14 黒い砂
眩いほどに晴れ渡った空の下、草原を駆ける“黒”。
右手の小高い丘から見下ろす猛獣。それがバッと飛び降りては幌馬車目掛けて駆けてきたのだ。
闇から切り取られた影が躍り出る――黒豹だ。
驚くべき速度で地を蹴り、近づいてくる。
何か、狙いを定めているのは明白である。
向かってくる一頭の立っていた丘の上――黒い影がニョキっと顔出し始めた。
続く五頭の猛獣が、後を追い獲物に向かってひた走る。
紅蓮の魔王が手綱を引き、馬車のウマを止めた。
速度を出しても追いつかれるとわかっていたからだ。
そして、あっという間に周りを六頭の豹が囲んだのであった。
「盗賊ですか? 生憎、金目のものは何も持ち合わせていませんよ」
紅蓮の魔王が穏やかな神父のふりをして言う。
ザッと周りを囲み、正面の一頭が笑った。
「我らが賊だと? そんな下賎な者ではないわ」
追いついた一頭が低い女の声で不機嫌に鳴く。
「まぁまぁ、フラウロス。こんなご時世、そういう奴等もごまんといるから間違われても仕方ないでしょ。俺たちは――そうだなぁ、使いっぱしりの雇われ者、かな?」
宥めるのは、調子のよい若い男の声。
「…………そちらを襲うつもりはない。そのつもりだったなら、止まって会話をする意味もないでしょう」
気を荒くした女――フラウロスが少し反省したような声で言った。
それら全て、黒豹たちの口々から発せられていた。
「えぇ、確かに」
神父は平静に同意すると、
「――ふぅん。……ヴェルミの人族なのに、よく私達が獣刃族と気づいたね、神父さん。それにすごく落ち着いている」
正面に佇む、一番最初にやってきて進路を塞いだ一頭が無邪気な声で笑って言った。そこで数頭はハッとして顔を見合わせていた。
「いえいえ、襲われないかとヒヤヒヤしていたところです。ところで何の用でしょうか?」
それに対し、微笑みを返す聖職者。
正面の一頭の一言があったから気づけたが、確かにこの男、不気味なほどに落ち着き払っている。
一瞬、フラウロスは説明すべきか迷ったが、言う。
「…………ある人物を捜索している。橙の髪に琥珀色の瞳を持つ少女です」
幌の中に逃げた颯汰がちらりと視線を移すと、該当者がビクリとしていた。彼らはマルテから派遣された者たちであると颯汰は確信する。
ならば好都合であると少年がほくそ笑んだ時、馬車の外、道を塞いだ一番乗りが、軽々しく語る。
「面倒だから言っちゃうね? 私たちはアンバードの獣刃族じゃないの。マルテの連中に脅されてる」
「!! シトリー!?」
フラウロスが驚き、一番乗りの娘――シトリーの名を叫んだが、シトリーは悪気もなく答える。
「え、だって。そこの神父さん、もう私達の正体見切ってたみたいだし、それにその馬車の中に王女さまいるし。ねえオセ?」
そう、彼ら獣刃族は追うべき対象がここにいると、はっきり気づいていた。
「…………まぁ匂いでわかってたけどよぉ。物事には順序ってもんがあるだろ、次期族長さまよぉ?」
シトリーは軽薄な若者のような男声を発した豹の方へ頭を向けて言ったのに対し、オセはやれやれと呆れながら答える。
少女へ颯汰は視線を投げかけると、ぷるぷると震えるヒルデブルク王女。――大丈夫。沐浴もしてたしクサくないよ、とも声はかけづらい。
どうしたものかと考えあぐねていたが、少女は弾丸の如く飛び出していく。
顔を真っ赤にして、火を噴く勢いで神父の隣に立ったのだ。
「ニオイとか言わないでくださいまし!」
「ほら、甘い匂いがきた」
自身が誰であるかを思い出して咳払いをした少女は、胸を張って宣言する。
シトリーの呟きは王女には届かなかったようである。
「控えなさい! 私を誰と心得ますの! 私はヒルデブルク! ヒルデブルク=マギウス=ルスト=ピーク!」
当然の輝かしいドヤ顔に対し、獣刃族たちは跪く。
そう、ヒトの――あるべき姿に戻ってだ。
髪の色は黒く、瞳の色は豹の姿と同じく金緑石を思わせる。肌は薄っすらと焼けたような濃さを有している。衣服は皆、上下と腰巻の布とも黒で統一されているが、へそや肩は露出している。寒いわけで日の光を吸収しやすい黒を選んでる訳ではないようである。
一人一人装飾品や髪の長さも違い、個性があったが総じて露出が目立つ。
でも一番目を惹くのはやはり頭の上にちょこんと乗っている獣耳だろう。更にしなやかな尾もある。
「あ、はい知ってますよー」
「いやマジよく生きてましたね」
セミロングの跳ねっ毛のシトリーと、長髪を束ねた男のオセが跪きながら無礼な口を利く。
「ちょっと! 頭下げてますけど、無駄口が多いですわよ!? ……どうせあなたたち、私を連れ戻すようにお父様に命じられたのでしょう! ヴェルミの奥にまでやってきて!」
王女はぷんすかと激昂するが、相手を威圧する恐ろしさはまだ持ち合わせていない様子である。
「え、ええ。国王様に言われたのはそうですけど? (……というかここは、どちらかと言えばマルテよりのアンバードなんだけど)……とにかく、わかっているなら帰りますよ~」
オセが若干困惑げに頭を上げて言う。
怒る王女はぷいっと顔を動かして拒絶の意思を固めた。
「嫌!」
「『嫌!』って言われても困るんですけどなぁ。国王様が待ってますよ?」
「お父様なんて知りません! 私はベルンに行きますの!」
黒豹一同が何で? という視線を神父に投げかけたが、『さぁ、わかりません』という両手を開いて首を傾げるジェスチャーで答えた。
「私はヴェルミの王都に向かい、王様に会って――……」
颯汰たちも理由を聞かずじまいで、ここまでやってきていた。
少女は吸った息を吐くのを忘れているかのような長い沈黙の後に、
「……――相手が誰であれ、妄想を他人に語るのは厳禁であると爺やが……」
自らの口を押さえてしまった。
「いや何を言おうとしたんだあの娘は」
思わず颯汰が中で小さな声をあげた。
まさか王女が自分の美貌に惚れ込み、恋に発展して……などと、砂糖をキロ単位で口の中に絶え間なく流し込むレベルに甘過ぎる――現実を直視していない妄想を抱いてるとは誰も考えつかないでいた。
「と、ともかく! 私はマルテへ戻りません! この人たちと一緒にベルンに参りますの!」
「姫様、我儘はいけませんよ!」
つり目から真面目さが伺える長髪のフラウロスが訴えかける。年齢は二十代半ばぐらいだろうか。
遊びを知らぬ、勤勉さだけで生きてきたように見える顔つきだからより一層大人びて見えるから実際もっと若いのかもしれない。あと服装も比較的露出は抑え目だ。比較的だが。へそは出してる。
わいわいがやがやと言い合う中、誰か止めろよと部外者である少年が思い始めたのとほぼ同時に、一つ、浮かんだ疑問を口にし始めた男がいた。
その時、吹く風が、ほんの少しひんやりとした冷たさを帯びていた。
「ところで、何故、貴様ら獣刃族がマルテとやらの人族の肩を持つ?」
神父――いや、『魔王』だ。
服装こそ先ほどまで同じく変わらないのに、口調ひとつでこれほどまで与える印象を変えるのかと驚嘆に値するほどまでに、この場の空気を打ち壊した。
困惑から生まれる沈黙――。
そして息を呑むが状況をあまり呑み込めないまま、フラウロスが警戒心を露わにして問いに答える。
「……我らの宝が奪われた。それを取り戻すためだ」
その目と、言葉に、計り知れないほど重いモノが圧し掛かっていたからこそ、
「宝……? 金銀財宝、という雰囲気ではないな」
魔王は鼻で笑ったが、本質を見抜いていた。
知っているがあえて口に出させるような底意地の悪さを感じずにいられない。
フラウロスも一同も、何となくそれを察知できたから沈痛な面持ちだったのだろう。
「我らが“黒真珠”――獅子の子ヴィネだ。砂の民の王に相応しき『タテガミを持つ者』だ」
「なるほどな」と魔王は、静かに頷いた。
幌の中で置いてけぼりの二人の内、一人は疑問符を浮かべ、一人は何を考えているかわからない。
幌の外で一番に反応を示したのは“黒真珠”を強奪した――つまりは人質に取っている王族の娘であった。
「!? ヴィーくんが……!?」
驚きの余り、今度は両手が口を塞ぐように置かれた。
「姫様は知らなかったのですね。まぁ聞かされなかったのも無理もありませんか」
溜息を吐いて、フラウロスは続ける。
「貴女のお父上様が命じた事です。マルテ国王が、奪った“黒真珠”を盾に我ら一族を手駒とした。――姫様を連れ戻すように命じられ、我らはその命に逆らえません」
ヴィネは王宮で何度か顔を合わせていたが、まさか“飼われている”とは王女は思っていなかった。
「そんな、ヴィーくんが……! あなた達は、ヴィーくんを取り戻すために……? そんな……」
「姫様、我々と共に帰るのです。……今や国王は血眼となって捜索を命じております。その意味が、おわかりですか?」
少女は、わからず沈黙する。
「……宮廷神託士殿のお告げで、我々はここに派遣されました。そして、万が一に備えて、兵まで揃えています。奴隷ではなく、正規の兵士を」
――神託士? それに兵って……!
宮廷神託士という颯汰には聞きなれぬワードであったが、実はこの世界の今の時代、名前や手順が多少違えど似たような役職の者が大抵の国にはいる。占星術士あるいは魔術士などだ。
神託士の場合は、枕元に立つ“神”の声を聞き、それを王に告げる仕事をしている。
「王女が生存している事」「どこにいるかある程度予想できた事」からただの夢と馬鹿にできない精度をもつのだろう。それが偶然か必然かをはかる術を王も民は持ち合わせていない。さらに神託を疑うのは“神”を疑う事と同義であるとされ、今もマルテでは神託士の権威は大きい。
「神託士殿は『万が一』と仰りましたが、姫様が敵の手に落ちたならば、取り返すべく兵は血を流すでしょう。……姫様がご帰還なられるなら、争いもなく事が済みます」
「!! ……そんな――」
少女に動揺が奔る。
フラウロスは立ち上がり、ゆっくり歩いて馬車の上のヒルデブルクに手を差し伸べた。
「さぁ行きましょう姫様」
ヒルデブルクは迷い、震え、俯く。
「……神父さま。お詫び申し上げます。――私をここまで送ってくださって、誠にありがとう存じますわ。私は、マルテへ、戻らねば、なりません……」
声も、弱々しく、震えていた。
颯汰は胸の内に、綿よりも軽いが粘液のように纏わりつく、靄のような物がわだかまる不快な感覚があった。
「…………ッ」
これでいいはず――これで面倒事もなくなる、と思いながらもスッキリとしない。妙な苛つきがあった。釈然としない感じ。彼女が何故マルテから離れようとしたかはわからないままであるが、そんなもの颯汰には関係ない事であり、彼女が自分を押し殺して王の下へ戻るのが誰も傷つかずに済むのだ。
これで、いいはず、なのだ。
それなのに、ただ少女が悲しそうに俯く姿を見て、心がキュッと締め付けられる思いがした。
咄嗟に、右手が上がり足も一歩前に出た時――
外の少女が差し伸べられた手を、屈んで掴もうとした――
ちょうど、同じ時である。
「待て」
魔王が言葉だけで止め、続けて言う。
颯汰はスッと手を引いては下がった。
また空気が変わる。今度はひりつくようなピリピリとしたものであった。
「…………あぁ、姫を無事連れてきて下さったお礼ですか? 当然、国王が恩賞を用意してくださるでしょう。そうですね、それなら同行しましょうか。一緒に――」
何か衝撃があればそれだけで爆ぜて燃え広がるような危うさがあった。
だからフラウロスは探るように言葉を身長に選んだつもりだった。
最後まで言わせず、言葉を遮ったのは、紅蓮の魔王である。
「貴様たちが、必ず小娘をマルテへ送り届けるという確証がないが?」
「こむっ!?」
冷たき声でさらにピンと引き締まる中、姫は驚き変な鳴き声の小動物みたいな声をあげる。
「…………どういう意味です?」
フッと魔王が嗤った。静かに、嘲るように。
「貴様たち、よもや王に姫を献上して終わり、ではなかろう」
次は、周りの獣刃族たちが動揺する番であった。
変わりないのはシトリーだけで、フラウロスも黙り込んで手を下ろす。
「………………」
「ただ返すだけでは、貴様たちの望む“宝”は永遠に戻るはずもない。小娘を人質として使う方が確実だと考えているのではないか?」
小さな騒めきが、起こる。
少女は神父を見た後、獣刃族を見て、咄嗟に立ち上がり、一歩退いた。
「――ッ!! 貴様っ!!」
周りの獣刃族が次々に立ち上がる。
――おいおい、どうする気だ……?
颯汰が影からその背を睨みながら小さく零す。
周りから突き刺さる様々な視線を気にしていない様子で、紅蓮は冷徹に語る。
「確かに上手くいけば貴様らが望む“宝”は取り返し、晴れて自由の身。……もし同行すれば、我々は道中で口封じで殺される、だろうか」
真意を看破し、それを当人たちに突きつける。
戦いのときはただただ敵を滅ぼす兵器のようであるが、ヒトをおちょくる時は実に楽しそうに人間的に見える。悪魔かこの男。
「――だがもし真珠とやらが取り返せたとして、遅かれ早かれどちらも血を流す事は必至だろう。例え貴様たちが小娘を丁重に扱い、返し、“宝”を取り戻したとしても、権力者はそれを踏み躙るものだ。王族を人質としたとなれば尚更だ。牙を剥いた相手は徹底的に粛清しに動くぞ。約束なぞ反故して当然とふんぞり返ってな」
その新緑の瞳の奥に燃える炎は紅く、燻らずに未だ憎悪が焼き付いているのに、一体だれが気づけるだろうか。
しかし、その言葉は実感が宿っていたからこそ一同は怯む。少女は、動けずにいた。
「あんた、何が望みだ……?」
オセが、警戒心を剥き出しで尋ねる。
返答次第で空気は燃え上がり、血が流れるだろう。
そんな不穏な空気と相反し、爽やかな青空は茂る黄色い絨毯の上に広がっていた。