seed 02
『……そうかい、それは辛かったね』
薄れていく記憶――。
一本木の近くで腰を下ろし、暗闇の中で輝く“それ”に僕はすっかり乗せられて話しかけていた。
『君はたぶん、人を思いやる心が他人よりも強いんだろう。だから一層、悩んで、傷ついてしまう』
樹から出てきた光る存在が優し気な声を伝える。
どんな姿かは、もう、思い出せない。
『あぁ、ボクは“gahヌjhs:カ”……やはり上手く言語化できないか。そうだね君たちの感覚で一番近い表現は――』
どんな事を話したのかすら覚えていないし、さらに言えばこの想い出もきっと、目を覚ました時にはきれいさっぱり失くなってるだろう。
『話してくれてありがとう“――”』
僕の名を呼ぶ。
礼を言うのは僕の方だ。
辛い事だったはずだけど、話したからこそ一時的でも気が楽になったのは事実だ。
時間が飛ぶ。
『君のその優しい願いも、理解した。きっと君なら、世界を……真に人類を新たな段階へ導けるだろう――』
時間が飛び、ノイズが奔る。
『――目を覚ました時、きっと君はボクと出会った事も忘れている。でも君が世界を導く過程で、必ずまた会える。その時楽しみにしているよ』
眩い光に包まれる。
「また会おうね。優しい――“天使”さま」
何もかも白靄の中に沈み、遠のく意識……。
私は啓示を受け、真に成すべき事を理解した。
この与えられた《力》を、未来のために――。
職員室内は妙な緊迫感に包まれていた。
自分のデスクの上の資料や、ノートパソコンに目線をやろうとしても、すぐにチラリと別所を見てしまう。その視線の先にある扉の上部のクラスプレートには『校長室』と書かれていた。
皆が視線を、職員室と直接隣に繋がっている校長室の扉へ向けたり、言いようのない焦りにも似た感情により、また視線をどこかへ投げやって忙しない。
始業時間まで少しだけ時間があるが、どの教師も余裕がない。
『五年二組の問題児たちが、またやらかした』
早朝から抗議の電話が何件かあった。
本来は会議に費やすべき時間がもうないので明日、その件について改めて会議を行う事となった。
頭痛の種が絶え間なく問題を起こすのだから性質が悪い。勘弁してくれと口々に思いを洩らす。
今回はの目玉は公共物――公園の遊具へのイタズラ書きだ。
市内には他にも小学校はあるのだが、書いてある内容がこの学校の教師への悪口であったりと当てはまる点から、きちんと指導するように、と役所から電話があったのだ。
以前は学外だとコンビニでの万引き、停まっている車へのイタズラ。犬や猫への投石などをしているという電話があった。また学校内では、イジメや下級生への暴力に対する相談があった。
正面扉の硝子の破壊などは“事故”として処理したのでさして負担となっていないが、それで良い訳がない。親に甘やかされた子はこの件で何を学ぶ? “何をやっても許される”という錯覚だろうか。それで社会に出ては彼自身が苦労するだけではなく、それに巻き込まれる人々も堪ったものではない。
だが現実問題、あの親子にも関わりたいと思うもの好きな教師は誰一人としていない。
日々、鳴り止まぬ抗議の電話――。
正直、学外で起こす問題に関しては個々人でどうにかして欲しいというのが教員たちの総意であり、決して表に出せない本音であった。家庭の問題も当人同士でどうにかちゃんと教育してほしいのだが、甘やかされて育ったモンスター親子相手では、それを期待する方が間違っているだろう。
『巷で“薬”を売ってる、常用している』という話まで出回っているが、さすがにそれはないだろうと思いながら、電話を受けた男性教諭もいた。こめかみを押さえながら表情だけは怒りに震えさせて対応していたのを皆が記憶している。
抗議の内容を、全て生徒たちの仕業であると決めつけるのは早計である。……のだが、それでも確固たる証拠のない問題であっても、教師たちはただ平謝りするしかない。
『あなたの学校の生徒だろう』と言われる所以は、生徒たちが立て続けに問題を起こすせいで、悪いイメージがこびりついてしまっているからだ。
違法薬物の件は一笑に付せるが、この由々しき問題を根本から解決しなければ、学校全体のイメージにまで関わってくる。
だから請け負った新任の教師が休職した際に、代わりにベテランの教師が五年二組という“戦場”を統率しに行ったのだが――。
“誤算”であった。
子供たちの成長速度を侮っていたのだ。
クラス分けの際、このクラスだけを同学年の問題児たちの掃溜めにしたわけではない。
ただ悪い方に互いが影響され成長した結果が、新任教師を鬱病にさせ、さらに代わりの先生であるベテランの教諭までも『手が付けられない』と諦めてしまう怪物たちのたまり場となってしまった。
彼らは子供と言っても馬鹿ではない。
自分たちが親の庇護下にあると知っていて、尚且つその親が自分に対して甘く、教師たちの立場の弱さを知っていたのだ。
だからこそ彼らはつけあがる。
また子供の純粋な残酷さを残しているから、弱きに対して容赦ない攻撃を行える――だから、立場の弱い大人は恰好な餌なのだ。
自分より倍以上も年齢が上である相手を攻撃できるという優越感に蕩けるような恍惚感が、彼らを焚きつける。アリを追って踏みつぶす征服心よりも甘美な刺激が一層満たされるからこそ、子供たちは結束し、反攻を始める。
小賢しいからこそ厄介なのだと気づいた頃には、ベテラン教師を打ち負かすほどの怪物たちが生まれていたのだ。
次は、誰があの魔窟を取りまとめるのだろうか。
そんな目の上のたん瘤の難題に対し、とある教師が、我こそはと挑もうとしていた。否――、
「椛先生、大丈夫かしら……?」
「休みから戻ってきたと思えば、『また五年二組の担任をやらせて』なんて……ねぇ」
愚かにも、舞い戻ろうとしていたのだ。
隣のデスク同士の女性教員がヒソヒソと話し合う。
六年生相手で自分たちも手一杯なのだから厄介事は勘弁してほしいのが本音であるが、だからといって今、校長室へ向かった彼女では荷が重すぎる。
休む前のボロボロだった見た目――ぼさぼさで癖のある長い髪に、オシャレにも無頓着そうなジャージ姿が殆どだった記憶がある。黒ぶちの眼鏡の奥の目が死んだ魚のようになっていたが……。
「失礼しました」
可愛らしさは残っているが、以前と違う凛とした声。
校長室の扉が開き、直談判をした新任教師が出てきた。今はまるで別人か、生まれ変わったように見える。癖のある髪を少し切って肩にかかる程度に。眼鏡は無くなり強い意志がその双眸に現れていた。オドオドしていた態度は消えてなくなり毅然として前を見据えている。
服装も見違えている。白いブラウスに黒のタイトスカートというシンプルなものである中に、教職員としての誠実さや気品が醸し出されている。
カツカツとタイルの床を踏みしめて進み、奇異の視線を物ともしないで笑顔で返す。
皆が言葉をかけられずに固まる中、彼女は綺麗に整頓されたデスクで準備をそそくさと整え、出て行ってしまった。
もし教員でなければ鼻歌交じりで駆け出しそうなほど身軽さで、もう彼女を取り巻く“恐れ”や“不安”といったものが消え去ったかのように、担当する教室へと足を運んで行った。
その姿を見ていた教員たち――女性教員二人がドタバタと校長室へ駆けてはノックをして、返事を待たずに入っていった。
木目調の壁紙に囲まれたシックな部屋――校長室の座席にいる校長は背を向けて、窓の方を見ていた。
「ど、どういう事ですか!? 校長先生!?」
若い椛先生がどこか満たされた顔つきで出ていったという事は彼女の要望が通った事を意味する――つまりは学校長が会議も通さずに決定を下したのだ。
「も、戻って来たばかりの椛先生に! また五年二組を担当させるなんて! ベテランの嘉山先生だってあの調子ですし……! 彼女には難しいと思います!」
だからと言って自分たちは『五年二組の担任』なぞやりたくないが、病欠から復帰したばかりの教師にまた鬱になられるのは可哀想すぎる。
病気で休んでいた間に彼女に何かがあったには違いないが、それもただの虚勢――あるいは自分なら次こそは出来ると勘違いしているかもしれない。
そうであれば尚の事マズい。その自信が打ち砕かれれば深刻な心の傷となるのは明白であるのだが……。
「大丈夫、彼女なら」
回る革製の黒くて妙に値が張りそうなオフィスチェアに背を預けながら、学校長はそう言いのけた。
あまりに無責任で呆気ない言葉に、彼女たちは数舜の間、言葉の意味を理解できず固まった。
「――……だ、大丈夫じゃあ、ありません!」
「そうですよ! また鬱で休まれたら責任は取れるんですか!?」
妙に達観した言い方に、教師二人は激昂する。
「大丈夫大丈夫」
校長は一向に窓の方を向きながら続ける。
もし目上の人間でなければ彼女たちは「話をするならこちらを向きなさい!」と怒鳴っていただろう。
それでも抑えきれない感情――不満と憤りに震えた握り拳を解いて、バンと机を叩いてしまう。
「大丈夫って……! ちゃんとわかってるんですか!? 校長先生!!」
片方は少し驚いて視線を真横にやったが、数秒の間の後に正面の校長を睨む。
すると、ゆっくりと回転椅子を動かして男が振り返り顔を見せる。
灰色のスーツに白髪のオールバック。額と顔のシワには長年の苦労と過ごした時間が刻まれている。眼鏡は机の上に置いたまま、書類に目を通す時だけ着ける人だ。
だが、どこかおかしい。
「大丈夫。ダイジョウブ」
違和感。
「ダイジョウブ、ダイジョウブ……ブブブ」
そうか、目だ。
「校、長……?」
優しさが宿ってはずの瞳が虚ろとなっている。
校長先生の、目の焦点が合っていない。
何か、正気が、ないように……。
嫌な、予感が……。
隣の、――先生が崩れ落ちるの、見え、た。
あれ、おかしい。声が、出な……――。
……――
……――
……――
「……絶対におかしい」
五年二組の教室内で、和田少年が呟くように言った。
教室内は普段では考えられないほど静か(女子たちのおしゃべりは絶え間ないが)。
黒板には《進路相談》と書かれている。
今日は特別に、授業時間を引き換えにクラスメイト一人一人との対話を五分ほど、使う事となった。
あの担任の女教師が戻ってきたのも驚きだが、いきなりこんな事をするとは思いもしなかった。
見た目も随分と変わっていた。
いきなり進路がどーのこーの言われてもまだピンと来るわけもない。無論、進路相談とは建前で、荒れたクラスをどうにかしようとの考えなのだろうという事はクラス全員がわかっている。
《進路相談》は、男女で出席番号順で交互に呼び出し、空き教室で話をするだけ。男女四名ほどがその空き教室前の廊下に置いた椅子で待機する事を“お願い”された。
待ってる間は自習であり、呼び出されるまで教室で騒がなければ何もしてもいい、とまで言われれば退屈な授業も潰れるし別にいいか、と文句や罵声を浴びせながらもそれに異論はなかった。騒がなければ自習中に監視する教師も置かないとまで言われたので普段より大人しかったと言えよう。
『ゲームでもやって待ってようぜ?』
『時間をたっぷりかけろよ? 長引けばもっと自習時間も増えるからさ』
『あの女を泣かせたら勝ち、な』
と乗り気であったのだ。
違和感は最初に戻って来た浅田の様子から。
無類のゲーム好きの彼が《進路相談》から帰ってくると、「気分ガ、悪イ……休ンデル」と言って机に伏せて眠り始めた。
そういう事もあるだろう、と持ってきた携帯ゲーム機で他の友達たちと遊び始めていた。
五分で一人を相手にするはずが、ペースは非常に早かった。
三十分が過ぎる頃には三十四名の中、半数以上の《進路相談》が終わっていた。
「お前早すぎんだよ!」
和田がそう言って戻って来た男子生徒の肩を強く押すが、無反応であった。
「――ッ!! 無視すんなよっ!!」
無視された事に腹が立って通り過ぎていく背中――腰の辺りに思い切り蹴りを入れる。
クラスの女子から短い悲鳴を上がるが、当人は倒れても返事がない。何も興味がないように立ち上がっては和田の方を一瞥すらせずに自分の座席へ戻っていった。
その気味の悪さにそれ以上、自分から突っかかりに行くのは止めたが、肌寒い感覚を覚えた。
それから戻ってくる生徒は皆、何か変だった。
騒がしくお喋りが好きな女子は顔色が悪いまま黙り込み、いつも能天気でバスケが大好きな鹿野は急に英語の教科書を食い入るように読み始めた。日下部は……いつも通り本を読んでいる。前に奪った時は女の子のイラスト付きの小説だったな。まっさん(あだ名)はゲームに参加しているが全然集中できてない。バカ騒ぎをする隆司すら大人しい。佐伯さんは可愛い。
「奇妙だ……」
知性派眼鏡の山野が自習用の課題プリントを片付けて、言う。どうやら和田の独り言への返答らしい。一瞬驚いた後、
「…………やっぱそう思うよな?」
和田が真後ろの座席へ視線を移す。
「あぁ、明らかに」
山野が同意した。
女子のお喋りっ子界隈は気づいていないのかあえて無視しているのかわからないが、男女ともに《進路相談》後の生徒が鎮まっている様子だ。
うるさくならない程度に喋っているところに山野は指さし、
「一見、変わらないけど、会話の中心がまだ相談を受けていない宮元さんになってる。普段なら久瀬さんが中心なのに」
「そんなのよくわかるな。気持ち悪っ」
彼らの座席は窓側で、彼女たちは反対の、廊下側に位置している。話し声はかしましいから聞こえるが、それでも傾聴しなければ気づくはずもない。
「うるさいな。……和田、提案があるんだが」
「んだよ? あとで課題のプリント写させてくれるか?」
「これくらい自分でやれ。……まぁいいけど」
了承した山野は机の中からクリアファイルを取り出し、先ほど片付けたばかりの課題プリントを出して和田に渡す。和田はそれを自分の机の上に置きながら話を聞いた。
「次は男子は南波、女子は新田さんが呼ばれる」
「……あぁ、それで?」
何となく察した和田は不敵な笑みを浮かべる。
「それについて行って《進路相談》の様子を探ろう」
「……なんでお前なんかと、……と言いたいところだが賛成。やっぱみんな戻ってきてからおかしい」
「あの教師もなんか随分変わったし……気になる」
「そうだな。なんか嫌な予感がする。あの病欠女……立花が何を言ったか知らねえが、なんかしでかしてたら録音して教育委員会とかにでもチクってやる。そうしたらもう、おしまいだろ」
悪魔のようにククックと笑う和田少年。正直、授業中に抜け出して何かを探る行為が探偵やスパイ染みていて面白そうだという不純な理由が半分であった。
なにもそこまでしなくてもと呆れた顔をした山野はため息を吐いた。
女教師――立花椛が何をやったのか、ただの話術で思い過ごしであればいいが。
この異様な清浄化に二人の少年は立ち上がったが、まだ幼い彼らは、好奇心が猫を殺すと知らない。
「南波クン、新田サン、次~」
戻って来た生徒が教室の前の扉を開いて指名する。
さぁ出番だと二人は静かに立ち上がって二人について行く。
誰も止めずに廊下へと出ていった。
その暴こうとする闇の正体が、眩しすぎる光であると、今の彼らにどう説明しようときっと理解できなかっただろう。
はじまりの物語その2。