この役立たず!
「この役立たず!」
その一言は強かに俺の脳天を打ち据えた。
それが例え怒りにより発された言葉で、普段なら決して言わない言葉であったとて、それが必ずしも慰めになるというわけでもない。
なぜならこの言葉は彼女が俺を愛すべき存在というよりかは、自分に役に立つかどうかの損得勘定で判断していたという宣言にほかならないからだ。
そこまで思考が達してようやく胸のぽっかりと空いた空白に怒りの赤が雪崩込んでくる。そうしてその激情は、普段感じることのない震えと、そして憎しみとも似た言葉を唇に生み出すのだ。
「ふざけるなよ」
その一言に端を発し、俺は思い付く限りの罵詈雑言を以てして彼女に対する不満を爆発させた。
やれお前にそんなことを言われる筋合いはないだとか、やれ普段からお前は偉そうだとか。そんなようなことを言った気がする。気がするというのも、怒りに任せて放った言葉の記憶がそこまで鮮明でないからである。
それはさておき、あまりの俺の豹変というか感情の爆発に、始めは呆気にとられていた彼女も、段々と瞳に涙をため、そして下唇を噛んで下を向くことで荒波が過ぎ去るのを待つがごとく耐えていた。
俺は特別嗜虐趣味があるわけではないが、彼女が消沈してゆく様に暗く愉快な気持ちが膨らんで、歯止めが聞かないほどに饒舌に俺の舌を回した。
さて、その結果はどうだろう。
小一時間経ち、乾いた喉を潤すべく、正座している彼女を放って冷蔵庫から取り出した麦茶を一息に飲む。
そこで少し頭が冷えたのだろう。冷静さを取り戻し始めた俺の頭に浮かんだのは
(やってしまった)
という後悔だ。たかだか役立たずと言われた程度でここまでの惨状を作り出したことへの罪悪感。
それが小さな針となって俺の胸をチクチクと苛むのだ。
居た堪れなくなった。
俺は部屋の隅に置いてある自分の鞄を乱暴に掴むと
「じゃあ、俺帰るわ」
俺は無責任にもそう言い残して彼女の部屋を出た。
秋から冬にかかるこの時期は夜になると風が冷たく、思わず身震いするほどだ。
その冷たい夜風は混乱に喘ぐ俺の頭を更に冷やし、自ずと思考は数分前に遡る。
どうしてああも熱くなってしまったのかという後悔ともう戻れないのだという喪失感とが交互に顔を覗かせる一方、今までの不満を解き放てたことへの開放感のようなものも確かにあるという、妙な心持ちだった。
不満。それはこと今回に限った話でなく、日常での積み重ねのようなものであったのだと思う。
彼女に対する不満、それはつまりに彼女の発言の思いやりのなさである。
彼女はデキる女性だ。仕事であれ家事であれ、キッチリとこなすし抜かりもない。そんな完璧主義な彼女だからこそ、俺のする行動が許せないのだろう。
本当に小さなこと、ふとすれば問題にすらならないような些事でも彼女にとっては大事で、俺がする行動が少しでも彼女の意図するところと違っただけで彼女はこう言うのだ。
「どうしてそんなことも分からないの」
と。その度俺の心にはザラザラとしたストレスのような何かが蓄積されてゆくわけだが、そんなことはおくびにも出さず
「ごめん、どうしたらいいの」
そう笑顔で問うのもまた俺の常だった。今から思えばそこからが既に過ちだったのかもしれない。
その時点で俺は言うべきだったのだ。「俺はお前の思う100%の働きなんて出来ない」だったり、「そこまで文句を言うなら自分でやればいいだろ」というようなことを。
「ま、そんなの後の祭りなんだろうけどさ」
今日の夜はここ最近でもひときわ寒い。白い息と共に諦めを吐き出すと、俺は早足で家へ戻った。
さて、翌日の仕事終わりの出来事だ。
ふと時代遅れと馬鹿にされているガラケーを開き、メールを確認してみると彼女からメールが来ているではないか。
曰く、会って話がしたい。
どのツラ下げてという臆病な自分よりも、昨日の過ちをどうにかしたいという気持ちが勝り、俺の足は自然昨日逃げ出すように出てきた彼女の家に向かっていた。
「入って」
そう抑揚のない声で言う彼女の後を追うようにして、見慣れた彼女の家に足を踏み入れる。そうして落ち着いて彼女の顔を改めて見ると目頭は赤くなっており、先程までの涙の跡が色濃く見られる。自然胸にチクリと何かが刺さる感覚を意識し、彼女の顔から目を背けるようにして俺もまたぶっきらぼうに言う。
「で、話ってなんだ」
もう少しマシな聞き方はなかっただろうか。怒っているように言ってしまってから軽く後悔しつつ彼女の言葉を待つ。
心臓の音がやけにうるさい。その音に彼女の声がかき消されるのではと心配になるが、その心配は全くもって杞憂で、俺の耳は彼女の小さいすすり泣きをも鮮明に捉えていた。
そのすすり泣きを聞くこと5秒。やがて彼女は涙で緩んだ顔を上げる。
「私と、やり直して欲しい」
そこで彼女の涙の堤防が決壊した。溢れる涙の勢いは止まることを知らず、床に敷かれたポップなカラーのカーペットに黒い染みを作ってゆく。
気が付くと俺は彼女を抱きしめていた。
そうして彼女の暖かみを思い出すと、やっぱり俺は彼女が好きなんだなとしみじみ思ってしまう。元より昨日の激高に引け目を感じていたというのもあるのだろうけれど。
そうして僕も一筋涙を流して言う。
「やり直そう。昨日は俺も悪かった」
そこからしばらくはお互いを思いやり、楽しい日々を過ごした。彼女もあれ以来厳しい物言いを控えるようになったし、俺もなるべく彼女の期待に添えるように努力した。
でも、その幸せもまたしてもあのセリフに打ち砕かれるのである。
やはりこれも些細なことで喧嘩した時のことだ。
「この役立たず!」
2度目のこのセリフに、今度こそ俺は絶望を覚えた。
あの最初のケンカから約一年。またしてもこうして後悔と喪失感とを引きずって歩く自分に自嘲が漏れる。
「くっはは、やっぱあいつは変わってなかったってことか」
あの時と皮肉なまでに変わらない寒さの中で、今度こそ彼女との関係を失った俺は白い息混じりにそう呟いて強く瞳を閉じた。
彼が出ていくと私の部屋が広くなったように感じる。彼が遊びに来て帰る度に思うことではあったけど、それをこれほど切なく感じるのはこれで2回目だと思う。
一度目はそのあと謝って元に戻れた。でも今回はそれをしたくないと拒む自分がいる。
なぜなら
「彼はやっぱり変わってなかった。文句を言われるとめちゃくちゃに相手を罵る癖は治ってなかった」
そう呟くと私は強く目を瞑り、クッションに思い切り倒れ込んだ。