09 幸運の姫君
端的に言えば、彼女は“不幸”である。
おそらく彼女が人生で味わった経験で、今が一番、恐怖を感じている事だろう。
ウマは嘶き、全速力でその少女を運ぶ。
彼女は跨ったその背に、ぎゅっと身体を押し付ける以外に、取れる行動がない。
「キャァア、ッシャアアア!!」
叫ぶ声が一向に離れない。
襲い掛かる者たち――亜人『ゴブリン』たちが追って来ているのだ。
体色は緑でゴブリンは大人でも、追われている十三才の人族の少女と同じ程の体躯である。知性もヒトの子並みにはあると言われる彼らは皮の鎧と腰布を身に着け、手には石が括り付けられた棒を持っていた。
彼らと同じく凶暴な見た目で大柄の猪に騎乗し追走しているのだ。
森の中、魔猪にそれぞれ一匹ずつ――計三匹が走り、その前をウマが邁進する。
混乱と失意が少女の心を苛む。
「……すけて、誰か……助けて……!!」
双眸に溢れ出す涙は風に掠め取られ、悲痛な声を乗せて散っていく。
まだ幼い人族の十三の少女は救いを祈る。
それは神か、ヒトか、悪魔にか――。
少女はただ祈る。
この恐怖を終わらせて、と。
――……
――……
――……
およそ二週間前――。
ヴァーミリアル大陸南部――マルテ王国の王都ロッソは建設時以来、これまでにないくらいに慌ただしかったと言える。
奴隷が反乱を起こしたわけではない。
その程度は慣れているし、暴徒鎮圧も容易だ。
北部城門の先からヴェルミやアンバードといった敵国からの侵攻を受けているわけでもない。
防壁の外で亜人たちも空に昇る謎の光の柱を見てから騒がしいがそれも所詮、些末な問題だ。
問題は、王都の内側で起きていた。
「姫が、逃げ出しただとぅ!?」
まだ小柄で幼い――実年齢よりも少し子供っぽい容姿ではあるのだが、それでいて王族らしい、選ばれた血筋の者のみが持ちうる高貴さを携えた少女。
風に搖蕩う豊かな橙。落陽を帯びた金色の――稲穂の高原を思わせる髪は、青い朝の穏やかな海のリボンで結われている。
白のドレスに大きな琥珀の瞳を持つ可憐な少女――王女ヒルデブルクが姿を消したのである。
「さ、探せ! 早急に!」
王は激昂し、侍女たちに命令を下すが時すでに遅し。
ヒルデブルク王女はまんまと王宮から脱出し、さらに大型の交易船に潜み、出航した後であった。
――ふふふ、上手くやりましたわ!
どこぞの誰かと同じく木箱の中に身を潜め、微笑む。
もう帆を張って船は動き出したのか覆う箱がゆらゆらと揺れる出した。
――これより私の大冒険が始まる。…………決して安易な家出ではないので、その辺は勘違いなさらないようにお願いいたしますわ
何故か誰かに語り掛けるように彼女は心内で言う。
事の発端は十三歳となった次の月――父王から縁談の話があがり、期待と希望に胸をときめかせていた乙女であるヒルデブルク。
憧れていた“恋”が始まると知れば、その昂りは抑えきれないのは致し方ないというもの。
日が沈み、天蓋付きベッドのシルクの窓を開け、枕に顔を埋めて寝入っても落ち着かず鼓動が止まないまま日が昇り――、その日の習い事では注意を受けてばかりであったという。
――どんな方が相手なのでしょう。ヴィーくんは種族的にお父様が紹介するのはあり得ないとして……騎士侯のヴェル様? 線が細く、あの甘いマスクは人を惹きつけるけど……。イゴール様の御子息である大戦士リベルト様? 身長は私の倍近く……とてもたったの六歳差とは思えませんわね……あちらも私を未だ童女扱いですケド。それとも衛士のあの方? 一見すると不愛想、でも本当はただ真面目で緊張しいなだけでいい人。ありえます。ジョシュアは……ないですわね。単なる幼馴染ですし、あっちもその気はないでしょうし。双聖剣使い……のおじさまはちょっと年上すぎるかしら
相手は誰? そしてこれからどんな輝かしい日々が始まるのだろうか、と火が付いた想いだけが積み重なり、焦がれていく。
しかし昼に相手の名を聞いた瞬間、無垢な心と明るい未来は砕かれて散ってしまう。
――お父様が悪いのです! あんな方と結婚なんて……――ッ無理……!
船酔いではなく、王が選んだ婚約者の姿を思い起こし、顔色が悪くなるのが彼女自身わかってしまう。
この王女、相手を見た目で判断するほど愚かではなく、また王族としては、分け隔てなく接する部類の変わり者であったが、それでも あれは『ない』と断じてしまうほどであった。
まだ成人ではない乙女――美醜に対する一家言を持っているわけではないと知りつつも、心と魂が拒絶してしまう。
大貴族・オズバルド公爵――。
横が縦の二倍弱。
漂うきつい体臭。
いやらしく舐めまわすような目つき。
ゴテゴテとした成金趣味の装飾や指輪。
それに加えて彼の噂は悪評だらけ――。
いくら王族には政略結婚が付き物であると理解していようと、言いつけを守り、王都から一歩も出たことがない少女があろうことか国外へ逃走を計るレベルに拒絶反応が出てしまった。
――でも私は、……幸運ですわ!
麗質を備えた姫君は、妙に自身のつきの良さを信じ切っている節がある。
勢いに任せて逃亡を計ったが、今後の方針はある程度頭に思い描いている。
――……交易船。たしか西のカエシウルム大陸は魔物が大量にいる暗黒大陸で、長らく交流すら出来ていないから……きっと北端のアルゲンエウスですわね! 東西でシルヴィア公国とニヴァリス帝国に分かれてる……。どっちにつくのかしら……? 二つの国は、昔は戦争していたと習いましたわ。 二つの国、二人の王子。もし、二人がもし、私に求婚なされたら……あぁ! どうしましょう! 私をめぐって争いが起こる……! 平穏が破られ、禁断の逃避行! 互いに誓い合った愛――廃墟の教会で式を挙げてる最中に「貴女を諦めきれない!」なんて乗り込んできて決闘が始まるの! 私が「私のために争わないでくださいまし!」と二人を止めに入って……ふふふ、ぐふふふ!
……ヒルデブルクは世間に疎いのは何も彼女のせいではない。王女という立場――環境が彼女を地に縛り付けたのが問題なのである。
戦争の悲惨さや決闘の末に待ち構えているものが何であるかをあまり頭で理解していない。
宮廷で行われた決闘ごっこ――決められたシナリオの茶番劇が、自分が愛されて当然であるという驕りさえ彼女の中の真実であるのだ。
橙がかったクリームのような明るい髪色と同じく、彼女の心は明るい。
少し勝気な瞳は幸福な未来を確信していた。
手入れが行き届いた縦ロールの巻き髪を、自分一人ではセットすら難しいというのに楽観的である。
血を流す痛みを、彼女は知らずに生きてきた。だからこの先に起こる数々の悲劇は、そんな彼女のために与えられた試練なのかもしれない。
実際、船はアルゲンエウス――シルヴィア公国へ向かっていたはずであった。
基本的に航海は陸地を沿って進むのが一般的である。未開の地を目指す冒険ではないため、それが確実であるからだ。だけど、敵国であるヴェルミを刺激しないため北上する際は、海側に少し迂回して通るのが暗黙の了解であった。互いに海の上の男同士――漁などをしない限り因縁をつけたりはしないが、そこはきっちり守る必要があった。
出航から数日が過ぎ、ヴェルミの港町カルマンを過ぎた辺り、陸地へ寄ろうと船の向きを変えた時だ。
「嵐が来るぞおぉおお!!」
「――!?」
突然の嵐に見舞われ――船は転覆。
荒れ狂う高波に交易船は飲み込まれたのだ。
突然発生した嵐と船の整備不良、船乗りたちの急病による不調などが重なる中で襲われ、全てが海の藻屑となる――。
「…………………………けふ」
ズタボロとなった船の残骸と共に、王女だけは波打ち際に奇跡的に流れ着いた。
「…………ここは……? あるげんえうす大陸ですの?」
しかも、自力で立ち上がる。人族由来の頑強さ。
だが残念。ここは旧ヴェルミ領内――ヴェルミ地方南東の海岸である。
白波が立ち、遠くの海は少し色が暗く濃いが、ここは幾分も落ち着いていた。
しかし、晩春とはいえまだ水は冷たい。
「うぅ……身体中びしゃびしゃですわ……。それに船員の方々は……?」
王女、異国の地にて、ただ一人。煌めく白い砂浜の上、濡れたドレスのまま歩き出す。
青のリボンも解け、海に溶けては消えていた。
最初は海岸付近で船員の安否を確認するものの、誰一人見つからなかった。
それまでもずっと一人であったのに、寂しさが急に募るのを感じて胸が苦しくなる。
少女は手を組み、静かに海に向かって彼らの無事を祈り、その場を去ったのだ。
小さな足は早々に悲鳴を上げる。
寂しさと疲れ、心細さと痛みが容赦なく襲う。
だが王女は決して弱音は吐かなかった。
「私は、……ついてます……わ……!」
そう言って十三の少女にしては長い距離を歩き、ダロスと呼ばれた村の前で行き倒れとなったのだ。
確かに、それまでの道程で賊や魔物などにバッタリと会わなかったのは幸運であり、親切な旅人に救われたのもそうではあるが……。
そのまま宿屋を経営する夫婦に気に入られ、安物であるが憧れの“人民の服”――別に特別でも何でもない布の服をいただけて、それらに袖を通すようになってから、さらに数日が経った。
「ダロス……初めて聞いた村ですが、この御恩……私は忘れませんわ!」
胸を張って返礼を宣言するが、宛はない。
心配する人族の夫婦をよそに、彼女は前へ進む事を決意している。さすがにこのまま世話になり続けるわけにもいなかいと立ち上がったのだ。アルゲンエウス大陸は遥か北で遠すぎる。しかし国に帰る気はサラサラない。であればどうするかと考えた結果、「エルフの新王は人族に対して懐疑的ではない」という噂を信じ、一旦王都ベルンに向かう事にした。自身が王女であることを明かせば悪いように扱わないのではと楽観視した結果だ。敵国の一つであるのだが、戦も積年の恨みさえ、話し合いで解決できると思っているほど世間知らずであるゆえに。
「ウマを売ってくださらない?」
王女は、旅商人の元へ訪れた。
「あぁ、いいぜ。銀貨で――」
他の客を相手にし、よそを見ていたエルフの商人はその声の主を見て言葉が詰まる。
一瞬だけ金もない子供の戯言かと思えたが、怜悧そうな雰囲気から、ある程度は教養のある――貴族の子ではなかろうかとすぐに値踏みする。
どうしたのかと首を傾げる少女に対し、商人は慌てて手を振って答えた。口にした言葉は覚えてないが必死にその場を繕ったのは間違いない。
――この嬢ちゃん、どこぞの貴族に違いねぇ。だが一応吹っ掛けておこう。もし提示するバカ高い金額を払うような世間知らずなら、捕まえて親に身代金を要求するのもいい。値切るようならある程度旅に慣れているかもしれねえ。警戒もしているだろうが、後で仲間たちと……ぐへへ
王都ベルンとだいぶ離れているせいか治安はあまりよろしくない。組合証を持っていない商人はこういった類いが多く、信頼に値しないのだが、辺境でありこの地を有する人族唯一の貴族が死に、戦争直後であって人材も物資も不足――村人も止む無くどこの出かわからぬが、彼らを使うしかないのが現実であったのだ。
――……人族であるからアンバードやヴェルミではないのは確かだけど。……いや、まさかな……
「ごめんなさい。銀貨は持ち合わせていないの……代わりに、このペンダントでどうかしら?」
小奇麗な白い革袋の留め金をとめ直してしまい、首にかけていた革紐の先にあるペンダントを服の内側から引っ張り出して商人に見せた。
「――っ!? こ、これは……!!」
商人は息をのむ。
よもやマクシミリアン家の生き残りでは、と頭に過っていたがそれよりも質の悪い冗談のような、失笑して払い捨てた考えが正しかったのだ。
ペンダントに刻まれた紋章はとある国の王族の証――「上に欠けた月に輝く三つ星」。
国旗は蛇を掴むグリフォンで、奴隷に対しては鳥の足に捕まれた蛇の刻印というあまり良い趣味ではないが、こちらはシンプルで上品。
――これはマルテ王室の……こ、この嬢ちゃん! まさか! 王女さまじゃねーかぁ!?
驚き口から声が出そうになったが、あまりの驚愕に口の中で何かがつっかえて言葉がでなかったのがせめての救いだ。
「――っァ!! いや、いやいやいや! お、お題は結構! ああ! 後で、後で貰いますよ!?」
疑問符を浮かべる少女に商人の男は必死に語り、誤魔化した。これからやる事は、他者に内密にしなければならない。
「ところで目的地はどこへ? ベルン? そうかいそれは良かった! お嬢様、旅に一人は辛いでしょう? おっそろしい魔物や、危な~い盗賊だっている。だが安心なされよ! 俺たちの次の目的地もベルンさ。頼れる護衛もいるし、一緒にどうだい?」
「! いいんですの?」
「いいですとも、いいですともよ!」
少女の満面な笑顔の花が咲き、商人は微笑む。
そうして王女ヒルデブルクはまんまと騙され、北西のベルンではなく、南西のマルテ王都ロッソに行くために、荷馬車でまず西へ進み始めた。
商人一行はマルテへ彼女を引き渡し、恩賞を受け取ろうと考えたのであった。王女が何故この地にいるのか――どういう訳か知らぬし、彼らにとってはどうでもいい。そこらの貴族よりも大変な相手ではあるが、儲けるチャンスが自ら転がって来たとあれば利用しない手はない。
せめて無礼のないように努め、無傷で返せばこちらを無下に扱う事はないはずである、と。
そうして意気揚々と出発して四日目。
亜人――ゴブリンたちに襲われて、一団はバラバラとなって冒頭へ繋がる。
言うなればこの姫君は“不幸体質”であった。
(妄想癖は母親譲り)。
千字ちょっと削り、
全体のバランスが悪くなりましたが
彼女の個性は極力削らないように詰め込みました。