10 異世界
目を開けると、空の色味が変わり出していた。澄んだ青色からオレンジ色が侵食している。その境界は非常に曖昧であり、時間が経てば更にそこに黒が混ざっては最後に輝く星と月が訪れる事だろう。
黒ずんだ雲の隙間から金色の光が溢れ出し、西日が大地を赤く染めていた。
――あぁ、全ては夢だったか。……どうせなら、全部夢だったら良かったのに。
少年は目を覚ました。意識が鮮明となっていくのを感じた。夢の内容を思い出しては少しオカシクてため息が出る。起きたら幼体化していて、黒い豹に襲われて、変なおじさんに保護された矢先に馬が暴走して落馬。さらに落ちた先は謎の空間で、魔法使いか女神かよくわからないお姉さんに助けられる……。
――我が事ながら、突拍子もない夢を見たものだ。
どこかで大の字になっているが、身体を起こすのも億劫であると思い起き上がる気力がわかない。背には硬い感触からコンクリートだろうと判断した。
寝汗が尋常じゃない程出たのか、全身が濡れていた。無理もない、殺されかけた夢だったのだからと少年は納得する。
呆けて眺めていた空に一羽の鳥が飛翔する。見た事のない鳥だった。動物は嫌いではないが、別段深い知識があるわけでもない。ただ知らない種類なのだろうとぼんやりと緑の羽を持つ鳶のような鳥を見ていたのだが――。
サクリという音が聞こえた気がした。
それと同時に視界の隅へ移動していた鳥が突如、錐揉み回転をしながら急降下し始めた。
「っあ~、……あ~~」
少年は嫌な予感がして一度目を閉じて唸り、開けても唸り声を上げる。
視界に一瞬映ったものを認めたくないのだ。
ドサッと大きめの鳥が地面に落ちる音がする。
少年がいる地点より少し下の方に落下した音であった。
嫌な顔をしながら、少年は起きる上がる。
そこはコンクリートでもなく、ただの少し大きめな石の上だった事に気付いた。
音がした地面を覗き見ると、そこには先ほどまで大空を自由に羽ばたいていた鳥が絶命していた。少し間が抜けた顔で目は驚きを湛えたままだ。
その身に一本の矢を受けて地に落ちた。
近くで、馬の嘶きが聞こえた。
聞き覚えのある声であるから少年は落胆する。
「起きたか。鳥は今晩の食料だ。もう一羽狩ってくるが、あとで羽を毟るのを手伝ってくれ」
褐色肌に禿頭の銀髭大男――ボルヴェルグが木製の弓を携えながらそう言うと、再び砂地を蹴って森の方へ歩いて行った。現在地は出会った場所から大きく離れ、草が少しずつ生えた地面が広がり、すぐ近くに森が見える場所だった。
少年にとってはそんな事どうでもいい。
ただ、身体の奥底から込み上げる感情を大にして叫んだ。
「元の世界に戻れるんじゃねーのかよ!!」
大気を揺るがすほどの魂の叫び。それと同時に森から鳥が幾羽も飛び立ち、黒い影が放射状に広がった。その内の一羽がコロリと力が抜けて地面へと落ちていったのが見える。矢が刺さったのだろう。
「うぅ……畜生、期待させやがって」
夕焼けの空を再び仰ぎ見る、湧き上がる感情を抑えるために見た空は赤く、――陽光は色褪せて、濃紺の空のカーテンが覆い始めていた。実際、夢の様な曖昧模糊の世界から、現実味のある先ほどまでいた大地へと、元には戻っているが少年が期待していた帰還ではなかった。
――というより、本当に夢だったんじゃないか、な……
心内の声が止まる。女性の言う通り、夢だったのかもしれないとぼやけた頭のままふと身体を見て気づいたのだ。
「…………濡れてる。服までビッシャビシャだ」
訝し気に濡れる服の生地を引っ張っては離す。寝汗でもここまで濡れるはずがない。魔法使いのように不思議な現象を起こしていた女性も、夢ではなく現実だったと理解は出来ても思考は追いつかず、もう考えずに一旦脳裏の片隅へと追いやる事にした。考えても仕方がないものに拘るよりも、先にこの服をどうするかを考えた方がいいなと判断した。まだ晩春の風は冷たく、全身が濡れたままでは体温が著しく下がる。こんなところで風邪でも引いたら大変だ。
パチパチと何かが弾けるような音がして、少年は視線をその方へ持っていく。
すぐ近くで焚き火が燃えていたのが見える。ボルヴェルグが用意した焚き火だ。
一瞬だけ逡巡したが、大人しく暖を取りに石の上から降りた。
「鳥の死骸はどう処理すればいいか分からないし放置でいいか……。今は温まろう……」
矢が刺さったまま絶命している食材が目に映るも放置を決め込む。下手に触って面倒な事になるのも避けたいが、何よりさっきまで命があったものを触る気になれなかった。吹き抜ける風に寒さを感じてぶるっと震えながら火に近づく。
薪の上で炎が踊る。
パチパチと弾ける音がする近くで、例の暴れ馬が寝そべるように座っていた。
火が怖くないのだろう。姿勢こそ馬であるが、どことなく寛いでいるように見える。
「…………本当に馬なの?」
問いかけに対してニールは応えないが、ただじっと少年を見つめていた。
「あ、怒ってはもうないよ。ただ、もうあんな速度で臨死体験はご免だよ」
――何、話しかけてるんだろ。
冷静になって、人語を話せず理解できない動物に対して何を言っているのかと嘆息が漏れる。なんとなく彼の視線から伝えたい事を理解した気になって答えてしまったが、黒馬からの返答は言葉ではなく、鼻を鳴らす音だった。
「…………」
訝るように馬を見つめ、少年は鼻腔から降りてくる粘液を、外に出ない内にすする。服を脱ぐわけにもいかないので、火の前で屈み両手をかざした。
「…………?」
――不意に、不安感が押し寄せる。
温かい火を前にして、少年の中に“正体不明の感情”が生じた。
その正体を探ろうと思う前に、腹の虫が鳴った。
大人しく恩人を待とうと決めて身体に熱を戻すことに専念した。
――……
――……
――……
ボルヴェルグが狩ってきた食材を調理し終えた。
二人で鳥の羽を毟り産毛は焼き切るといった下処理をしてから、後は全てボルヴェルグがやった。鳥の内臓を取り出し捌いては沸かした湯の入った鍋に放り込む。肉の臭みを和らげるハーブ的な役割を持つ野草も混ぜた鳥のスープだ。
水は幾らか蓄えがあったがそれを使わず、森に流れる河川から汲み上げ、煮沸して使っている。
ボルヴェルグが身体を温めるのに適していると、わざわざ土を固めた簡易的なかまどを作って自前の鍋で調理をしてくれたのだ。彼は旅をする事に慣れているのだろう。かまどを作るにしても、手際が良くて素早かった。
「本来なら、もっと時間を掛けて鶏がらを煮込むんだが、今日はこれで我慢してくれ」
「いえ……、すいません、ご馳走になります」
渡された木製の匙と丸皿に出来立てのスープが入っていた。肉入りのスープから湯気が立ち、運ばれた匂いが鼻腔を満たす。少年は無意識にゴクリと唾液を飲みこんだ。焚き火の前に移動して座り込み、淡黄色で透き通ったスープの入った皿に匙を突っ込み、ゆっくりと掬い上げる。透明度の高いスープに一口大にぶつ切りにされた鶏肉が掬われた。
数秒間、無意識のうちに男の背中を見つめていた。確かに空腹であるが、やはり疑問が付きまとう。――何故、ここまでしてくれるのだろうか、と。
「遠慮せずに食べてくれ。味付けはテキトーだが、身体は温まるぞ」
数秒の迷いをボルヴェルグに、背中越しで看破された。迷った理由は様々であるが、空腹に耐えかねて、少年は肉とスープを口にした。
「――――…………!!」
衝撃が、全身を駆け抜ける。
一口入れただけで芳醇なスープの味が口一杯に広がった。肉を捌いた際に出た骨を使った――鶏がらをベースにして作られたそれは、ほんの少しだけ肥えた舌をも唸らせる。野草で臭みをとった鶏肉は下準備をしっかりしたため、柔らかい。しかし極端に柔らかすぎず程良い歯応えがあって、より一層“食べている”と感じさせた。一噛みすると中から旨味と溶け込んだ肉汁が溢れる。夜の冷たさを忘れさせる、芯から暖まる生命のスープを、夢中になって平らげた。
男が調理している様子をずっと見ていた。幾つかの香辛料や塩といった調味料で味付けはしていたが、シンプルでそれ以上の何か特別な工程は見られなかった。
それ故に、肉の臭いや味の心配もあったが、そんな自分を少年は恥じた。
「その様子だと、気に入ってくれたようだな」
ボルヴェルグが鍋ごと運び、木製のテーブルスプーンでスープと具材を少年が持つ空の皿に移した。
ニカッと少し不器用そうな笑顔を見せる大男。
「…………頂きます」
疑い深い少年もここに来て、初めて他者に対し、本当に心から気が抜けたような安堵した顔になった。
――……
――……
――……
焚き火がチロチロと燃える。
寝床はないが地面の上で横なり、大き目な外套を毛布代わりに被る。
食事を終えてしばらくすると辺りはすっかり暗くなった。
少年は視線を夜空に向け、静かに思い、認めた。
彼の瞳の奥に、今日の情景が広がる。荒野の奥に並ぶ森林、連なる山の岩肌は少し赤みを帯びて映る。それだけならば、自分の知らない土地であると思う程度であっただろう。それに加えて言葉を話す豹と尖った耳を持つ褐色肌の禿頭の男、独自の文化を匂わす会話内容、魔法のようなものを使う謎の女に神秘的な空間。
そこから得た、導き出された結論は……――。
――あぁ、やっぱり、ここは異世界……、だよなぁ……。
くだらない冗談でもドッキリでもない。映る景色が、肌で感じる大気が、切り裂かれた布が、熱を帯びた身体が、素足に感じた砂地の感触が、本物であると教えている。例え目の前に喋る動物や精巧なコスプレをしたような大男がいたとしても、喋っている黒豹がいたとしても、水に溶ける女や魔法と剣を操る女がいたという目を疑う事態だとしても、それが虚構ではないと認めざる負えなかった。
一人空を見上げて大きく何度目かの溜め息を吐く。
完全に参ったな、と弱音が混じった吐息だ。
何故、自分がこのような事になったのか覚えがない……わけでもなかった。
少年は自身の記憶を掘り起こし、最後に見た景色を想起する。
手から発して全身を包む青い炎のようなもの――それが原因であるのは間違いない。
だが、何故『自分』なのか、『誰の意思』で呼ばれたのか。自分を必要とされる理由が分からなかった。世界を護った英雄や歴史名を遺すような偉人、万人を救う聖者ならまだしも、少年は自身を『どこにでもいる高校生』と評価していたのだ。
「童。そろそろ寝た方がいい。……いつまでも童は呼びづらいな」
ボルヴェルグは焚き火の前で大き目な石を座椅子代わりにして尻に敷き、見張りをしていた。そして、ふとそう思い立ったのだ。これからしばらく同行する相手をいつまでも童と呼ぶのは変であると。
「記憶がないなら名前だけは決めた方がいいだろう。……娘二人の名前は妻が決めたからなぁ。そうだなぁ……バル――」
「あ、あぁあああ! お、思い出した思い出したー! 名前、思い出しましたー!」
急に少し芝居がかったようなわざとらしい驚きから、棒読みで少年は名前の記憶を呼び起こした。ボルヴェルグは少し残念そうだがほんの少しだけ笑みを浮かべていた。
「そうか……。して、名を何と?」
ここは異世界クルシュトガルは様々な種族と生命が生きる。
地球の法則と異なる部分が多々ある世界だ。
その中で度々呼び出される異物――転生者。
彼らは皆、死を拒み、生を望み、愍然たる最期を迎えた。
一からこの世界に生まれ変わり、ある瞬間をきっかけに、
前世の記憶と強大な力に目覚める七柱の魔王。
地を砕き、天をも裂く、魔導の極みに至る彼ら魔王は、
万象の世界を支配も可能な願望を抱擁した“世界樹の果実”を巡って争い合う。
だが、此度は違う。
完全な異物。
招かれざる者がいた。
最初から記憶を有し、魔王たちと違った呼び出され方をした者がいた。
死は拒んだ、生は望んだ。だが最期の、決定的な“最期の記憶”はない――。
「――颯汰。立花、颯汰、……です」
醒刻歴四三八年。
不純物たる異界からの来訪者――立花颯汰の登場。
ここより、世界が動き出した。
某デレステのイベントで疲労困憊となっていますので誤字脱字があるかもしれません。
次話は早ければ水曜日、遅くても日曜日までには投稿します。
2018/03/29
修正。




