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わたしのクラスを担当する国語の先生は、かたくなに生徒の名前を呼ばない人でした。
女子高に勤務する男性教諭ということで、生徒との距離を必要以上に保つよう心がけているらしいのですが、その寡黙さがかえって生徒たちの関心を集めている、というのは言わぬが花かもしれません。ともかく、その先生は授業で生徒を当てる時、所属や特徴で生徒を指します。たとえば、『今日の当番、髪の長い方』とか、『風紀委員の背の高い方』といった調子です。
ある日の授業で、音読のために先生が生徒を指名したことがありました。
「次の文……元生徒会長」
いわゆるパブロフの犬、というやつ。噛み砕いて言えば条件反射でした。
「はい!」
勢いよく立ち上がったわたしの右斜め前で、髪の長いひとがゆったりと立ち上がっていました。
肌がきれいとか、髪がきれいとか、そんな安っぽい賛辞が出ないほどに圧倒的な、オーラとでも言ったものでしょうか。にじみ出るその高貴さにあてられて、初対面の時には頭がくらっと来てしまったものでした。
しかし、しばらく同じクラスにいると次第にそのオーラにも慣れ、話すことはできないまでも近くにいるだけなら大丈夫だったのですが。そのひと――安宅田さんとわたしだけが立っているという状況は、相当にわたしの心を揺らしました。安宅田さんの方はこちらを振り向くこともなく、至極落ち着いていたようですが。
「あー、小野谷、お前じゃない」
後に、わたしはこの先生に唯一苗字を呼ばれた生徒として伝説になるのですが、そんなことは置いておいて。
その指名は先生のミスではなく、『高校時代に』生徒会長だった生徒、という意味だったのです。それもそのはず、わたしの中学時代をこの先生が知るはずもありません。
「あ、あはは、わたし、こう見えても中学時代は生徒会長だったんですよー」
そうして、わたしは顔を真っ赤にしながら自席に沈み、安宅田さんはそんなわたしを見て、くすりと笑いました。
――そう、笑ったのです。
その瞬間、クラスの視線は茹で上がったわたしに注がれていて、安宅田さんの表情を見た生徒は、おそらく誰もいなかったのだろうと思います。
常に冷静沈着、揺らぐ事のない仮面。千金にも値すると言われるほど稀なその笑顔を、わたしだけが手に入れたのです。誰にも気取られず、わたしひとりが。
常日頃より、わたしはお調子者を気取りつつも内では斜に構えていて、惚れた腫れたで騒ぎまわる子たちを冷めた目で見ていました。人間がそうも簡単に恋に落ちるものか。所詮この子たちは恋に憧れて恋をしているつもりになりたいだけなのだと。
けれど、恋というものがいかに唐突で抗いがたいものか、わたしはこのとき身をもって知ったのでした。