雨(四)
流感はインフルエンザとお考え下さい。
「せっかくたくさんの男手があるのに天気がこれじゃあねぇ……」
ミアイは元より、テン組の男衆とも親しく言葉を交わすシャウナは治療師の長だった。
美しい顔を顰めて表情を曇らせているのが何とも悩ましい。こんなに艶かしい声で気だるげに耳元で囁かれたら、どんな男でも籠絡されてしまいそうだ。
癖の強い黒髪が小麦色の肌の滑らかな頬と細い首を縁取り、ふくよかな唇は濡れたように紅い。煌く黒曜石の瞳と低く落ち着いた声を持つ異国的な絶世の美女である。
シャウナは他国の海沿いに住む部族の生まれなので、肌の色を始め外見的な特徴がテスの領民とは異なっている。森を駆る〈狩り人〉たちは浅黒く焼けているだけで元は白い肌の者が殆どだ。…………それでもこれほどの美貌は珍しいだろうが。
彼女は一昔前に酷い流感が流行った折に、流れの治療師として東ガラット村へやって来た。たまたま商業街の近くを通り掛かった時に、山間の村で治療師の支援を求めていると聞いて駈け付けたのだ。
小商いの行商が寄り集まって作った遠距離交易用の隊商の中に罹患者が存在した。そのうちの一人はマリダポールで隊商から分かれると、己の小さな馬車で東ガラットを訪れた。珍しい商品と一緒に遠方の恐ろしい病も持ち込んだのである。
領主のお膝元では、常人よりもずっと頑健な狩り人までが他所からやって来た病に侵され大勢が命を失った。他のテスの地から派遣された治療師に交じり、シャウナは正に命懸けで病と闘ったのである。
病が下火になってからは未だ流感が猛威を振るう周辺へ送る薬を作り続けた。手伝いに来ていた治療師たちが故郷へ戻っても彼女は東ガラットに残った。病は村の治療師たちも毒牙に掛けており、その頃には治療所の仕事――――医療行為や薬の製造にも支障が出ていた。
献身的な功績が認められ、シャウナは師補から治療師に昇格して東ガラットに迎えられた。病気や薬だけでなく怪我に対しても見識のある彼女はすぐに上級治療師となり、同時に治療所を任された。シャウナに特殊な能力があるのも大きな要因の一つだった。
〈癒し手〉はその性質上、医療や薬に携わる者に時折発露する。以前からその兆しはあったようだが、東ガラットで治療師としての本領を発揮すると共に明確になったものだ。
患者に触れるだけで骨の折れた部分や弱った内臓が『視え』、作る薬も普通の物よりよく効いた。苦痛や不快な症状を和らげ、自身の能力を媒介として患者を治癒させる事も可能だった。
その代わりに体力の消耗が激しく、続けて使えば命を縮める危険もある。重症患者が運び込まれる度に〈癒し〉ていたら、シャウナの寿命は数年で尽きてしまうだろう。
本人曰く「大概の診察は知識と経験で判断出来る。疲れるだけで大して役に立たない能力」らしい。
修練を積んでいなければ患部が分かったところで必要な処置が施せないのは正論である。彼女は後進の指導をしながら治療所を仕切っている面倒見の良い姐御だった。
―― ◇ ――
「本当に残念だよ。晴れてればいくらでも頼みたい仕事があったのに…………」
シャウナは男たちの背筋が薄ら寒くなるような台詞を事も無げに口にした。今までの経験からして本当に仕事が山積みなのだろう。技術を備えたミアイと違い、男たちがやるのは退屈な単純作業か、慌しく雑用にこき使われるかのどちらかだった。
「あら、雨でも出来るのもあるでしょ。本降りになるまでもう少しあるみたいだし」
ミアイの言葉にシムが顔色を変えた。ずぶ濡れで何をやらせる気だと頭を抱える。
「そうだけど、一番やって欲しかったのは洗濯と薬草の天日干しなんだよ。どっちも雨じゃ無理だからねぇ、包帯を煮沸して乾かしてしまいたかったのに………」
カクとタカも口元を引き攣らせて顔を見合わせている。包帯の消毒には当然ながら沸騰した熱い湯を使う。汗だくになるので冬以外に歓迎されるような仕事ではなかった。
テンたちの他には狩り組のジノたち四人が治療所の雑用をやっていた。男女二人ずつの組でやはり治療所の手伝いの常連だ。彼らは保管されている薬の在庫を確認して新しい目録を作っている。
「わたしたちはこっちね」
ミアイが指差した先には若葉の付いた粗朶の束が積み上げてある。ハマニネの枝先を刈り取ったものだ。部屋の中央に布を敷いて粗朶の束を一つ置くとうんざりした顔の男たちに空のざるを渡す。
ハマニネの若木は葉と樹皮に効能がある。どちらも乾燥させて保存するが、それにはまず枝から葉を払って樹皮を剥がす必要がある。残った芯は乾燥させて薪にするのだ。傷めないよう葉を摘んで細い枝から樹皮を剥がして部位ごとにざるに分ける。テンたちはこの面倒な工程を延々と続けた。ミアイも最初は手伝っていたが、シャウナに別の仕事を言い付かってすぐに部屋を出て行った。
そしてシムとヤス、タカは夜番の見張りにも出向いた。見張りの交代は日の出と日の入だ。三人はシャウナの好意で治療所の寝台を借り、日の出後に数刻(数時間)の仮眠を取ってから二日目の作業を手伝った。
治療所の母屋は石と漆喰の建物だ。かまどのある台所と居室、街へ売るための薬種や香油の原料を保管する為の鍵付きの納戸部屋が二つある。シャウナは母屋の一室を住居にしていた。
表の扉は天幕で覆われていて直接出入りは出来なかった。天幕の中が本来の意味での治療施設になっていた。天幕と言っても支柱は地中に埋められ、梁を渡した骨組みもしっかりしている。
細長い天幕を二つ繋げた空間は、向かい合った二ヶ所の開口部で中を自由に行き来出来るようになっている。帳で隔てた細長い空間は厩によく似ていた。テンたちが今居るのもそうした区画の一つである。
区切った部屋は地面に簀子を敷いた上に筵や織物を重ねているので、藁布団の寝台で休んでも快適に過ごせた。街道の終着に位置する東ガラットには宿屋が無く、隊商などが訪れた際には治療所の寝台のある部屋を利用していた。
治療所の両脇に一つずつ張られた小さな天幕は薬種加工用だ。中央に小さな炉が設置されていて、開閉可能な天蓋部分から煙を逃がせるようになっている。ミアイはその片方に陣取って薬を煎じる傍、ハマニネの束を順調に減らしていた。
以前は木造の家屋があったのだが、火の不始末が原因で焼けてしまい、仕方なく仮の治療所として天幕を張ったのだ。思いの外使い勝手が良く早々に立て直すのも無理な為、柱を土中に深く埋め込むなどの補強が成された上で正式な治療所とされた。
組み立ても撤去も簡単な天幕は祭りの際にも重宝されていた。テスの領内では毎年実りの秋に数日を費やして祭りを行う。近隣に住まう者たちも祝いの振る舞いや祭りの華を目当てに集まって来るので、大小たくさんの天幕が臨時の休息所として用意された。
―― ◇ ――
最後の小枝を剥き終わったシムがどっと後ろに倒れこんだ。粗朶と格闘して二日目の午後を回った頃、たっぷりあったハマニネの下処理が終わった。見透かしたようにシャウナが顔を覗かせる。
「後始末が終わったら息抜きにしようか。お茶を淹れるから座って待ってな」
男たちが安堵と賛成の呻きを漏らした。床の布を片付け、ざるに分けられた乾燥待ちの薬種や薪を別の部屋に運び出す。長時間同じ姿勢で慣れない作業をしていた男たちは思い思いの方法で身体を解した。
仲間と共に雑用をやっていたミアイは、片付けを任せて厨房へ手伝いに行った。やがて戻った女たちが小さな皿に盛った甘い果実と香茶を配る。全員に行き渡るとシャウナも床の敷物に腰を下ろした。
「本当に有難うね、これで晴れたらすぐ乾燥に入れるよ」
「やっぱり治療所の仕事は俺には向かない」
カクが利き手を振りながら言う。樹皮を剥くのにナイフを使うので酷使した手首が痛むのだ。
「普通はこんなに根を詰めてやるもんじゃないんだ、女子供で賑やかにやるのさ。雨で他にやる事が無くて仕方なくこうなったけど、まさか全部片付くとは思わなかったよ。あんたたちは真面目だねえ」
「無理に大人数で押し掛けたのはこっちだろ。飯付きで働けたんだから俺たちの方こそ助かった」
礼を言うヤスにシャウナが艶然と微笑んだ。
「そうだねえ、あんたたちは最近の稼ぎはさっぱりなようじゃないか。一体どうしたんだい」
ミアイが下を向いて黙り込んだ。和やかな雰囲気に寛いでいた男たちも急に口が重くなる。
「訳があるのは分かってる。無理に聞こうとは思わないよ。……でもね、あんまり無理しちゃいけないよ。ほどほどにしな」
優しく髪を撫でるシャウナにミアイが頷いた。
「気を付けるわ。……ありがとう」
「良いなぁ……、オレも美人に優しくしてもらいたい」
わざとらしく指先を噛むシムに、シャウナが形の良い眉を片方だけ上げた。
「ミアイに毎日優しくしてもらってるのに何を言ってるんだい。こんな器量良しは滅多にいないよ」
「そりゃあミアイも美人だけどっ! 俺はたくさんの美人に優しくされたい!」
「あんたは清々しいくらい素直だね」
弾かれたようにシャウナが笑い出す。
「わたしは違うでしょ。美人ていうのはシャウナみたいな女の事だもの」
「あんたは十分に美人だよ、とってもきれいな若い娘さ。そろそろ独り身の男どもが騒ぎ出すころだろうね」
「そんなこと…………」
それ以上はちゃんとした言葉にならず、口の中でもごもご呟きながら頬を染めたミアイはまた下を向いた。
翌日は晴れるとテンとタカが請け合ったので、雨水を貯めるために洗濯用のたらいや桶を外に並べた。自分たちの夕食の下拵えとして再び内職のような手伝いをする。目録作りを終えたジノ組は既に治療所を後にしていた。
主食は魚と根菜の煮込みを冷ましたものだ。これはシャウナの故郷の料理という触れ込みで、今までも治療所の手伝いに来た折に何度か口にしていた。本当は海で獲れる新鮮な小魚や貝を使うのだが、海から遠い東ガラットでは不可能なので、塩漬けの魚と干した貝を使っていた。
いつもは魚や野菜を好まないシムもこの料理は喜んで食べていた。違う土地の風味は目先が変わって良いらしい。一人で簡単に食事を済ます事の多いシャウナも賑やかな食卓を楽しんでいるようだった。
後は早めに寮に帰って明日に備えるだけだった。天幕の外まで見送るシャウナがミアイの頬に接吻する。
「良い狩りになるよう祈ってるよ」
「……オレも祈って欲しいよ」
何気なく願望を口にしたシムに笑みを向け、シャウナが顔を近付けた。頬に唇を掠らせて祈りの言葉を贈る。
「やった! もう顔洗わない!!」
「臭うならもう二度と祈ってやらないよ」
「あああ、そんな!」
「次はオレだ。そうだな……、ここに頼む」
うろたえるシムを遮ってカクが自分の口を指し示した。シャウナの背に腕を回して抱き寄せる事も忘れない。艶やかな大輪の華はカクの顎に指を掛けてぐいと横を向かせると、頬に紅い唇を寄せた。
「あんたにも幸運を。……色男さん」
見事に交わされたカクは大人しく引き下がる。次は誰だとシャウナが見回すが、テンはあっさりと断った。
「春の乙女の嫉妬を買いたくないから遠慮しておく。あんたは美人過ぎる」
狩りの女神でもある『春の乙女』は気まぐれだと言われている。機嫌を損ねて狙う獲物を見付けられないのは困るからだ。ヤスも口付けを断った。タカは真っ赤になって首を振っている。シムとカクが声を揃えて呻いた。
「何てもったいない!」
「『乙女』は樹渡りも出来ないあたしの事なんて気にしないよ」
特に気を悪くした風も無く、胸に手を当てたシャウナは三人の男衆の狩り運を仕草で祈った。どことなく安堵した表情のミアイを見て意地悪く笑う。子供のように頬を膨らませたミアイが上目使いにシャウナを睨み、不機嫌丸出しで雨の中へ走り去った。
「もう帰りますっ! お休みなさい!」
「……どうしたんだ。急に」
呆れるテンに、もっと呆れた表情のヤスがテンの十八番を奪って溜め息をついた。それにはカクとシムも加わった。
「どうしようも無ぇな…………」
「全くだ」
「オレたちで何とかしちゃう?」
「シム、お前……。馬に蹴られて死ぬぞ」
「……何の話をしているんだ」
怪訝そうに眉根を寄せるテンに、三人が一斉に溜め息をつく。蚊帳の外に置かれて不機嫌になったテンも小振りになった雨の中へ出る。先に戻るとだけ言ってさっさと消えた。
「……まあ、自分の事は見え難いのさ。あんたたちも早めに帰ってゆっくり身体を休めな」
肩を落として俯いたタカの広い背中を元気付けるように軽く叩く。三人と一人もそれぞれ寮への帰途に着いた。男たちを見送ったシャウナも長い長い溜め息をついた。




