56 大樹の牢獄
ヴァーミリアル大陸東部。耳長族と人族の国ヴェルミ。
ヴェルミの王都ベルンでは、山を背にした巨木が佇み、そこを中心として四つ階層――王宮、貴族層、居住層、商業層に別れた街となっている。
その王都の中心たる大樹は、先史時代の空白期間に芽吹いたとされる樹齢が定かではない大樹セラフィーであり、その内部を石材や鉄、特殊な鉱石などを用いて王城が造られていた。
土と石工で舗装された四階層を貫くように存在している――大本であり本丸である大樹セラフィーは未だ生きている。
己に埋め込まれた巨大な結晶“神の宝玉”が生み出すマナにより大樹は活動しヴェルミ領内の、人々だけではなく全ての生命に恵みをもたらしているのだ。
それに地下から湧き出して天然の堀の役割を果たす――青く輝く清らかな水もまた恵みを与える役を担っていると言えるだろう。
樹に命を吹き込み、その水自体も生命を潤し慈しむ。
表面から見れば緑が豊かで美しい国――。
だが……、世界は美しさだけで創られないのが現実であった。
王宮セラフィー内部の地下――決して他の区画から侵入も脱出も不可能な場所。薄暗く、灯りは蝋燭の仄かな光だけだ。蝋がじっとりと燃え、脂が爆ぜる小さな音だけが響く、長い階段の先――。
暗く冷たい、鼻につく血の臭いが満たす。
太古から繰り返された、血で血を洗う王国の暗部がここにある。
息苦しいほどに重い闇の底――拷問部屋。
少し前まで呻き声が木霊していたが、今はひっそりと息を潜めていた。いや、息絶えたように静まったというのが正しいだろう。
“こと”が済めば沈黙が訪れるのは当然だ。誰しも血と悲鳴に満ちていた場所に長居などしたくない。速やかに立ち去りたいと願うだろう。そこは、いるだけでいつしか気が触れ、狂ってしまう魔性の領域でもあるのだから。
その原因は死した者たちの怨念――天に帰らず、漂い続け、恨みを撒き散らす「まつろわぬ魂」であると、もっぱら囁かれている。
また別説ではベルンで罪を犯した者たちの血を吸った石壁から染み出たそれが、セラフィーの根に滴り落ちて吸収され、宝玉の力で大樹が見せる幻ではないか、と一部の貴族たちの間で噂となっていた。
罪ある者も、誣告を受けた者も……その真偽に関係なく、地下牢獄に収容されたら最期――生きて帰った者は一人としていない。
姦計で弟の暗殺を企てた皇太子、治めるべき税を着服していたとある地方の貴族、娘を守るために貴族を殺した人民――。王族であれ、貴族であれ、民であれ、構わず貪欲に血を吸い続けた空間がこの拷問部屋であった。
広い薄闇の中、大小様々な拷問器具が並べられている。使い古された物の中には血がこびりつき、錆び付いたままの物もある。
その中でもかなりスペースを取る尋問用の器具が丁度使い終えたところであった。
ここにも、山から来る水が流れている。
最下層の堀へ流れるものとは別ルートで、この尋問用の拷問器具である水車を回すのである。ぐるぐると輪る水車に括りつけられた者は、求めている答えを吐くまで水責めに合う。
水車で水の中へ突っ込まれ、呼吸が自由にできない――生殺与奪の権利を他人に握られる恐怖と、体温を奪われるのは想像以上に苦痛を強いるものとなる。
鉄と木で出来たカラクリ仕掛けの水車から括り付けられていた、一人の男が四名の拷問官によって運び出された。
クラィディム=レイクラフト=ザン=バークハルト……ヴェルミの王子である。
今や王子らしからぬ襤褸を着せられているが、その端整な顔立ちは如何なる装いでも陰る事はない。厳しい拷問を受けて苦しんでいてもなお、美しい顔を上げた。滴る水に濡れた髪も薄闇を照らす蝋燭の光が金色に反射している。どんな闇が迫ろうと星は光を受けて輝くのだ。
「……全く、忌々しい」
沈黙を破る声――。
拷問官たちに運ばれる王子に向けて現王ダナンは呟いた。その碧い瞳に宿る強さが先王を思い出させるのも気に喰わない。
ダナンは暗澹たるこの場には似合わない、場違いな恰好――シルクの一枚布の上着だけを羽織り、民の前に姿を見せるわけではないため豪奢な赤いローブは置いてきたのだが、長髪の上の王冠だけは王子に誇示するように被っていた。
万が一王に罪人が襲い掛からぬように、距離を取り、いつでも近くの官吏が割って入れるよう、両方向に一人ずつ立っていた。
「書庫の奥に封じられた書物を無断で持ち出し、その上に伝説の魔王を甦らせるなど、度し難い……!」
ヴェルミには公共の図書館などない。書物の類は王宮内で管理されている。
魔女の夜のメンバーと共謀し、王子はそこからとある書物を盗み出して、信頼できる部下たちと共にベルンを脱出したのである。そうして紅蓮の魔王を召喚し、隣国アンバードから攻め入ろうとする迅雷の魔王と実験兵器たるドロイド兵の一掃を画策した。
だが、それは諸刃の刃でもある。
「貴様は自らの手で我らヒトを超えるバケモノの王を呼び寄せたのだぞ!? 王家の血統が聞いて呆れるわ! あんなものが我が国を支配してみろ、民は苦しみ地は荒れ果て、……いや最悪の場合、伝承と同じくこの大陸ごと焦土となるやも知れんのだぞ!?」
伝説によると紅蓮の魔王は大陸を一つ焦土に変えて滅ぼしたのである。
そんな凶行を仕出かす魔王が、民を守る盾どころか存在そのものが人々を脅かす剣となる可能性の方が高いと考えるのが普通だ。
だが、二人の黒づくめで黒衣のような顔も隠す拷問官に両脇から支えられている王子は不敵に微笑んだ。疲れ切って声を出す事すら大変であるのがわかる程、声音も疲労を隠せていないが、くっくっくと嘲笑する声は次第に大きく、笑い声となる。声が遠くの闇を超えて壁に当たり反響してより一層、何か言いようのない不安感を煽った。
「な、なにがおかしい!? 気でも触れたか!?」
笑う若いエルフの王子に、少し老いたダナンは同じ種族であるのに正体不明の不気味さを感じ取って無意識のうちに右足を一歩後ろに置いていた。
しばし静かに笑った王子は大海のような色の目でダナンを見て言う。
「いや失敬。――早々に隣国アンバードの支配者たる『迅雷の魔王』に屈し、自分の身の可愛さゆえにそのアンバードと内通して、国を明け渡そうとした男が言う台詞ではない……、と思いましてね」
ディム王子が皮肉めいた言葉をにやりと口角が上がった口から吐くと、ダナンの顔色が一瞬青ざめたあと、暗い中みるみると赤くなっていくのが見て取れた。王らしく以前よりも整った口髭と顎髭、頭髪に覆われた部分以外は怒りで真っ赤に変化した。
「だ、黙れ! 黙れ黙れ黙れ!!」
ダナンが身を乗り出して拳を振り上げる。官吏たちは危険であるため慌てて止めに入ろうとするもそれを「退け、退け」と押し退けていき、クラィディムの左頬を殴りつけた。その勢いで一緒に両脇の二人と下がって距離を取る。
衝動的に殴ったダナンはふるふると怒りにまだ震えていると、殴られじんわりと顔が赤く腫れながら未だ美青年たるディムは瞳だけ笑わないまま言う。
「ダナン公爵、貴方が欲しいのは自身の権力が盤石となる土地だ。だから迅雷の魔王に下れば殺されることもなく、地位はある程度は守られる――死んで全て失うよりよりマシなところで妥協したんだ。だから貴方は恐れている。その根幹ごと全てを焼き尽くすであろう紅蓮の魔王の存在を――」
「――黙れええええ!!」
再びダナンは近づき金色の髪を掴んで引っ張り上げた。本当のことを、寸分違わぬ事実を年下の随分と若い王子に痛い所を突かれて感情的に吠えた。
「で、殿下! お待ちを! それはいけませぬぞ!」
髪を引きながら更に拳を叩きつけようとするダナン国王に対し、官吏の重鎮で国王の補佐たるカーク宰相が、後方の鉄扉付近にいたのを大慌てで駆け寄って背中から羽交い絞めにするように腕を脇から通して制止させようとした。ぶつかった衝撃でダナンが手を緩めた隙に一気に引き寄せようと動いた。
「離せ無礼者っ! 貴様ァあ! 王たる私に逆らうというのか!」
「殿下! 王子を徒に甚振ってはなりませぬ! 民草の前に姿を現した時、その傷を見れば、王が短気を起こしたとまた要らぬ噂が増えますぞ!」
おそらくこの中で最高齢のエルフの老カーク。古い時代から王家に仕えていた男はオールバックで金より白い毛の方が多くなっていた。
「ええい! 愚民どもの評価など気にしてる場合かっ! どうせ王子の首を渡さねばならぬのだ! 今ここで殴り殺しても変わらぬだろうッ!」
王を取り囲む人の数が増え、黒衣の拷問官すら王の暴走を止めに入っていく始末だ。
先ほどまでに静寂がウソのように破られ、悪い意味で盛り上がってうるさく声が反響し続けている。
「王子を早く牢へ! 手当ての準備も!」
隙を見てカークが叫ぶ。両脇に手を回していた二人の黒衣が無言で頷いては、王子を丁重に運び出し、鉄の扉から外へ出て行った。
ヒステリックに喚き散らすダナンの声が扉一枚で随分と遠退いて聞こえたが、それでもまだ罵声が聞こえてきていた。
そんな廊下を後にして、複雑に分岐した道を進んでいく。万が一牢屋から脱走できたとしても地下から出るのは至難の業であり、今王子の腕を抱えるように組んで運んでいる、彼ら地下の管理者たち以外には、迷わず抜け出すのは不可能だろう。昏く似たような道が延々と続くように設計されている。
――道は覚えられたが、監視の目が問題か
そう心で呟きながら横目で王子は自身を連行している二人を見る。
迷宮染みた複雑に入り組んだ道であってもこの王子は既に脱出までの経路を頭の地図で描き切れていた。だが、問題は監視者の目が鋭い点にある。
一緒に捕まった兵たちや魔女グレモリーと隔離された場所に王子は捕らえられていた。牢に戻っても言葉を交わし算段を練る相手がいない。
交代制であるものの、ただの見張りの兵だけではなく、この拷問官の黒衣も一緒にいる。牢屋の前で(顔は隠れているが)じっと見つめてくるのだ。
――おそらくこの二人はブラッドリー家の者たち……公正な彼ら一族が口八丁だけで懐柔は不可能なはず。拘束された今、味方がいない僕に無実の立証は不可能であるからね。
代々処刑人家業のブラッドリー家……、僕の処刑――あと三日だと言っていたな。僕の首を刎ねるのもこの二人の内の一人か、一族の中の誰かのはずだ
心内で呟く声は死を前にした自棄というものはなく平静そのものである。勿論無関心でも、死を受け入れたわけでもない。喚き散らしても現実は何も変わらないのでせめて思考は冷たくなるように、と受けた教育の賜物である。
――ダナン元公爵は挑発に乗りやすい性格だけど、彼らは違う。元公爵だけならば何度か話せば容易に御せるとは思ったが…………いや、それでもちょっと時間が足りないか
手立てがなく、更に人を丸め込むにも時間が足りなすぎる。
あと三日で処刑が敢行されるのだ。
――カーク爺には暴走しないように「僕を信じろ」と牢に入れられる前に言ったが……やはり処刑が近くなると気持ちが焦っている。下手な気を起こさなければいいけど…………。そこも気がかりだ
色々と考えている内に階段の上り下りをして、牢屋の前まで辿り着いていた。実はここだけ石のベッドの上に鹿の毛皮の敷物が敷かれている。あとは他の牢と差異はなく、何も無い不自由な空間である。
牢の扉の内へ入れられ、すぐに扉は閉じられた。
拷問官の一人は退席したがおそらく救急箱でも持ってくるのだろう。大昔に、薄暗く血とかカビの臭いがする地下に医療用具の持ち込んではならぬと訴えたのも確かブラッドリー家だったな、とどうでもいい事を思い出しながらディムはため息を吐いた。そして、そっと硬いベッドに腰を下ろし、毛皮を撫でながら言う。
「全く、酷い目に遭った。特に何か情報を吐かせようとするのではなくただ痛めつけたいなんて理由で水責めとは……。……あぁ君たちは安心するがいい。君たちはただ職務を全うしているだけだ。もし僕が返り咲いたとしても、君たちを酷吏として弾圧することも、罰することはしないさ」
「…………」
格子の先で機械的に佇む監視者に声を掛けるが、返答も反応もない。やはり無駄かと鼻で笑うとベッドに横になり天上を見つめた。
「こうなれば、やはり紅き魔王殿とソウタを待つしかないか~……」
伝説の魔王とて、相手をするのは同じく魔王。戦って勝てる保証はない。彼らが迅雷の魔王を滅ぼさなければ民は死に、その前に先に自分が殺される。
自分が出来る事はあってもそれにはあまりに時間が足りない。友である立花颯汰の帰還と吉報を待つのが最適解だと判断したクラィディム王子の呟きは、天井の石材のシミに吸収されるように、誰の反応もなく消えていった。
次話は来週だと思います。
タイトル番号間違ってたので修正。




