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銀の月 改稿版  作者: 紅月 実
第二話  雨
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雨(一)

 非番明けでいつものように狩り場に着いた彼らは、幾らも進まないうちに全員が同じ違和感を覚えた。地上に降りてみれば、縄張りのあちこちが荒らされていた。二年前にミアイが侵した掟破りと違って物理的にである。


 果実が喰い荒らされ、低木が丸ごと引き抜かれた箇所さえある。掘り返して土中の根茎を食べた跡は開墾して畑を作ろうとでもしたようだった。

 好みの食性からイノシシだと思われた。初夏の今時期は冬に生まれた仔が親離れする時期だ。そして自然界の縄張りでは世代が代わる季節でもある。元の縄張りを追い出されたり、新しく自分の縄張りを探すイノシシが人間たちが狩り場としている森へ下りて来るのだ。それ自体は当たり前で特筆すべき事ではない。

 問題は荒らした獣の食餌量だった。目星を付けると周辺を根こそぎにしてしまうのである。余りに酷い状況なので初めは群れだと勘違いしたほどだ。仔を持たない若い雌は群れを作る事もある。


 だが、よくよく調べるとそのイノシシは単体だった。そして普通は膝上からせいぜい腿の半ばまでの高さだが、人間の腰より高い位置にあるマーキングは、深く長い傷に平行して浅く短い傷が付いていた。牙が長く発達するのは雄だけだが、雄はその丈夫な牙で幹に傷を付け樹皮をかじり、そこに体臭をこすり付けて縄張りを主張する。

 テンたちは件のイノシシが四本の牙を持っているとの結論に達した。『聖地の王』が自分たちの狩り場に居る。そう確信した彼らは手分けして足跡や食餌のために掘り返された場所を丹念に調べ始めた。




 テスの血族は山の一定地域を聖地として不可侵にしている。森の奥深くは〈祝福〉の力が強く、そこは人間ひとが不用意に汚してはならない場所だった。生命の宝庫である聖地で生きる獣たちは〈自然の恵み〉の影響を強く受ける事がある。

 祝福が強く現れるとまず身体能力が向上し、寿命が延びて通常より身体も大きくなる。幼年期が短く老いの訪れも緩慢で肉体の最盛期を長く維持出来るのだ。

 大きな体躯と強い能力ちからを持つ獣は広い縄張りの王として君臨する。四本牙のシシ王なら間違いなく二十年以上生きているはず───イノシシの寿命は十年前後───だ。


 聖地の王として判っている獣はクマ、イノシシ、シカの三種類だった。それぞれに一頭ずつの王しか存在しないという訳ではなく、巨大な同種の二頭が争っていたという昔語りもある。いずれにしろ、獣の王は一目見ただけではっきり判ると言われていた。

 祝福の恩恵を強く受けた獣王は頭も良い。人間が自分たちに有利な地形へ誘導しようとしても思い通りにならず、知恵を競い体力の限界まで追い続け弱らせてからやっと狩る事が出来る。人間の方が先に疲れて逃げられる事もある。

 シカの巨大な角で腹を割かれた者もいる。イノシシの強靭な脚で踏み殺された者もいる。森に捨てられ、雌のヒグマに拾われ育てられた人間の赤子も居る。

 聖地の王を相手にするのは自然を相手にするのと同じだった。強く大きく残酷で、時に慈愛に満ちているのだ。




 領主のテス一族は代々祝福を特に強く受け継いでいる。いや、自然の恵みが強い血筋だからこそ指導者に選ばれたのだ。離れた場所に心の声を届かせたり、遥か遠くを見聞きする特殊な能力ちからも一族の者に多く出る。

 〈恵み〉を強く受けた人間は他の生き物ほど極端に身体が大きくなる事は無い。だが、成長が早く長命で老いが遅いのは同じだ。怠けずに鍛えていれば驚異的な身体能力を長く維持する事も可能である。

 近隣に住まう一族の中には若い頃から狩り人として名を馳せ、齢八十を超えた現在でも五十代の容姿を保ち、樹渡りを移動の常としている者まで存在する。

 自然の恵みは生きる力そのものが強く発露したものだ。ドルディア山脈に根付いた人間のみならず、全ての生き物が持ち得る力だった。



―― ◇ ――



 縄張りのほぼ中心『まな板』に再度集まり、調べた結果を照らし合わせると、イノシシの王はこの縄張りに居付く事にしたようだ。エレラ組の狩り場から湖岸沿いに通り抜け、境界を越えて隣のギゼ組の狩り場へ移動した後でまた戻って来ている。テンたちの縄張りは北をエレラ組、東を『入らずの森』、南西はギゼ組と接していた。


 東ガラットの聖地はガラテア山頂の南側にある。その周りはガリ=テスが管理するテス一族の森と、村の共同所有ではあるが禁足地の『入らずの森』でぐるりと囲まれていた。その外側を狩り組や村人が収穫可能な縄張りとし、万が一にも誰かが聖地に「迷い込んで」しまう事の無いよう配慮されていた。

 エレラたちは村でも一、二を争う高収入かせぎの狩り組だ。発言力のあるロウ一族の血筋で組を作っている。兄弟姉妹、幼い頃からきょうだい同然に育ったいとこたち。抜群の連携で確実に獲物を仕留め、東ガラットの食糧事情に貢献していた。




 何となく樹上での会合になった。慣れ親しんだ狩り場を別の存在に自分のものだと主張されたのである。相手が相手だけに腰が引けていた。ぽつりとシムが呟いた。

「オレたちも『王狩り』になれるのかなあ。………なれたら良いなあ」

 『王狩り』は狩り人なら誰でも憧れる名誉である。読んで字の如く聖地の王を狩った者だけに許される呼び名だ。

 以前特大のイノシシを狩った時に、獣王では無いものの結構な騒ぎになった。上顎の牙の先が唇を突き破って、ほんの少し出ている程度のかろうじて四本牙の獲物であれだけの騒ぎになったのだ。正真正銘の獣王を狩ったらどうなるか想像もつかない。


「生き残れれば、……な」

 さりげなく恐ろしい言葉で応じたのはテンだった。暗い色の瞳に笑みは無い。自身も含めて組衆の誰かが命を落とすかも知れないのだ。獣王に挑んで命を落とす者は少なくない。その時の怪我が元で名誉と共に一線から身を退く者はかなり多い。

「オレは死にたくない。でも『王狩り』にはなりたい」

「俺もだ」

 それは皆も同じだった。




 シシ王をどう狩れば良いのかという答えは誰にも分からなかった。闇雲に向かって行っても無駄だろうが、ここで悶々としているのは不毛だった。

「こうしていても仕方ないな。今日の獲物もまだ無いし、手ぶらで戻るか?」

「今からウサギ罠を仕掛けても無理だよなあ。運良くシカが通り掛かってくれるとも思えんし……」

 重い空気を振り払うように言葉を掛けるテンだったが、タカはげんなりと天を仰いだ。調べている途中で当のシシ王に出くわす可能性もあったので、気の張り詰めで疲弊している。こんな精神状態で獲物を追っても成功するかどうか危ぶまれた。

「狩りは無理かもしれないが他はどうだ。何か採集できそうな薬草か果実は無かったか?」


 男たちは皆一様に黙ってしまった。こういう時こそ頼りにされているのが分かっていたが、ミアイも大した物は見付けられなかったのだ。何を目当てに土を掘り、どのくらい果実を食べられたのかを確認して、その食餌量に愕然としていた。

「毒のあるもの以外はかなり食べられちゃってるの……。踏み潰されたり、地面を掘り返して根を切られたのもかなりあるから、秋の実りも少し減るかもしれないわ」

 溜め息をつきながら素直に話す。そこでふとある考えがミアイの頭を過ぎった。テンは僅かな表情の変化を見逃さなかった。


「何か気付いたなら言ってくれ」

「でも……、役に立つかどうか分からないし……」

「今のままでもどうにもならない。とりあえず言ってみろ」

 重ねて問われ、躊躇いながらも話し出す。

「あの……、あのね、もしかしたらシシ王は怪我をしてるのかもしれないって思ったの。わたしが調べた場所では山イモや果実の他に、ドミネラやムルシェリも株ごと引き抜かれて根まで食べられていたの。秋になったら種を収穫しようと思って覚えておいたから間違いないわ」


 ドミネラは香草として生食も出来るが、傷口に塗れば化膿止めになる。ムルシェリは煎じても塗っても効果が有り、主に痛み止めと熱冷ましに使われる。そしてどちらも暑さを好むので、夏の今時期に旺盛な繁殖力を見せる植物である。

「元の縄張りを追い出されたんだとしたら、若い王との闘いに負けて傷を負っているのかもしれないな」

「だから栄養を付けるのにごっそり食ってるのか」

「そういえば、オレの調べた場所にもドミネラの葉が散らばってたよ。株ごとかどうかまでは覚えてないけど、ちぎれた葉がいくつも落ちてた」

 シムだけでなく、他の者も口を揃えてドミネラの葉があったと言い出した。食餌の際に必ず食べているのなら、やはり傷を治そうとしているのだろう。野生の獣は本能的に必要な物を口にする。


「俺の調べた場所に血の跡は無かったと思う。ドミネラとムルシェリが必要としてそれはどんな状態だ。酷い傷だと思うか?」

 テンが再び尋ねると、ミアイは頭の中で言葉を探しながら考えを口にしていく。

「聖地からここまで逃げて来られたんだとしたら致命的な傷じゃないわね。わたしの調べた所にも血の跡は無かったから、傷は塞がりかけてるんじゃないかな。広い範囲を移動してるから、今のところ行動に支障を来たしてもいないし食欲も旺盛。と、いう事は、掠り傷よりは酷くて少し化膿している。傷の痛みと化膿が原因の発熱を抑えるのに薬草を必要としている。…………こんなの感じで良いの?」


 声に出して独り言を続けていたミアイは不安になって逆に尋ねた。口元に微かな笑みを浮かべたテンは満足そうだ。頷きながらミアイの話を聞いていたヤスが代わりに答える。

「十分というか、それで決まりだろう。化膿止めや熱冷ましになる薬草は他にもあるが、シシ王はその二つを選んで喰ってるんだ。群生地を見張ってれば現れるんじゃねえか?」

 イノシシは水浴や泥浴を好む。その為の沼田場ぬたばは見付からなかったので、北西の湖岸周辺と縄張り内に二ヶ所ある湧き水の片方、薬草の群生地を基準としてねぐらを探す事にした。

「明日から他の獲物は狩らずに『王』を追う。それで良いな」

 皆が頭の決定に頷いた。

「獣王の事は終わりにして、次は俺たちの番だ。今夜はしっかり休んでおこう」

 彼らが手ぶらで村へ戻るのは実に久方ぶりだった。

お目通しありがとうございます。紅月 実にございます。

今回は設定裏話? をば、ひとつ。


下顎の犬歯が発達して突き出ているのが一般的なイノシシのイメージでしょうか。

作中の東ガラット周辺に生息するイノシシもそうです。

殆どはそのイメージから逸脱せずに十年くらいで寿命を終えますが、〈自然の恵み〉の影響を受けた個体は別で、完全に成熟した生後5~6年ごろから上顎の犬歯が内側へ丸まって上へ伸び始めます。

それが鼻と目の間(鼻筋)を突き破って内巻きになります。

その後も顔面をガードするように牙は伸び続け、外側を下顎の牙、内側に上顎の牙が並びます。

なんかマンモスみたいですね(汗)。


ちなみに実際に存在するバビルサという種類のイノシシはそういう牙の生え方をします。

初めてバビルサの画像を見た時に、顔や目に刺さりそうで危ないなあと思ったものですが、頭骨に上顎の牙が食い込んだ画像を見た時はやっぱり感が(苦笑)。

その個体が先端恐怖症だったらどうするんだなどと下らない疑問も……。


皆さまも興味がおありでしたら調べてみると面白いかもしれません。

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