10 恐慌
森の中――人が通らぬ獣道を進むのは危険であるのは当然として、ウマで爆走するのもまた危うい。
普段と異なる速度で動く、視界に映る鬱蒼とした葉の乱舞の中、馬上の素人ではそれに気づけるわけもないだろう。ましてや十三の少女には。
ウマが悲鳴を上げたのと同時に、身体を襲う浮遊感と暗転する景色――。
ウマの前足をとらえたのは縄であった。
木々の間を通り過ぎようとした直前に、罠が飛び上がったのだ。
何処から盗み出したのか、見た目は自然界に自生するそれに見える人工物――ジレザの蔦までを用いた巧妙な罠が、飛び越える間もなく出現したせいでウマはバランスを崩して少女は落馬する。
王女は凸凹とした土と泥と、苔や草が生える地面に、ゴロゴロと転がった。
貰った布の服は汚れ、端正な顔にも泥が付く。
擦りむいた膝や手のひらだけではなく、全身が酷く痛むがそれ以上に血の気が引いてしまう。
王女ヒルデブルクが顔を上げた時、“敵”は魔猪から飛び降り、罠を張っていた者たちは草むらの陰から這い出るように現れる――合計七匹の隊が残忍な顔を光らせた。
亜人たるゴブリンが少女に迫る。
手には木を荒く削った棍棒。
品性の欠けらのない緑色の顔。
毛のない頭を掻きむしりながら、唾液が零れる口からは牙を覗かせる。
王都から初めて抜け出した少女は、自分と対極に位置するその存在を目にして頭の中が真っ白となる。
諦念も、理不尽に対する怒りすらもない。
救済を求める感情すら、恐怖に圧し潰されたのだ。
囲うように、じりじりとゴブリンたちは距離を詰める中、一匹だけが手に持った羊皮紙のようなものを見つめ、少女と交互に見合わせていたがヒルデブルクがそれに気づける余裕はあるはずもない。
恐怖で気が保てる限度を既に超えてハングアップを迎えてしまうが、意識だけはこの窮地を乗り越えようと最低限の働きをしてしまう――それが却って恐怖を煽り、ますます身体が動かなくなるのだが。
ゴブリンたちは皆似たような恰好であるが、個性が微妙にあるらしく、絶えず周囲を見渡す者、獲物に対して舌なめずりを行う者と万別であった。
何やら独自の言葉を発するがまるで何を言っているか理解できない。ギャアギャアと叫び、笑い、何かゴブリン同士で会話をしていた。
一匹のゴブリンが棍棒を掲げながら近づく。
まだ振り下ろしても当たらない距離だが、じわりと近づく。
少女は雷の如く、起き上がりすぐにこの場を離脱するつもりであったが、逆に雷に打たれたかのように身体が痺れて動かない。いや――纏う空気が泥土のように泥濘み、動きが緩慢となっていると言った方が正しいか。震えが止まらず、終わりが近づく。
その現実を認めないと瞼がぎゅっと閉じる。
耳も両手で塞ぎ、気味の悪い声も途絶える。
暗闇の中、恐怖よ消えよと唱える余裕さえない。
無縁であった“死”が、憧れの外の世界では平然と転がっている事を少女は知らなかったが、防衛本能だけは忠実に働いたようだ。
それで現実は、恐怖は、暴力はなくならない。
彼女の命運はここで尽きてしまうのか思われたその時、一匹のゴブリン――辺りを警戒していた者が声を上げた……のより少しばかり早く、風を切る音が響いた。シュッと落ちる木の葉を、纏う風で払いながら、それは少女に最も近いゴブリンの掲げた棍棒に突き刺さる。
「!?」
その勢いで手から棍棒が落ち、何事かと持ち主は零れ落ちた物を見ると一本の矢が突き刺さっていた。
驚き、飛来した方向へ視線を向けると、
「そこまでだ」
まだ幼く高めの声。
やなぐいからもう一本、矢を取り出してはすぐに短弓にあわせ弓弦を引いて構えて言う。
「次は当てるぞ」
格好こそは旅人のように外套を羽織る少年であるが、その目の奥に宿る冷徹さが浮いている。
相手が子供であるのに関わらず、彼らは理性的ではなく本能的に慄いてしまう。
ゴブリンたちは訳がわからなかった。
確かに亜人はヒトを恐れる。
森に棲み、危険な天敵となるヒトと関わり合いを持たぬように生きていた。
とはいえ自分のテリトリーを侵す輩や小さな子供程度ならば問答無用で襲う。
ヒトの報復は恐ろしいが一人程度となれば、森の魔物や事故で死んだとみなされる……と気づく者はそう多くないが、積極的ではないにしろ、集団で襲えば余程武装していなければ敵ではないから襲う。
まして子供など殺すのに容易いと知りつつも、この眼前で弓を引く子供に何故ここまで恐怖を覚えているのだろうかと混乱していた。
「その子を置いて森に帰れ。そうしたら俺たちだって何もしない」
そう言いつつ弓の向きを変え、矢じりを奥の木の上で隠れている伏兵のゴブリン二匹の方へ右、左と動かして見せた。
「!?」
ゴブリンたちはぎょっとして獣声をあげる。
伏兵の存在を看破された衝撃。短絡的な思考で、すぐに目の前の敵の排除を敢行する。
奇声を上げながら他のゴブリン四匹が棍棒を振り上げながら跳梁しようとした。
だが、直後に現れる真の災厄に、彼らはすぐに足を止めることとなる。
「――騒がしいな」
「ぅぅ……」
二人の大人――。
男は黒衣、その背に乗る白衣の女。
片や凄まじい魔力を、片や強烈な怨気を放つ。
木の陰からそっと出てきた保護者たち。
奇妙な佇まいであるが尋常じゃない気配を持つ大人たちに、ゴブリンたちは急ブレーキをかけ、中には転ぶ者もいた。
横目で子供――立花颯汰は紅蓮の魔王と女医のエイルを見やる。
「この程度の相手ならば余裕だろう、と見守るに徹しようとしたがこの医者が煩くてな」
「いや俺、怪我人で子供だから九匹とか普通に荷が重すぎるんですけど」
正面を見据えて文句を垂れる颯汰。声こそ呆れを出していたが表情に緩みはない。
ゴブリンたちは挙動不審でありながら、やって来た“敵”たちを注視し続けている。それを再度少女へと意識を向けられると厄介極まりないのだ。
元の姿で戦闘だけであれば、颯汰は後れを取る事はないと考えているが、今の状態では少女を守り切って戦う事は到底できやしない。
――しかし、どうする。思ったより数が多い……この魔王、やる気ないし
冷静に颯汰は考える。
矢の数はそう多くない。加えてエルフと違って弓の腕は百発百中なんて自信はない。この距離ならば前面にいる相手は射貫けるだろうけど、奥にいる二体は隠れているからどうしようもない。気配を殺している他に仲間がいた場合、こちらの身の危険はどうとでもなるとして、倒れている女の子はまずい。
初動で何体か倒したとしても、もし人質を取るといった行動をされれば全部水の泡だ、と。
「――であれば……」
敵の戦意を奪い、撤退を強いるのが得策だ。
紅蓮はどうも、苦難に対して積極的に颯汰に解決させようとするきらいがある事に気づいた少年は、紅蓮が他の魔王以外に対して王権を使うつもりはないだろうと看破していた。
王が魔神のような姿になれば、ゴブリンたちもさっさと逃げるに違いない。しかし紅蓮の魔王は平時に力を行使しようとしない。表情こそシャンとしているが、仮に少女が殺されそうとなろうが、星剣さえ出そうとしないだろう。
大事のために小事は切り捨てる――いや人命に関心すら抱いていないように思える。
種族間の相互理解という果てしない理想を掲げているが、きっとこの男は“個人”に執着をしていないのかもしれない。
それか単に、本気で颯汰一人で切り抜けられる試練であると断じているかだ。であるとしたら過大評価も甚だしい、と颯汰は思う。
「俺が、やるしか……ないか!」
此度のゴブリンの襲撃に少なからず“責任”を感じたからには、自分が果たすべきだと覚悟を決めた。
颯汰は短弓と矢を投げ捨てた。
自分が成せる最大の武力――自身の中にいる“獣”を呼び起こす。
“デザイア・フォース”。
迅雷の魔王さえ滅ぼした――天を裂き、地を塗り替えた闇の力を再び身に纏わんとする。
左腕を曲げて斜め上を向いた手を握り締め、力を溜めるイメージを脳で創り出し、そしてその腕を下げると同時に空いた右手を真っすぐ天へと突き出し、その名を叫ぶ。
「デザイア・フォ――どぅふッ!?」
台詞の途中、何か重い物体が颯汰の側頭部を襲った。
その勢いでゴロンと思い切り、左の方向へ吹っ飛び、視界が明滅する。混乱する頭と身体を即座に起こし、柔らかい土の汚れを気にせずに右にいる保護者たちを見た。
「それは、駄目。また血……吐く。危、ない」
エイルが静かに言う。どうやら彼女の長い髪に隠れていた医療道具などがずっしり入った背嚢を投げつけたようである。
女性は荷物が多いと一般的に言われているが、紅蓮が肩に下げていた鞄だけでは足りなかったようだ。……彼女の場合は全て医療用の道具だけであるから少し世間からズレているが。
「いや今のが一番危ないと思うんだけど!?」
つい最近その力を使おうとして喀血して倒れたゆえにまだ使うなと注意したのだろう。
首の鈍痛を摩りながら叫び颯汰を無視し、「ここは任せて」とエイルはするすると魔王の背から降り立った。急な来訪者に驚き足が竦み、急に仲間一人をぶっ飛ばした事にビクリとしたゴブリンたちは混乱が加速する。そうなればもう、次の行動は効果てき面となるのだ。
混乱は正常な思考を奪い、さらに外部の刺激を受けると劇的に反応を示す――。
「……ゴブ、リン、はじめて、見た」
ゆらゆらと不安定な動きで“黒髪”が揺れる。
ぎゃあぎゃあと忙しない声を上げていた者たちはもういない。全員がその蠢く自然界にあり得ない異形の存在を凝視するほかなかった。
「……ゴブリン、の、血って……緑って、ホントぅぅぅ??」
「ギ、ギィ?」
「ギャッギャ……!」
『あ、このパターンは』と颯汰は小さく零す。
緑の小人たちは訳も分からず、恐怖に縛られる。
「予備に二匹……いや、三匹、欲しい。ちょうだい? ねぇ? いい、でしょう……? ね? ちょうだい、ちょうだい、ちょうだいちょうだいちょうだいちょうだいちょうだいちょうだいちょうだい」
段々早口でブツブツと呟くエイル。彼女は摺り足で移動しているかのように身体を揺らさずに距離を詰めるものだから余計に恐怖を助長する。
何のためにエイルがゴブリンの捕縛を求めるか、あまり想像したくないものだ。化学も医学も発展のために犠牲はつきものとは言うが……。
――怖ッ!!
颯汰も思わず顔が引き攣らせるが、やはりその効果は抜群であった。
「――ギギ!」
「ギャ!?」
「「ギャ、ギャギャ!!」」
「「「「ギィヤァ~~~!?」」」」
ゴブリンたちは奇声――否、悲鳴をあげて少女に目もくれずに走り出した。
まさに狂乱の渦に陥っていた。
彼らの中に、ヒトの話す言語を理解している者はこの場においてはいなかったのだが、あの“黒い魔物”に捕まれば最期――死が待っているとその姿と立ち振舞いから安易に予見できたのだ。
脳内で『ゴブリンたちが皿の上に盛られ、ナイフとフォークを持つ白い四肢と黒いカーテンから覗かせる紅い捕食者の瞳』がイメージできたらしいが、それを颯汰一行が知る由もないが、脅える感情はわかると少年は納得していた。
木の上で隠れていた者たちも転げ落ち、手に持ったもの全て捨てて逃げ出していった。
細い手足を懸命に振って、脂汗を流しながら森の緑に溶けて消えていく。
「……!」
無言で颯汰たちがいる後方を振り向き、親指立ててサムズアップするエイル。
「…………女性としてそれでいいんすか?」
嘆息を吐いた後に颯汰が問いは流され、まだ痛む首を摩りながら、彼は少女に声をかけた。
「大丈ぶ……って、ヤバい! なんか魂が抜けてる抜けてる!」
ほわーっと口から霊魂が抜け出したかのように放心して白目を剥いている少女ヒルデブルク。
先ほどからいやに大人しいと思ったがゴブリンたちに襲われた恐怖とそれに加えてエイルの出で立ちで臨界点を突破したようだ。
「問題……ない、気、失って……るだけ」
さっと少女に近づいて触診した女医は断言する。
「助けたが、どうする? 少年」
「どうするって……う~ん……」
若干ながら、自責の念を感じている颯汰は地上に戻った後にどうやって、彼女が追われている事を知ったのかというこれまでの経緯を思い出していた。
前回は外伝「seed 01」を投稿しました。
週一更新は守ってます。
ちょっと遅いけど。
次話はどちらの方を更新するか決めていないので、投稿する前日辺りにはTwitterの方でなんか呟いているかと思います。
2018/03/13
一部誤字の修正。