サイレン、と。
よくサイレンが響く街だな、越してきて最初に感じた匂いだった。よくある大学を出て、実家の隣の市の父親が働く会社に就職した。なかなか内定が決まらない俺を見かねた父親が人事部に話を通し、形だけの面接をして俺が春から行く先が決まった。父親はほっとし、俺は言葉でありがとうと伝えた。
元々、過保護気味な両親だったがあの日を境に、半ば拘束とも言える教育は俺の周りの酸素を薄くしていた。高校二年のあの日、俺は遊び半分本気半分で手首に線を入れた。紅い液体が滲み、それを視覚で捉えてから痛みがやってきた。そういえば。ネットなんかで漁った浅知恵に寄れば、これだけでは死に必要な量は流せないと思い出し、俺は二階にある自分の部屋から駆け足気味で一階の浴室に向かった。
次に気付いた時はサイレンの真下に俺はいた。血を見た興奮からなのか、やはりそれなりの量を出していたからなのか。俺は浴室に辿り着く前に気を失ったみたいだった。
それからというもの、両親の過保護は加速度的に増し、世論を気にしてか教師達はやけに優しくなり、友達と呼んでいた人達は離れていった。家と学校との往復するだけの毎日となり、副産物として成績は秀才と呼べる位には良くなっていった。
特に理由なんてない。日々の嫌な、どす黒い埃みたいなのが少しずつ、少しずつ積もっていって、結果的にそれを払おうとして俺は血を流した。大学に入ってからも数えるだけで二回ほど試して、それは性欲を解消する自慰行為に似ていると感じた。報道で殺人や事故、あるいは自殺等で人が死んだと聞いた時、俺は羨ましくなり顔が熱くなるのを感じる。なんで俺じゃないんだろう。俺の順番はまだなんだろうか。軽い苛立ちと共に湧き上がるのは死欲。当然、辞書にそんな言葉は無かったから、俺は自分の中にあるどろどろとしたものをこう名付けた。
それは性欲や食欲と似ていて、ある一定の周期で高まっていく。おかずとなるのは、身近にある死。道路ではらわたを撒き散らしている猫や、蟻に囲まれている昆虫の亡骸。ピークに達しそうな時には焼き魚ですら、死欲のおかずになった。身体を高温で焼き裂かれて尚、真っ直ぐにあさっての方向を視ている魚の眼は、なかなか興奮するものがある。
ピークに達すると、俺はガムテープで自分の口と鼻穴を塞ぎ、限界まで様子を見る。だいたい頭の命令を待たずして、両手が乱暴にガムテープを引き剥がしてくれるから、まだ気を失った事はない。
こんな事で人は死なないと解ってはいる。だけど、体内の酸素が無くなりそうな時、俺は確かに幸せを感じていた。ちなみに、手首に線をつけるのは高校生の時以来していない。他人に知られるのは嫌だった。あくまでも、自分が知ってる中で。俺だけの秘密のような事だからこその快感だった。
だから、見た目には分からないように死欲を満たすための自慰行為をしていた。一回満たすと、バラツキはあるが一ヶ月位は我慢できた。別に我慢する必要は無いのだが、頻繁にしていると飽きるし、自慰行為の道具の減りが早い。
一度、付き合っている彼女が俺の部屋のごみ箱の大量のガムテープを見て不審がっていた。俺のしている事を知ったら彼女は離れていくだろう。高校時代の友達の様に。
彼女は良い人だ。ノリの良い同僚に誘われて行った合同懇親会。違う部署で働く後輩で、初めて会ったその日に俺達は肌を合わせた。それからというもの、半ば半同棲の様な交際が始まり、彼女の社内での八方美人という評価を裏切る様な行動で俺に尽くしてくれている。一度彼女が隣で寝ている時、放屁した事があった。自信家であまり弱い所を見せない彼女だが、その時は涙目になって笑う俺をバンバン叩いてきた。その様が面白く、また可愛かった。この時かもしれない。彼女を好きになったのは。ようやく彼女自身に出逢えたような気がして、俺の中の死欲も段々と湧かなくなった。
けれど、梅雨が終わり腕時計の日焼けの痕が目立つ様になる頃。街に救急車のサイレンが二日に一度くらいの頻度で響く様になった。その音を聴くたびに、俺の中でも何か警鐘の様なものが響き、また息苦しさが募っていった。
存在感を放ちながら近付く白の車体。音が大きくになるに連れ、俺は僅かながら希望を抱く。俺の目の前に停まり、俺を連れてってはくれないか、と。俺は実は不治の病でどんな名医達も御手上げで。そんな俺を隔離するために、救急車は俺を拉致してくれて、人気の無い病院まで案内してくれ、俺は薬で安楽死を選び。
そんな馬鹿げた夢を嘲笑うかの様にサイレンは、また離れていく。
『煙草、吸ってみたら』
クーラーで過度に冷やした部屋で、夜テレビを観ていたら、ソファの隣でくっついている彼女にそう言われた。なんの事か分からず少し惑っていると、彼女が自分の右の手首に切れ目を入れる仕草をした。
『傷をつけるなら、見えないとこを、ゆっくりとね』
さすがに気付かれていたみたいだ。だけどそれを咎めたり、嫌がる様子の無い彼女に、俺は感謝した。
『明日、買いに行こ』
うん、と返事をして俺は彼女に身体を寄せた。ヘビースモーカーの父が病気知らずだから、煙草が不健康というイメージは持てなかったけど、俺は彼女に優しい方法で自分の身体を傷つける事にした。『一生懸命生きて』『生きていれば』そんな言葉を浴びせられるよりも、彼女は俺を傷つけない言葉で一緒に刻もうとしてくれた。
次の日から、俺の部屋には幸せの煙が満ち始めた。