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銀の月 改稿版  作者: 紅月 実
第一話  夜明け
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夜明け(四)

 湖からミアイの捌いた獲物を引き揚げたテンとタカは、夏の遅い日暮れまでに十分な余裕を残して村に帰り着いた。肉の入った袋を背負い細縄ロープで括ったシカの脚を持った二人は、開け放した換金所の戸口へ向かう。入ろうとした所で、中から出て来た男衆とテンの肩がぶつかった。

「おっと……、すまない」

 謝って通り過ぎようとしたテンを、その男衆――――ラニがぎろりとテンを睨む。

「ぶつかっといてそれだけか。……て、お前テンじゃないか」

「ああ、悪かった。次からは気を付ける」

 目を合わせず中に入ろうとしたテンの腕をラニが掴んだ。

「待てよ……、二人しか居ないのか? 何だ、他の連中には愛想尽かされたのかよ」

「皆は後から二頭目のシカを持って来るはずだ。別に組衆に逃げられた訳じゃない。……もう良いか?」


「おい、そいつはどういう意味だ。しかも一日にシカ二頭なんて……!」

 今年の春にラニの組衆が別の組へと移っていた。『横手』をしていた男衆は、若衆を出たばかりの新米三人に乞われて頭として迎えられた。そちらは若手の組にしてはまずまずのようだ。対して、数年来の組衆を欠いたラニ組の稼ぎは振るわなかった。

 ラニが気色ばんだのを見てタカが仕方なく仲裁に入った。そんな理由で八つ当たりをされるのは迷惑だった。

「謝ったんだからもう良いだろう。最初に組衆の話を持ち出したのはそっちじゃないか」


「…………恥晒しの癖に偉そうにするんじゃねえ」

 収まらないラニが押し殺した声で吐き捨てると、テンの顔から表情が消えた。こうなったらテンは何も言い返さず、相手が止めるまで黙って暴言を聞き流す。似たような場面に幾度も遭遇しているタカは、いつもそばで聞いているのがいたたまれなかった。タカは換金所の中へ無言で助けを求めた。


 体格の良い狩り人たちの中でもタカは特に大柄で頭一つ抜けている。カウンターの奥側に居たサイリーと目が合った。サイリーは数人が戸口で立ち往生しているのに気付いた。

「おーい、立ち話なら出入りの邪魔にならないとこでしてくれよ! タカは収穫を持ってるのか? それなら中に入って列に並べ」

 舌打ちしたラニが組衆と食堂に向かった。その後ろで待たされていた数人も急いで出て行く。


 テンとタカが買取待ちの列に並び、壁際の縁台に荷を置く。壁にもたれたテンがぽつりと呟いた。

「慣れているから、気にしなくても平気だぞ」

 答えるタカも声を潜めて周囲に気を使っていた。

「でもあれは嫌がらせじゃないか。あれ? ……確かこの前突っ掛かって来たのもラニだったよな」

 テンは自身の左目の上を指で軽く叩いた。眉尻に小さな傷跡があり、眉のラインがそこだけ白く途切れている。

「ここの傷はラニと喧嘩した時にやられたんだ。俺は仕返しにラニの足を折った。それを根に持っているんだろう」


「ああ、前に聞いた。でもそれお前一人に相手は三人で、石で目を殴られてめしいになりかけた時の話だろ。しかも童子ガキの時の事じゃ……」

「七つか八つの時だな。俺の目付きが気に入らなかったんだそうだ。どうやら、今もそうらしい。……俺の父が分からないのは事実だし、それが気に食わないのなら俺にはどうしようもない」

 まるで他人事のようにテンは淡々としていた。夫と死別した寡婦であれば周囲も好意的だったのだろう。しかしテンの母は誰とも分からぬ男の子供を産んだのだ。腹の子の父親については頑として口をつぐみ、テンが若衆に入る前に身罷みまかった。そして独り遺されたテンは未だに蔑視されていた。


 タカも兄のカクもテンの素性を知っているが、『恥晒し』だとは思っていなかった。生まれや血筋は自身で選べないし、それだけで人の価値が決まるのでは無い事を二人ともよく分かっていた。

「先代のガラ=テスは、親が誰であれ俺を『領民』として認めると公示したし、ガリもその意向を引き継いでいる。俺はそれで構わない」

 遠い昔、私生児は奴隷と同意語だった。そこまで酷い扱いではないとテンは言う。

「……おれが構う」


 それまで一点を見詰めていたテンが、驚いて見上げるほど不穏な響きだった。領民の権利を認められていても偏見は残っている。口調とは裏腹にタカは落ち着いて見えたが、実はかなり怒っているのだ。

「誰にでも好かれるのは無理だから仕方ない。お前のように気にしない者も居る。俺はそれで構わないんだ」

 固かったテンの表情は何時の間にか和らいでいた。



―― ◇ ――



 走っていたシムが急に止まった。片手にぶら下げた獲物の頭だけが先へ行こうと振り子のように動く。大きく息を吸うと合図の遠吠えをした。身体全体を使って声を響かせ喉を震わせる。

 『緊急』『縄張りの通行許可』『四人』同じ内容を左右に向けて放つと、遠吠えの間に脇を走り抜けていた仲間を追って再び走り出す。

 両手の荷物のせいで身体の平衡を保つのが難しいうえに、視界が悪い中での樹渡りは避けた。感覚の鋭い狩り人はそれなりに夜目も利くが、太陽が沈みつつあるこの時だけは視覚が鈍るのだった。


 シムが先行して合図をし、仲間に追い抜かれれば再び先行する。今までにそれを二回繰り返した。もうすぐ縄張りは他所の組から共同のものへと移り、そうなれば合図の必要は無くなる。

 ヤスの後ろを行くミアイの呼吸は乱れていた。合図役のシムの荷を減らし、その分を引き受けたヤスが一番きついはずだった。しかし実際には、ミアイは引き離されないようにするのがやっとだった。

 シムが最後の遠吠えをした。縄張りの境界を越えれば換金所まではもう一息だ。腹に力を入れると足の動きに意識を集中して走り続けた。


 ふいにミアイの視界が真っ白になった。暗がりに慣れた視力が広場の篝火かがりびに対処出来なかったのだ。やっと村に戻れたという安堵感で集中が途切れ、危うく顔から地面に突っ込みそうになる。換金所周辺の混雑は食堂に移っていた。

 走っていた時は吹き散らされていた汗が滝のように顔を流れる。気を抜くと座り込んでしまいそうだった。広場の中央から通り過ぎてしまった換金所の前まで戻り、肩で呼吸しながら見覚えある人影に近付いた。

 貴重な稼ぎの元を受け取ったテンは、労いの言葉もそこそこにミアイを裏の井戸へと追いやる。歩きながら鉈と道具帯をを外して胴衣ベストを脱いだ。


 先着のカクとヤスは胴着シャツを脱いで半裸だった。井戸水を汲んで交互に頭から被っている。それを見たミアイも汗で洗ったようなシャツを脱いで縁台ベンチに放り出した。走っても胸が邪魔にならないよう布製の胸当てを着けてはいるが、倫理上ははしたない格好である。

 どうせ井戸までは篝火の明かりは届かないし、今は何を言われようと構わなかった。汗を拭おうとして足が攣りそうになり、井戸のふちに両手をついて身体を支えた。ヤスが一言断ってから背中に少しずつ水を掛ける。一瞬息が詰まったが、冷たい水は心地好かった。

 順番に水を被り喉を潤すうちにミアイの呼吸も落ち着いた。運ぶ荷の割り当ては軽めでも、彼女にとってはかなりきつい道程だった。


 〈自然の恵み〉にも様々な面がある。『囮』は優れた瞬発力を持つ代わりに持久力の低い者が多かった。時折立ち止まって獲物の痕跡を確認しながら移動する程度なら問題は無いが、今回のように長距離を走り続けるのは最も苦手な部類に入る。特にこういう状況では元の体力差が出た。




「遅くなったがやっと終わっ――――」

「おほ! 良い眺め……、いたっ! 痛いよ!」

 獲物の買い取りを済ませて井戸へ来たテンが表情も変えずに背を向けた。飛び上がって踵を返したタカが、シムの耳をつねって強引に顔を背けさせる。下着姿なのを思い出したミアイは急に恥ずかしくなった。それまで一緒に水浴びをしていたヤスたちも、既に礼儀正しくミアイから顔を背けている。

 胸を隠して脇の縁台に手を伸ばした。鉈と一緒に置いたはずの胴着シャツは下に落ちていて、持ち主と同じく水浴びをしていた。仕方なくベストに袖を通す。汗で重く湿っていて着心地は悪いが、汗、水、泥と揃い踏みのシャツよりはずっとましだった。


「……汗が引いたらテスの館に行く。ガリからの言伝ことづてで昨日の礼をしたいそうだ」

 昨日は領主からの急な依頼で禁足地へ薬草の収穫に出向いた。一日掛かってやっと集めた袋一つ分の新芽はすぐに街へ運ばれた。疲れ果てた彼らは食事もそこそこに寮へ戻ってしまったのだ。

 テンと領主のガリ=テスは幼馴染みで、時折二人で酒を酌み交わしていた。その時は主と領民ではなく、気の置けない友人として付き合っている。テンを誘うついでのように組衆が食事に招かれるのも初めてではなかった。


「どうした?」

 平坦なテンの声は何も見なかった事にすると言っていた。ミアイは何故か無性に腹が立った。

「何でもない。……ただお腹が空いただけよ」

 独り身のガリ=テスだけでは腕の振るい甲斐が無いからと、館の家事をしている老女二人は、いつもテンたちの訪れを手ぐすね引いて待っている。料理上手の振る舞いを思い切り食べてやると決意したミアイは、先頭を切ってテスの館へ向かった。

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