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 会戦主義者であるわたしのもっとも忌避するものが、遭遇戦です。

 遭遇戦の恐ろしさはなんと言っても情報の不足にあります。戦闘が起きる地形に関する知識、敵勢力に関する知識、そのいずれもない状態での戦闘は、未知に次ぐ未知。どんな災いが降りかかるか想像もつきません。

 フィンランド冬戦争やキューバ革命で行われたようなゲリラ戦の恐ろしさはつまり、会敵のタイミングから戦力までのすべてが未知であることなのです。少数の兵力によって多数の軍勢が崩されるのは、未知の恐ろしさに依るところが大きいのです。

 さて、将たるわたしとしては、このように突発的で未知の戦闘を挑むつもりはありませんでした。ですからこの十四日を迎える前に、戦場作りを行ったのです。

 二月十二日水曜日、わたしは安宅田さんを書店に誘いました。奇しくも二月十四日に誕生日を迎える父へのプレゼントを選びたい、という理由だったのですが、このときは先約を理由に断られました。しかし、断られることは筋書き通り。

 これに先んじて、わたしは生徒会の後輩から相談を受けていたのです。会計を担当しているその子は中学校のときからの後輩で、決算書の書き方がわからないから教えて欲しい、と泣きついてきたのですが、わたしはこの後輩を安宅田さんに差し向けたのです。

 口止め料にはデパ地下のチョコレートを渡しました。決して安いものではありませんが、この季節のチョコレートはわたしにとっての武器なのです。戦いに際して出し惜しみなどしていられません。

 そんなこんなで安宅田さんはわたしの誘いを断り、しかし律儀な彼女は十四日ではどうかと申し出てくれたのです。木曜日には習い事があると聞いていましたから、十四日に日程がずれ込むのは当然のことでした。わたしはありがたくその申し出を受け、こうしてこのバレンタインデー当日、安宅田さんと書店を訪れるに至ったのです。

 「それで、小野谷さんはなにを買おうと思ってるの?」

 「万年筆とかいいかなあ、と思って。プレゼントとしてそれらしいし、意外と使いどころはないけど身に着けやすいから、そこそこ効果が期待できると思わない?」

 「効果、って?」

 「お父さんがそこそこありがたがってくれるし、わたしも身に着けてるのを見て満足できるし、それが長続きすれば効果的かな、って」

 「そういうプレゼントの選び方、ちょっと新鮮ね」

 安宅田さんの不思議そうな顔、ゲットです。笑顔は見せてくれないものの、最近は他の表情をちらほらと見せてくれるようになってきました。それはそれでいいのですが、わたしの目的はあくまで笑顔。そして、できれば動揺なのです。

 「まあ、変にそのひとがこだわってるものを贈ろうとすると、いろいろ気遣いが必要になるでしょ? だったら、無難で普段から使えるものが一番だよ。それで、安宅田さんには万年筆の書き口を試して欲しくて」

 「自分で試さないの?」

 「わたし、そんなに字がきれいな方じゃないし。きれいに書く人の方が、筆記用具の質をわかってそうじゃない」

 そういうものかな、と言って、安宅田さんはわたしが進めるままにお試し用の万年筆を手に取り、さらさらとひらがなを書き始めました。あ、い、う、え、お、と忠実に五十音を辿るそのペン先の滑らかさに、わたしは思わず見惚れてしまいます。

 「すごいよね、どうしたらこんなにきれいな文字が書けるんだろう。印刷してるみたい」

 「印刷してるみたいでしょ、ぜんぜんきれいな文字じゃない」

 「そんなことないよ。だって、書き順だって間違ってないし……」

 安宅田さんの手が止まって、凪いだ瞳がわたしを捉えます。

 「ねえ、小野谷さん。間違う、ってどういうことだと思う?」

 「ううん……正しいことから外れること、かなあ」

 「小野谷さんらしいね。ちょっと皮肉っぽいところが」

 皮肉を言ったつもりはなかったのですが、確かに『正しいこと』をあまりいい意味では捉えていないのかもしれません。そういう意味で、わたしは皮肉屋なのでしょうか。

 「間違うっていうのは両隣と違うことなの。間違うって、間が違うって書くでしょう? 右と左、前と後ろ、そういうところにいるひとたちが自分と違うことを、間違いだって言う。それってわるいことじゃないんだよ。むしろ……」

 そこまで言って、安宅田さんは口を閉ざしました。どうやら続きを言うつもりはなさそうだったので、わたしも無理に詮索しませんでした。

 「間違うって、そんな語源があったんだ」

 感心したように息をついたわたしに、ふふ、と声をこぼして、安宅田さんは目を閉じました。

 「ごめんね、ぜんぶ私の想像だよ」

 呆気に取られてしまったわたしをよそに、彼女はすらすらと文字を書き続けるのでした。

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