07 目的(前編)
湖の貴婦人は静かに膝から崩れ落ちる。
滑らかな肢体の先――か細い指先の爪を手のひらでぎゅっと食い込ませて、ごちゃ混ぜとなった感情を押さえ込もうと努めたが、脚に力が入らずその場にへたり込んでしまった。
“白亜の森”に振り出した雨は絶えることなく、憐憫の感情をたたえている。
たった五年、瞬きで過ぎていくような短い時間であっても、深く淀んだ憎悪を抱き続けた少年は、まだ苛烈な人生を自ら歩もうとしている。師は止めようにも、止められない。
それが彼の「生きる理由」であると知ったから。
憎き相手をを殺す事だけを考えて生きてきた者から、その“理由”を奪えば、果たしてどうなるか。
『何も、残らない』が答えだ。
結局のところ、復讐を為そうが「奪われたもの」は二度と元には戻らない――。
殺された者は蘇らないし、心に受けた傷を忘れかける事はあっても、完全に癒える事は決してない。
それに初めて気づいた時、もしくは目を背けていた事実と向き合った時、その虚しさに耐えられる者は稀だ。空虚となり、生きる意味を見失う者が大多数なのである。
復讐を実行し終わった後に訪れる強烈な虚無感、亡失は、狂い動かす機能を止める。目的を失い、また人として何かが欠落してしまう場合もある。
生きる意味を失い、亡くなった者を――或いは殺した相手を追って死を選ぶ者だっているという。そうなった者たちにとって、自死を選ぶか枯れ木のように朽ちるのを待つかに変わりはない。どちらも無味乾燥であり、終わるのが早いか遅いかだけだ。
湖の貴婦人はまず、それを恐れた。
復讐を終え、颯汰が廃人となってしまう事を。
生きる為の剣を教えた師であるからこそ、出来れば怨讐を忘れて、ただ平穏に生きて貰いたかったのだろう。
今、憎悪に燃えた頃の激しさは目に見えて鳴りを潜めている。だがその心はまだ折れてはいない。
一見すると奇蹟か、強い精神力を持っているようにも見えなくもないがそうではない。まだ生きる事を諦めていないのは心の支えが存在するからである。
それこそが彼の真の目的『元の世界への帰還』。
復讐の音によがり狂い、紆余曲折をしたが立花颯汰にとって「元の世界に戻りたい」という願いこそが最も重大なものであるのだ。
――その感情自体は、正しい
――復讐よりは間違いなく正しいはず……
大事な人や家族がいるはずの――元の世界へ帰りたいという気持ちは痛いほどわかる。
しかし、問題はその方法と手段があまりに限定されている点だろう。
現行で、仙界と地上は目に見えぬ繋がりがある。――それはかつて「ひとつ」の存在であった名残が、切り離された世界同士を結んでいるからだ。
一方、地球――颯汰や他の魔王がやって来た世界とは繋がりを有していない。
転移及び転生といった所業が可能なのはやはり『《神》に力を与えられた転生者』以外にあり得ないというのが人・精霊・竜種――種族を問わず、賢人たちの見解であり、それは正しい。
颯汰は現存する六柱の魔王の中の、誰か一柱に召喚された。これは揺るぎない事実だと記しておこう。
そう、彼は最悪の場合「全ての魔王」と会わねばならない。
それがどれほど危険な事か。
まず大前提として、魔王は“人でなし”であると考えた方がいい。他者を圧倒し、従わせるだけの充分な力を得た時――人の欲は際限なく暴走する。
そんな魔王に倫理観など、期待する方が間違っているというもの。会って即座に元の世界へ戻してもらえるといった保証はないのだ。
「紅蓮の魔王」は少し特例で魔王となっているが、残り五柱が「迅雷の魔王」と同じ精神レベルである可能性は決して低くない。そして、彼の魔王と同等かそれ以上の力を持っているやもしれない。
颯汰も様々な要因が重なった結果、弱体化した“魔王”を討てたが決して無敵でも不死身でもない。
何より今は十代になりたてぐらいの幼い姿。勢いよく喀血して死んでないのが不思議なくらいだ。
無論未だ中に“獣”がいるから何が起きてもおかしくはないけれど万象は殺せば死ぬのが道理である。魔王を目指すなら、その危険を冒すという事だ。
つまり、「元の世界へ帰還=魔王と相対する」であるから、間違いなく危険な道である。
怨讐に代わる生きる目的が「元の世界への帰還」にすり替わった(元に戻った)おかげで、彼は復讐に摩耗した人形に堕ちずに済んでいる。
だがその進もうとする道が茨の棘よりも鋭利で、歩く度に身も心も傷つける苦難な物であるのも、師にはわかりきっていた。
弟子である颯汰に無事でいて欲しいと思うのと同時に、その願いの正当性は理解しているからこそ叶って欲しい。――ゆえに苦悩が心を抉る。
その決意の燈火はきっと消えない――。
師は、この馬鹿弟子は一度決めると愚直に真っすぐ突き進むと知っている。そして、止めようにも止まらない事もこの五年で充分に理解していた。どうあっても、彼は自らその道を選ぶと。
師である精霊の女が崩れ落ちた事に驚いた少年が駆け寄った時、
『わかったか管理者。王にすることが、少年を元の平和な世界へと還す最短の術なのだ』
復讐を遂げた憎悪の残滓は静かに告げる。
耳朶を超えて響く冷たい声――。
湖の貴婦人は、憎たらしいほどに平静な声音に憤りを覚えるが、どうあっても精霊の身では魔王に敵わない揺るぎない事実はどうあっても覆せない。
『それに、この少年を放っておけばどうなるか、わからぬ訳ではあるまい』
「え」
呼ばれて颯汰は足を止め、
「――…………」
精霊たる管理者――仙女は黙り込む。
“言われなくても理解している”。
口の代わりに瞋恚に満ちたの瞳で睨むと心を読んだように魔王は続けた。
『そうだ。こいつは放っておけば、口では何とでも言うが勝手に死地へ赴く系統の馬鹿者だ。そういった類はどこの世界にも必ずいるが、この目を見たときに理解できたはずだ。こいつはまさにその手の者であると』
「おい」
先ほどから罵倒が続き、さすがに我慢ならないのか颯汰が怒った顔をする。しかし迫力がなく元が捻くれた男子高校生でなければ、それなりに可愛らしいと思える幼い顔である。
その敵意を読み取った魔王は頭を少しだけ颯汰の方へ向け、
『おそらく前の世界でも「やれやれ」など口ではほざきながら問題に自ら突っ込み、痛い目を見てきたのだろうな……はぁ、やれやれ』
心底呆れた声で嘆息を吐く。
完全にヒトをからかい、煽っている。
その言葉を誠に遺憾であると感じた少年は一瞬だけカッとなるが、ムキになる方が子供っぽくて真実はどうあれ図星であるように他人に思われると知っていたからこそ、努めて荒れそうな声を抑えながら、何気ないように返す。
「…………いやそれは違いますよ? 正直、他人と関わりたくなんてなかったし」
『――……と言いつつ?』
「と言いつつ、じゃねーですよ! その前振りみたいなノリやめろ」
あくまで彼自身の信条は『目立たず、浮かずに、されど沈まず』である。
この傍観者、トラブルは極力回避に勤しみ、他人と無駄な関わり合いはせず、しかしまた軋轢が起きない程度には話すという立ち回りを上手くやっていた。
面倒事があればそっと自身の存在を薄めて回避し、さらりと誰かに押し付けるクズムーヴはお手の物。
ゆえに本当にそんな憶えはなかった。
「というかさっきから言わせておけば……、ヒトを勝手に嬉々としてトラブルに首を突っ込むキャラに認定しないでもらえます? 俺は自分が得にならないことはしないですよ」
『どうだか――で、管理者よ。この手の者は手元に置いておくに限るであろう? ゆえに王だ。縛り付ける趣味はないが、自由にさせるとまた危うい。座して待たせるくらいが丁度いいとは思わんか』
「う、……う~ん……――」
「いやあの、……師匠?」
仙女が、唸り出す。
この魔王の言葉は正しい。馬鹿弟子は猪突猛進であるから可能ならば目を離さずにいた方がいい。
そして止めるだけの力があれば尚の事。
思わず縋りたくなるような甘言だ。
まさに“古の蛇”の化身に相違ない。
「………………確かに、その言葉は一理あります。この子は一度決めると何があっても曲げようとしないでしょうし。だけど、なればこそ、あなたの目的は何です?この子に協力する意味……貴方が得るメリットは? まさかただの道楽だけで手を貸す訳じゃあないでしょう?」
先ほどまでより幾分落ち着いているがまだ敵意を隠そうとしない湖の貴婦人は、紅蓮の魔王を睨みながらそう言うと、魔王は肩を竦めながら語り始める。
『ふむ……そうさな。隠す意味もなしに。私の最大の目標を話そう。なに単純な話だ。「全ての魔王」を見て、世界を仇成す存在ならば殺す。異なるならば生かす。それが私の使命であるからな』
『世界を乱す者は殺す、大人しく生きる者は見逃す』それが“彼女”――紅蓮の魔王の亡き妻との約束であると、ヴェルミ領内で出会った時に本人が似たような事を言っていたのを颯汰は思い出していた。
訝し気な顔で仙女は問う。
「使命……。それは勇者として?」
『む? それは正直どうでもいい。私が求めるのは邪悪なる魔王の殲滅と恒久的な世界平和よ。それこそが妻との約束ゆえに。魔王を殺すそのついでにまずはアンバードとヴェルミを統一して種族間の下らぬ差別意識を消す足掛かりとする。共に過ごせば誤解や偏見なども潰せるだろう。それと同時にこの少年の監視と契約を履行を……――ふむ、信じられぬという顔つきだな』
魔王は仙女の顔から読み取る。
『とはいえ、私も信頼を勝ち取れるものを何も持ち合わせていないものでな。戯言と思われても仕方がない。現に過去の私であれば鼻で笑っていただろう夢物語であるからな』
「…………」
仙女は押し黙る。災厄を撒き散らすだけの魔王の口から平和を訴えだすのを到底信じられないが、戦乱を求めるならこんな面倒な事をしないのではないかとも思い始める。
しかし、どうあっても颯汰が巻き込まれるのに変わりない。それが当人が決めた事であっても、納得がいかないものである。
そんな想いを表情やら何やらで察した紅蓮の魔王が顎の辺りに手を置いて考え込むような姿勢をとって少しの間の後に、ポンと握り拳で空いた平手を叩いた後に言う。
『良き案を思いついた。私を信用できないと言うならば見張ればいい。早々に傷を治し霊器となればそれが可能であろう?』
「霊器……?」
聞きなれないワードに反応した颯汰に魔王は答える。
『地上の物体に精霊が宿った物の総称だ。剣に宿れば山をも切り落とし、盾に宿れば鉄壁を誇る――いや、叫び声をあげて敵の士気を下げるだったかな? まぁそういった通常の武具ではあり得ぬ、埒外の力を発揮するのだ』
そこへ少し苛立ち気の棘が含む声で補足説明が入る。
「そんな大規模で奇怪な霊器の話は聞いたことはないですが、……武具だけではありません。ネックレスや錫杖といったモノにも宿ることはできますが、精霊が宿れるような一品は限られています。それに所有者から魔力を供給して初めて今、魔王が言ったような力を発揮できますが、体外魔力が少なくなった地上でそんな規模の攻撃はできません――……確かに、霊器となって顕現できるほどに魔力を与えられれば仮初めの肉体で僅かな間だけ活動はできるでしょう。だけど基本的に霊器の精霊は眠っている状態と同義。また精霊としての自由はなくなり、持ち主の魔力に依存するしかない……。
――魔法も使えぬニンゲンのために、精霊の力を行使するためだけの道具に成り下がれと?」
『いや、単純に少年の稽古対手が欲しいだけだが。…………そうか“精霊戦争”、か。今のは些か配慮が足りなかった。すまない』
疑心と敵愾心を剥き出しにし、最後の言葉だけ少しばかり自嘲気味に毒づいた精霊に対し、この男はあくまでも平静に返す。悪気はなかったが魔王はきっちりと謝罪を言葉にし、さらに場を鎮めさせるために言葉を紡いでいく。
後編に続く。
なんか字数オーバーしたから
分けちゃえ戦法ばかり多用してますね。
そろそろ削る、わかりやすくコンパクトに
話をまとめる術を学ばないと。
インフルエンザなどがまだ流行っているので
皆様も身体にはお気をつけてくださいね。
次話は来月中です。それでは。