもこれまでだと。
「眠っている……? ふざけんなよ……! こんな状況で……ふざけやがって……」
誰にも聞こえない小さな怒りの声を颯汰は上げる。
そして、この男はすでに答えを見出していた。
右に持ち替えたナイフを掲げる。
それをくるりと逆手へ持ち方を変える。
曲げた左腕の上に、陽光を反射する刃が向く。
「何を、する気だ……?」
見守るだけとなった獣刃族の戦士の一人――オセがまさかと思いながら口にする。
他の者も、気づく時間が異なれどその先を予見できた。
そんな馬鹿なことするはずがないのに、しかし掲げたナイフの行く先は、そこしかない。
「――はあァッ!!」
覚悟は、決めていた。
だから颯汰は、己の左腕にナイフを振り下ろせたのだ。
誤字の修正
さらに修正