15.5 本能
マルテ王国から特命を受けた獣刃族たちは、失踪した王女ヒルデブルクがヴェルミ領内から南西へ進んでいるという神託を受け、捜索を始めていた。
族長は病に伏した今、獣の一団を率いるのは若き女豹――シトリーであった。
彼女自身は、マルテとの盟約も“黒真珠”もただの枷でしかなく、父親である族長がいるから「まぁ聞いてやるか」程度にしか考えていない。
神託の存在も懐疑的であり、探している少女も自由を求めて旅立ったのならば連れ帰るのも可哀想だなとは思っていた。
またそれ以上にヴァーミリアル大陸の連なる連山、四つの峰の内のひとつテルム山を消滅させたと噂される魔光と、それを放った存在の方に強い関心と興味を持っていた。
心のどこかでその正体を、昔一度だけ出会った少年のものであれば良いなと考えながら……。
幼い頃から彼女は所謂『神童』として扱われていた。その名に恥じぬ戦いぶりと、その名に驕り、他者を密かに見下すほどに戦才があった。
獣化も早く習得し、獣化すれば、男の大人にも勝てるほど才能があった。
――にも関わらず、その日、出会った人族の少年は、自分より若いはずなのに、獣化した自分の猛襲を避け切った。
同年代は当然として、大人が相手でも全力を出す事を殆どなくなった彼女は、初撃こそはマルテにとって大切な資源でもある奴隷を傷つけぬように加減をしていた――訳ではなく、可哀想だからと手を抜いて速度を落としていたが、それでもまさか躱されるとは思ってもみなかった。
その奇襲を避けられても、すぐに終わると――今までの逃げた奴隷たちと同じだと思っていた。
恥ずかしくも本気になってしまい、たかが小さな子供に避けられたと若く未熟なプライドのために、牙を剥いて噛みつきもした。
しかし、男の子はそれすら避けたではないか。荒野の砂を蹴り上げての目くらましをしながら。
――なんだ、こいつ……!
最初に感じた感情は紛れもなく苛つきだったはずだ。しかし、それは最後の瞬間に変化していた。
多くは蛮勇にしか映らぬ覚悟――豹となった自分を本気で殺そうとする瞳に心が奪われてしまった。
他者と相対した時に浮かべている諦観ではなく、その『必死さ』と、瞳の奥にいる“怪物”を感じては今まで知らなかった感情に火が付いた。
飛び掛かった一瞬、夜闇の瞳の奥にいる存在に、魂まで捉えれたように自由が奪われたように錯覚する。溢れ出す闇が炎のように燃え移り、こちらの身体をあっという間に包み込んでしまう幻覚。
しかし不思議と、すべて委ねてしまいたくなるほど心地がいい闇であった。
その闇の底に佇むそれを知覚した時、自分が如何に矮小な存在であるかを思い知る以上に――すべてを捧げ平伏してしまいたいと感じてしまった。
生涯で、こんな強い生き物と出会ったことがない。
美しく、心が惹かれた。
そこに恐怖は、一切なかった。
本能が大声で叫んでいた。
――……!!
その直後に、顔面を襲った物体に数瞬だけ気を失っていたが、熱くどうにも熱い。息を切らし、困惑して佇んでいるあの子を目で追って、胸の内側からそれが溢れ顔まで焼けそうになる。
――そうか、これが……
だから別れ際に“約束”をした。また会った時、もっと楽しめるようにと。
そうして別れて五年の歳月が経った。
彼と共に歩んでいたであろうボルヴェルグ・グレンデルが死んだと聞いた時は不安であったが、それこそ忘れて誤魔化すために鍛錬を重ねた。
その結果、父の代わりを任されるほどに心身ともに成長を果たしたシトリー。自由奔放さと少しあどけなさは抜けていないが、立派な戦士となった。
そして現在、一族の特に足が速いものを連れ――先遣部隊として獣刃族が動き、後を追うようにマルテ王国は正規軍を編成し出兵させた。
大まかな指定されたポイントに着いたとき、甘い柔らかな匂いを感じ取った。
王女が近くにいる。
素直に宮廷神託士ってすごいなと感心していた時、そこにふわりと漂う別の香いに惹かれ始める。
王女とは違う、心を昂らせるもの。
その香りの正体を過去に感じていると思った瞬間、シトリーの脳裏で記憶が正解を導き出し、神経が快楽物質を弾けさせたように強烈な感覚を受けた。
仲間の声すら届かないほど、シトリーは獣化して必死に走り出した。黄色の林を駆けて、小高い丘を越えた時、それを見つけた――。
馬車が道を進んでいる。
そこに、王女と一緒にいる。
歓喜に打ち震えながら、彼女は降り立った。
――間違いない、いる! 絶対に!!
砂漠で水を与えられなかった獣がオアシスを見つけたように、四肢を振って懸命に走る。
感覚が、彼がここにいると教えてくれた。
そして仲間の獣刃族の戦士たちも追いつき、馬車を完全に包囲した。
一族の考え――王女ヒルデブルクを盾にして“黒真珠”であり砂の民の王となるヴィネを引き渡すようにマルテ王国と交渉する作戦も看破され、いよいよ空気がヒリついた時、
「――それより、そこに隠れている子を、そろそろ紹介して欲しいんだけど?」
シトリーは我慢できずに彼を呼んだ。
獣は馬車を真正面に見据え、視線はずっと幌の中へ注がれていたのだ。
――……うん、今が、証明の時……。あの時はよくわからなかったけど、今なら確信が持てる。あたしは、あたしの願いは……――
黄水晶は今や情熱に彩られ曇っている。
――まず、試さなきゃ
闘って証明する。
彼が強くなっているか、本当に魔光の柱を立てたのがあの少年なのかを知らねばならない。
本能に従い、獣は牙を剥く。
そこには悪意も憎悪も存在しない。
おかしなことに“親愛”と“闘争”を抱いて相手に挑もうとしている。
弱ければ、喰われる。
彼に勝てば、「強い子」を残せる。
弱者が強者に従うのは常である世界だが、どちらに転ぼうと彼女にとって悪い結果にならないことに彼女自身はまったく気づかないまま、戦いの火蓋が切られようとしていた。