雨(二)
翌日からは『王』を探した。しかし、食餌をした跡はあるものの塒は見付からなかった。どんなに足跡を辿っても喰い荒らされた食餌跡や湖岸に行き着くだけだった。やはり王は頭が回るようだ。傷付いた身体を休める場所が分からないように警戒しているのだろう。
足跡や歩幅、樹皮の目印の高さからするとシシ王の大きさは体高が一メートル半、体長三メートル以上。重さは五、六百キロは下らないと推測した。一メートル半といえばミアイの背丈とほぼ同じである。それだけの巨体を見落とすはずはないのだ。組衆を二手に分けて縄張り北西を重点的に巡回した。
カクとタカの持つ〈絆〉ならば、遠吠えの合図と違って他には聞こえない。カクにテンとシム、タカにヤスとミアイが付いて、予め決めておいた目印や拠点を順繰りに調べて回る。一定時間留まって変化の有無を確かめてから、次の場所へ移動するという事を繰り返した。
主収入の獣も小動物や植物などの小遣いも全て見送った。他の事をしていれば必ず知られて警戒される。王を狩る事だけに集中して行動した。
人間の痕跡を察知されないように湖岸へ行くのも止めた。南の湧き水なら聖地の王が己の物だと主張した一帯から外れていたので、水汲みはそちらを利用した。縄張り内の移動は全て樹上で中段以上の高い枝を使い、地上に自分たちの臭いを残さないよう気を付けた。しかし、幾ら見張っても王は見付からなかった。
狩り番が終わっても狩り場に出向いて見張りを続けた。縄張りを『休ませる』のは森の恵みを採り尽くさないための配慮である。また、狩り組の者も非番の日は別の仕事をして稼ぐ。ミアイは非番の殆どを治療所で過ごすが、換金所に持ち込まれた獲物の精肉や皮なめしも狩り人たちのよくやる仕事だ。他にも日当は安いが、村への奉仕作業として見張りなどもやる必要がある。
テンは五日の間縄張りへ詰めて王だけを狙うと換金所に伝えた。仕留められなければまた改めて申告するのだ。そして今日がその五日目だった。
「全然だめだね……。いつになったら見付けられるのかなぁ」
カクとテン、シムの三人は湖岸を望む樹上に居た。この数日間で何度言ったか分からない台詞をシムが溜め息交じりに呟く。細く裂いた干し肉をしがんで水で少しずつ飲み下している。空腹ではなく退屈しのぎだった。
二人が周囲を見張り、一人が交代で休憩していた。会話も小声で必要なやりとりのみ。自分たちの狩り場で行動を制限され、じっと息を潜めていなければならない。ただひたすら待つだけというのは予想以上の重圧だった。
王だけを狙っているので狩り場の使用料だけが嵩んでいく。夏の分配から一月しか経っていないので組共同の貯えには余裕が無い。しかし、十年に一度あるかどうかの名誉なのだ。テンはいざとなったら自分の貯えで使用料を払うつもりだった。頭はこういう不測の事態に備えて取り分が多いのだから。
じりじりと焦燥感が募る中、『王狩り』になるのは色々な意味で大変だ、とのアシュトンの言葉を思い出す。縄張り荒らしを誘発する恐れがあるので王狩りの件は伏せるよう言われていた。
掟を破れば王狩りとは認められない。だが人の口に上るのも止められない。既成事実を得るために縄張りを荒らした前例は何度となくある。テンは唇を噛んで森の一点を睨め付つけた。まるでそこに獣王がいるかのように……。
―― ◇ ――
一方、ヤスのそばではタカが頭を掻きながら唸っていた。
「どうした、向こうに何か動きがあったのか?」
枝に座って幹に背中を預けていたヤスが焦って腰を浮かせかける。カクから王発見の報せがあったならすぐに合流しなければならない。
「あー……、いや、何も無い、というか、何も無いから困る」
「あぁん?」
タカの話はよく分からない。喋っているうちに当人が混乱してしまうので、聞き手はもっと分からなくなるのだ。だが、今回は簡潔にして明瞭な答えを返した。
「テンが焦れてるらしい」
「……焦っても仕方ねえんだが、こう待たされちゃなあ」
諦めたように再び幹にもたれた。
「縄張りの傷が増えてないか、また確かめた方が良いかもね」と、ミアイ。
行動範囲が広がればそれに伴って捜索範囲も広げる必要がある。定期的な確認と巡回が王の足取りに繋がると信じているのだ。ミアイが立ち上がって大きく伸びをした。
「そろそろ時間でしょ。移動しながら新しい傷や食餌の跡を確かめれば良いわ」
二人に否やは無かった。タカを中心にヤスとミアイが左右に距離を取る。ゆっくりと中段の枝を移動しながら次の見張り場所へ向かった。
捜索に何の進展も無いままテンたちは村へ戻ったが、数日ぶりに収穫を持って換金所の戸口を潜った。見張り中にタカたちがオグロヒワの群生地を見付けたのだ。聖地の王が現れて森が活性化したのだろうか。今夏はいつも以上に植物の発育も良く、小動物も数が多かった。
ヒワの主な産卵期は春から夏にかけてだが、沢山の卵が巣にあった。春先に産卵した番いが二度目の抱卵をしているようだ。成鳥は狙わず───落ちた獲物を拾うために地上へ降りるのを避けた───卵だけを獲った。オグロはオジロヒワによく似ているが身体も卵も少し大きい。
オグロヒワは一度に五個前後の卵を産む。当たり年であっても根こそぎにしないように、一つの巣からは多くても二個までしか卵は獲らなかった。それでも手付かずの巣がたっぷり残っていた。雛が孵る前にもう一度くらい収穫出来るかもしれない。
「全部オグロヒワの卵だ」
テンが換金所のカウンターに茶色い雀斑のような斑点のある卵を幾つか置いた。集めた卵は百五十個を軽く超えたが、注意したので一つも割らずに持ち帰れた。これで今日の狩り場の使用料と夕食代の足しになる。
「ふむ、今日は手ぶらじゃ無いのか。……ちょっと裏へ来い」
サイリーに卵を任せたアシュトンが裏口からテンを連れ出した。日暮れまでは少々の間があるので換金所は空いている。それでも念を入れて扉を閉めた。
「様子はどうだ」
「全くだめだ。食餌や水浴をした跡はあるが、姿を見てすらいない」
「やはり簡単には行かないようだな」
「また予定を空けてくれ。もう少し見張りを続けてみるつもりだ」
重い溜め息をつくテンに、さも意外そうにアシュトンが尋ねた。
「明日もか?」
テンの黒い瞳に強い光が煌く。王狩りを諦めろと言われたような気がしたのだ。テンは必ず王を狩ってみせると心中で誓いアシュトンを睨み付けた。
「……お前らしくないぞ。今日は稼ぎがあったんだ、腹に何か入れてから己をよく見ろ」
言いたい事だけ言うとアシュトンはさっさと中に戻った。残されたテンは一人茫然と立ち尽くす。しかし、苛立って村の重鎮に八つ当たりした方が悪いのだ。咎めず見逃してくれたアシュトンに感謝すべきだと、もう一人の自分が心のどこかで囁いた。
殆どの時間を動かずに過ごしているのに、疲労も空腹も感じるのが不思議だった。狩りをしている時は疲れはしてももっと気分が良いのだ。腐っていても仕方がないと溜め息をついたテンは、自嘲めいた笑みを浮かべて年寄りの言葉に従った。
―― ◇ ――
食事中も皆口数が少なく、いつもは陽気なシムでさえ黙々と食べていた。他の狩り組も何かあると思っているようだが、具体的に尋ねてくる者はいなかった。ヒワの卵が茹で上がりカウンターに並ぶ。野鳥の卵が好物のミアイもちらりと見るだけで席を立とうとはしなかった。
一通り食べ終えて普段なら追加の料理を取りに行く所だが、テンたちは懐具合も食欲も奮わない。段々と混雑して来たので場所を空けるかどうか迷っていた時だった。珍しくタカが話の口火を切る。
「なあ、明日も続けるのか?」
「お前までそんな風に思っていたのか……」
仲間の組衆にまでアシュトンと同じような事を言われたテンは、眉を寄せてむっつりと黙り込んだ。
簡単に成し得ない名誉なのは初めから分かっていたはずなのにこの有様なのか。
「な……、なあ、違うんだ。誤解しないでくれ。ただ、俺は───」
何が何でも『王』を狩ってやると意地になっているのはテン自身も自覚していた。眉根を寄せて睨むと、先の続かなくなったタカがごつい肩を落としてしゅんとする。怪訝そうに弟を見ていたカクがテンを宥めようと口を挟んだ。
「そんなにいきり立つなよ。こいつはただ───」
「嫌なら抜ければ良い。俺は一人でも追う」
「おい、待てよ」
腰を浮かせて席を立とうとするテンの肩にヤスが手を置いた。
「……離せ!」
鋭利な刃のようなヤスと闇夜の影のようなテンの視線がぶつかる。二人の間に座っていたシムが卓上に身を伏せて呻いた。
「ヒトの上で揉めるなって…………」
「イラついてるのは分かるが、それは俺たちも同じなんだよ!」
「二人とも止めて!」
堪らず止めたミアイも険悪な雰囲気に二の句が継げない。喧嘩なら外でやれと別の卓から野次が飛ぶ。
テンが肩の手を掴んで引き剥がそうとした。離すまいとヤスも手に力を込める。睨み合ったままの二人の腕にぐっと筋肉が盛り上がる。そしてヤスの手が徐々に持ち上がり、ついに肩から外れた。テンの手を振り払ったヤスが掴まれた手首を擦る。そのまましばらく睨み合った。
「お前らしくねぇぞ……!」
無言で席を立ち、食堂を出て行くテンの背中は全てを拒否していた。
―― ◇ ――
独り外に出たテンは村の広場を抜けて暗がりに向かう。『村』から各寮までは地面にも道が出来ている。通い慣れている事とて夜でも樹渡りに支障は無いが、このまま寮へ帰る気にもなれなかった。
苛立ちをぶつけてしまった後悔と自責の念が募る。「お前らしくない」と言われても、他人と関わるのが苦手な自分には組頭など向いていないのだ。しかし今更そんな事を言っても仕方がない。
この五日というもの気の張り通しだった。思い通りに行かず、何時まで続くのかも分からない見張りに神経がささくれ立っていた。ほう、と大きく息を吐き、苛立ちや怒りのような負の感情は抑えなければと己を戒めた。
子供の頃は感情を制御出来ずにしょっちゅう喧嘩をし、その度に禁足地に逃げ込んだものだ。苦い過去を辿っているうちに、ふとこの前の夜歩きが何時だったのか、すぐに思い出せないのに気付く。
テンは人と関わる事が煩わしくなった時に禁足地で気晴らしをしていた。数刻から長くても一晩、清浄な森の中で独り時間を過ごすと気持ちが落ち着くのだ。狩りも収穫もせず火も熾さない。慎重に行動しているので、禁を犯しているのは誰にも悟られていないはずだった。
夜の森は昼のうだるような暑さが嘘のようにひんやりしているだろう。夜に飛ぶ鳥の羽ばたきや虫の声、湿った土の匂い。星月を見、風を感じ、時には雨音に耳を傾ける。
数ヶ月ぶりに『入らずの森』へ行くと決めただけで気持ちが軽くなった。もう一度大きく息を吸って森に思いを馳せる。村の近くは生活の匂いが強かった。食堂からは様々な香辛料や料理の匂いが、換金所の倉庫からは保管された獲物の匂いが漂って来る。
他にも薪の燃える匂いや、誰かが隠れてこっそりと飲んでいるのだろう微かな酒の匂い。そして湿った空気の中に雨の匂いも───。
テンの意識に閃光が走った。急いで黒い森の隙間から空を見上げた。月も星も見えるが、細長い灰色の雲の動きが速い。もっとよく見ようと広場へ駆け戻る。そこなら葉の茂った枝が邪魔になる事は無い。改めて空を見上げ愕然とした。
テンには天候を察知する〈空読み〉の能力があった。狩り人なら誰しも天候の変化には敏感だが、空読みは数日先まで見通す。
こんなにはっきりと気配があるなら、空読みでなくとも明日は確実に雨が降ると感じるだろう。午前のうちに酷い降りになって、狩りはおろか屋外の作業は全て取り止めになるはずだ。それなら狩りは非番にして先延ばしにしていた奉仕作業でもしている方が余程良い!
そこで再び脳裏に閃くものがあった。アシュトンはテンの能力も知っている。だからテスの古語で『空』を意味する彼自身の名を挙げて、落ち着いて空を見ろと言ったのだ。分かってしまえば簡単だった。精神的な余裕の無さを指摘されて年長者に怒りをぶつけ、組衆にまで噛み付いてしまった己を恥じた。
土砂降りの中で森に入っても無意味である。足跡も匂いも全て雨に洗い流されてしまうからだ。だが、雨が上がればシシ王は縄張りを主張するために新たな匂いを付けて回るはず。
塒を出て動き回るのならきっと……!
明日の天気とは裏腹に、厚い雲の切れ間から光が差したように心が晴れて行った。数日後には王に遭えると思うだけで興奮に身体が熱くなる。『王狩り』になる機会は必ず訪れると、再び信じられるようになっていた。
しかし、自分の世界に浸っていたテンの視界に三度閃光が走った。