09 仙界
大地を踏み荒らすかの如く、一匹の馬が巨体を揺らして走り抜ける。黒色の四足は太く長く、その足に踏まれれば人の頭蓋程度ならば簡単に踏み抜けそうである。ドスドスと乾いた地面を蹴る度に黒い馬体も揺れ動く。その巨躯に見合わない背丈の少年が馬上にて必死に鞍へと手を伸ばして掴んでいた。握るものを手綱へと持ち替える余裕はない。ただその場から離れまいと、振り落とされないようにするのに精一杯なのだ。
「ひゃああああああああああ!!」
実はこの馬の出せる最高速度には至っていない。しかしながら彼は今まで時速四十キロを越える速度を体感したことはなかったのと、肌で直接感じる風の強さ、徐々に速度を増していく事により、恐怖を新体験していた。乾燥からの保護のためなのか、純粋に怖さからなのか眼球からは涙が溢れ、粒となって後方へ飛んでは、まるで流星群のように絶え間なく降り注いでは消えていく。
遂に速度が六十キロを越え始めた。更には道端の岩でも何かを飛び越えたのか、鞍に抱き着いて目を閉じていた少年に大きな振動が走り、鞍から手が離れてしまった。
「たーーーすーーーけーーーてーーー!!」
馬上から離れまいと足の挟む力だけで何とか堪えたが、上半身が後方へ……仰向けとなって風と一緒に流されそうになった。今落馬すれば、怪我で済む保証はない。振り落とされるわけにはいかないと思って懸命に身体を起こそうとするが、馬の勢いは止まらない。
「とーーーまーーーれーーー!!」
少年の身体はすでに限界を迎えている。馬にしがみついている足はぷるぷると震え、両手を伸ばしたまま後ろへ倒れ込みそうになっている。ものの数秒も保てないのは明白だった。
「あっ」
ずるりと、まるで後ろから見えない手で絡め取られたかのように宙を浮いては、ゆったりと落ちていく。ただしこのゆったりとは少年の感覚ではそうなっているだけで、実際の時間の変化はない。
上体から腰へ、腰から足へと落下の感覚が伝わっていく。
反射的に手を伸ばすが、ばく進する黒馬に置いて行かれ、もう尾の毛すら届かない位置となっていた。伸ばした手は虚しく何も掴むことができないまま、身体は重力に引っ張られ地面へと激突を待つだけだった。
徐々に地面との距離が縮まっていく中、意識だけは加速していく。どうすれば大怪我を、死を回避できるかを思考を巡らせる――否、直感で反射的に頭部を守る選択以外に取れない段階まできていた。例え死ななくても、身体は無事ではないだろう。刻一刻と迫る激突までの時間。祈る間さえない。落下による空気抵抗の追い風を感じながら全身の毛が逆立ち、鳥肌も立ち始めた。後頭部への直撃だけは避けようと両腕を後ろに回しクッション代わりに用いろうとする。そして、少年は絶叫を上げる間もなく――衝突した。
鈍い落下音が響いた。
だが、それは地面に落ちた痛々しい音ではなかった。高所から勢い付けて叩きつけられたような音でもない。
水面から静かに落とされたような鈍くて優しい音が広がった。
「――!?」
少年は呼吸ができない事に気づいた。吐く息が泡となって昇り、口腔内が液体に満たされ、肺にまで入り込もうとする。熱くなった身体が一気に冷やされるのを感じた。全身に纏わりつく感覚の正体に気付き、慌てて両手足をはためかせるように動かした。――身体が水に沈んでいるのだ。
水面から落とされたようなではなく、本当に落とされていたのだ。
「ボガ!? ボゴゴゴゴ!?」
泳げないである少年は慌てて陸地を求めてもがく。泳ぐどころか水中で呼吸を止める事すら苦手であるため、足がつかない深さの水に入れられるという非常事態に放り込まれてパニックとなっていた。
眼球に映る景色はぼやけていたが、バシャバシャと水面で慌ただしく音と水を撒き散らしながら、すぐに岸へと手足をバタつかせながら飛びついた。
少年は両肘を陸地に置きながら、足りなくなった酸素を求めてゼーハーゼーハーと荒い息づかいとなる。
「な、なにがどうなってるんだ……?」
たしかに落馬した――はずだった。だが、落ちた先が水底まで行けば全身が浸かるほどの水がある場所であったのはおかしい。暴れ馬のニールが進んでいた道は荒野だ。こんな森の中ではない。砂混じりで雑草すら少ない痩せた土であり、奥に行けばだんだん自然は増えていって森も見えたものの、落馬する直前まで見た風景はまだそこに辿り着く前だった。
眼前は森が広がっている。葉の色は緑というより青に近く、木々も白樺とまではいかないが、灰色で落ち着いた雰囲気を感じる。
少年はふと、振り返る。
それは状況を確認するための行動であったが、疑問が解決する前に新しい問題がやってきてしまった。
透明度の高い清らかな水の中、不思議な事にその中には魚はおろか、虫すらもいない。ゆらゆらと揺れる水草と岩や砂利がハッキリ見えた。
だが、問題は水の上――水面上にあった。
「えっ」
静かに少年は零す。視線の先に、若い女性たちがいた。人数は六名だ。
……人数で数えればだ。
少年に二重の困惑が浮かぶ。ひとつは、女性たちの中で二名ほどがあられもない生まれたままの姿を晒している点だ。他の女性は反射的に腕で乳房を、脚で局部を隠すなり、布で全身を覆っていた。
もうひとつは、直観であるが全員人間ではない事を感じ取ってしまった点である。水面を浮いているのもそうだが、人離れをした美貌の持ち主に、今にも泣きそうな顔をしている半透明な女性に、肌が青色の者がいた。最後が特に決定的だろう。隠すべきものが最初から存在していないから隠す必要もないのか堂々と晒していたが、突如現れた招かれざる少年に驚きはしていた。
『キャアアアアアアアッ!!』
女性の数人が甲高い声で叫ぶ。耳鳴りがするほどの高音が直接心に響く。直後女性が三人、それぞれ身体を隠す布をバサッと翻す。するとキラキラとした粒子が舞って、まるで最初からそこにいなかったかのようにその場から跡形もなく消え去った。次いで青色肌の女たち――よく見れば背景が透けて見えるスライムのような半固体の身体をしている女性たちは、勢いよく水面へと潜っていったが、完全に水の中に同化して見えなくなる。
最後に残った女性だけが布を持たず、身体だけで隠していた。左手で胸を、下半身を捻り局部を隠す。
そして右手にはどこから取り出したのか、一本の剣が握られていた。
金色の柄に青く輝いている装飾、剣身は碧色で白銀の文字と模様が彫られている剣であるのだが、やけに剣身が短い。まるで柄から上が壊れ、代わりに短剣の刃を付け替えたようなアンバランスさだと、状況が読めなくて変な観察をして少年はそう思った。
裸の女性はそんな剣で空を薙ぐように振るう。すると剣身に泉の水をそのまま氷の結晶にしてくり抜かれたかのような、淡く水色に光る刃が現れたのだ。剣の両端から伸びた、大気の穢れすら寄せ付けない美しい透明な光の結晶が短い刃を越えたところで重なり一つになり、短剣の先を覆い被さるようにして伸び、本当の刃となったのだ。刃は角度によって宝石のように煌く。
細腕で持つには少々荷が重そうであるその剣を身体の一部のように、青い軌跡を描きながら軽々しく振るう女性が、その切先を少年へ向けてニコリと微笑んだ。そんな笑顔から恐怖を感じ取った少年は彼女が行動を起こす前に陸地へ上がり、
「すいません、許してください、ごめんなさい」
綺麗な平身低頭をして許しを乞う。相手が人間ではないと確信していて、なおかつ土下座が伝わるかは分からなかったが、少年はとにかく誠意を見せようと地面にめり込む勢いで額をつけ、平伏した。
事故とはいえ女体を許可なく見てしまったのだ。しかも相手は武装しているし、剣を振るった音が紛い物ではないと教えてくれていた。ゆえにとった行動が全身全霊の謝罪だ。少年から差し出せるものは何もないため、ただ頭を地面に擦りつけてでも相手に誠意を見せつけ、許しを得るしかない。
「わざとじゃないんです……、許してください」
やりたくてやったわけではない覗きで被害を被るのは御免であるとは思いつつ、はっきりと彼女達の姿は見えなかったが状況証拠で断罪されかねない。
だから謝るしかなかった。
頭を下げ、相手の言葉を待つ。どうにか分かり合えると信じるしかないが、内心は色々な意味でドキドキと鼓動が鳴り止まない。
一方、剣を持った女性は少年の行動に静かに驚いていた。他者に平伏をされたのはいつぶりだろうか。だが、これは何かを捧げるために額づいている訳ではないことは分かった。おそらく謝罪の意味であると同時に少年がどこから来たのかを悟る。
「あなた、まさか人間の子ですか?」
まさかとまで付けられた、この問いから考えられることはただ一つ、
「はい、そうです。気づいたらここに……」
彼女は人ならざる存在であるという事だ。
顔を上げてもいいと言われ少年は恐る恐る上げると、距離を詰めてきた女性はまるで魔法を使ったかのように一瞬のうちに服を着ていた。見た目の年齢はおよそ二十歳ほどだろうか。綺麗なプラチナブロンドの髪と紅い宝石があしらわれたサークレット、碧玉の瞳を持ち白い絹のドレスに身を纏っている。どこか人離れをした美しさを持つ女性だ。髪と肌と衣装の白さだけではなく、彼女が持つ雰囲気がそう思わせる。
改めて周囲を見る余裕ができたが、どこか雰囲気が現実味がなかった。清い水で出来た泉を囲う灰色の木々たち、蛍の如く空気に漂う淡くて小さな緑の光。どうまかり間違ってこの場所に来たのか少年は見当もつかない。
正直に答えたおかげか女性は疑う様子もなく、最初の殺気に満ちた笑顔はどこへやら、まるで久々に孫を見た祖母の様な喜びようだった。
「そうですかー! あらあらまぁまぁ、年十年ぶりでしょうか、人間の子に会うなんて!!」
――何歳なんだろうか、とは聞くのは地雷だろう。女性に数字を聞くと碌なことにならないし。
どう見ても若々しいが、その件はスルーを選ぶのが無難だろう。それよりも聞きたいことがあった。
「あの……あなたは一体、いやそれよりもここは……?」
「うーん、説明してもいいですけど、理解できるかどうか」
女性が持っていた剣を乱雑に、そこら辺へ放り投げると光となって消えていった。それを目撃した少年は驚いた顔のまま固まっていた。しばらく女性が顎の手を置くようにして視線を斜めにして考えていた。ぶつぶつと説明する内容を確認するためか、はたまた無意識なのかわからないが、唱えてながら人差し指を宙に描くように運ばせると、指先を追いかけるように青と紫系統のラメ塗料の線が浮かんでは後ろから徐々に消えていっていた。
そして手が止まって数秒後、考えあぐねた結果が出たのか、両手を合わせるようにパンと叩いて言った。
「あ、そうです! ここは夢の世界で――」
「――説明するの諦めてません!?」
若い子には一番納得いく答えだと思いますよー、と悪気はないのか逆に困ったような顔をされて少年も困惑するしかない。
女性はふとおもむろに水面上を屈んで両手で優しく水を掬い上げた。何が始まるのかと少年は怪訝な顔で覗いていると、女性はすぐの手を離して両手の親指と人差し指を伸ばして四角い枠を作った。普通なら重力で零れて落ちるはずの水が枠の中に納まったままとなり、枠の中に映像が現れる。女性はそのまま手を動かし広げると、それに合わせて画面が大きくなる。少年は気づいた。それは少年が落馬する直前の映像であることに。
「なんでこんな危ないことを?」
「の、乗れって……」
「全く、どこのお馬鹿さんがそんな事を……、ま、いいです」
そう言われた気がしたとは言えず、女性は画面を閉じるために手を静かに合わせて、続けて明るい調子で言った。
「わたしが、元の世界に送ってあげましょう」
瞬間、世界が止まったような静寂が訪れる。女性が首を傾げた刹那、願ったり叶ったりの言葉に少年は喰いついた。
「ほ、本当!? ぜ、是非! お願いします!!」
ざっと立ち上がって少年の目のキラキラとした輝きに圧されながら、女性は何度も頷く。
じゃあちょっと来てください、と女性に手を引かれた。カナヅチの少年は慌てふためいていたが無理矢理引かれた。このままではまた溺れると想像していたが、水面上に足がつくことができた。溺れることもなく泉の中心に運ばれたが、水が未だ怖くて女性の手を無意識のうちに強く握っていた。
「少し荒っぽいですが、男の子だから我慢できますよね」
「えっ、何?」
女性が右手を掲げると宙に浮かんだ幾つもの水の塊が、ゼリーのように震えながら集合しては剣の形を模った。先ほどと同じ剣を作り出したのだ。そして空に向かって剣を軽く振るう。手首のスナップを活かして生まれた小さくて素早い斬撃が、上空十数メートルまで飛んでいき空間に裂け目を開ける。数秒後に裂け目は大穴となり、掃除機のように空気や木の葉、漂う光も吸い込み始めた。裂け目の中は黒く、先が見えない。不安げに女性を見ると、
「それじゃあ、ご縁があればまた会えるでしょう」
少年の右手は女性の左手を掴んでいたはずなのに、握っていたものが消失したかのように離れていた。すると急に重力が仕事を始め、水の中へ身体が引き込まれる――と思った矢先、下から少年は押し上げられた。
「えっ、何!? 何これ!? どうなって!?」
子供一人を余裕で押し上げるのは水の力であった。間欠泉のような勢いで押し上げられ、少年の身体は地上より、周りの木々より高い位置にある裂け目へと一直線へ進んでいく。
「さようならー。元の世界でも頑張るんですよー」
謎の女性の声は少年の耳朶には届いていない。徐々に近づく暗闇の大穴に、少年は本日何度目かの悲鳴を上げて吸い込まれていった。
次話は早ければ12月10日に投稿します。
2018/03/25
他所での投稿とあわせて修正。




