夜明け(三)*動物解体描写有り
豊かな森に囲まれた広大なムトリニ湖はガラテア山の中腹にある。初夏の今時期は樹々の緑が濃くなり始める。山の堂々とした姿と煌く湖は、輝く盾を持った巨人が艶やかな深緑のマントを羽織って居るようにも見えた。
澄んだ水面を渡る風は涼しく穏やかだった。岸に水が打ち寄せる。縄張り内で最も大きな水場であるムトリニ湖畔が彼らの青空食堂だった。
金物の鍋がくつくつと煮えていた。木の枝に刺して火にかざしたシカ肉とともに食欲をそそる匂いが漂ってくる。
どこの組にも補充用の水場は決められているが、共同の水場周辺での狩りや収穫は禁じられている。テン組は湖岸の一部も縄張りである。範囲内なら魚や水棲植物の収穫も自由なので、食事の添え物も選び放題だった。
いつも同じ場所で昼食にするので、石を並べて簡易式の炉を作ってある。人数分の食器も近くの岩陰に置いてあった。
シカの脚の骨を割ってダシをとったスープと野草を一緒に煮た物。近くで採った生食出来る香草と、ヤスが村の食堂で仕入れて来たパンとチーズにほどよく焼けたシカ肉を挟む。狩り場の食事としては豪華な内容だ。自然に感謝を捧げてから食べ始めた。
昼餉が終わる頃、誰からともなく午後の予定を頭に確かめた。今日のように暑い日は無理に動き回らず、植物の収穫をする事もある。スープの残りを飲み干したテンは汗を拭った。
「狩りはするが、あと一、二刻くらいはここで休憩しよう。火の番は俺がやるから午睡すると好い」
「後で代わるから起こしてくれ」
既に食べ終わっていたヤスがさっさと涼しい木陰で横になった。皆も木陰へ移動して各々居心地の良い格好で横になる。
自分の持っていた椀に気を取られていミアイは火のそばに座ったままだった。皆が使う木製の食器の中で、彼女の使う一揃いだけが他の物よりも新しい。
「どうした。具合でも悪いのか?」
物思いから引き戻されたミアイは何でもないと首を振ったが、以前からの疑問を口にした。
「……よく一晩で作れたわね」
訝しげな顔の前で椀と匙を振って見せる。テンの表情が緩んだ。
「似たような色の材料を見付けたから、予備のつもりで作ってあったんだ。軽く仕上げるだけで済んだ」
テンが抱える鉄鍋には椀や皿の他に木の玉杓子も入っていた。昼食で使った木製の食器は全てテンの手に成る物だった。
二年前のあの日も食事の為にこの湖畔を訪れた。そしてミアイの使う椀も明日までに作るとテンは告げた。初日の腕試しを上手くこなさなければならないと緊張していたミアイは、その言葉で翌日以降も食事や狩りを共にする事を約されたのだ。
組に入るきっかけになった小刀の新しい柄と鞘もテンが作った物だった。彼にはそちらの才能もあるようだ。手慰みの品は丁寧で出来が良く、組衆全員が彼の作った物を一つは所有していた。
「今度、大きいナイフの柄も頼もうかな」
「良さそうな材料が手に入ったら作っておく」
テンはミアイの手から食器を取り上げて鍋の中に入れた。
「それじゃあ、わたしも横になって来るわ」
水際へ屈む背中に一声掛けて森へ向かった。返事は期待していないのでミアイも振り返らない。陽射しを避けて木陰へ入ると、他の男たちと適度に離れた場所で横になる。水気を含んだ涼風に頬を撫でられているうちに、彼女はとても幸せな気分で眠りについた。
―― ◇ ――
テンは午後も狩りをすると言ったが実際には地上で収穫をした。既にシカで今日の稼ぎを確保してあったので体力の消耗を避けたのだ。
いつもより長い休憩の後で縄張り内で目印となる拠点を順に回った。薬の原料を探しながら獲物も探したが、先刻狩った獲物の痕跡しか見当たらなかった。
無論この縄張りで一番大きい拠点は湖だ。高い位置から北西に目をやれば縄張り内の殆どの場所からムトリニ湖が見える。最奥に位置する湖岸や、彼らが『まな板』と呼ぶ空き地の他に二カ所の拠点がある。
どの辺りがどこの組と接していて、どこに移動用の通り道があるのか。組衆はしっかりと覚えていた。
「寒くなれば咳止めや熱冷ましは必要だし、流感が流行ったりすれば薬はどれだけあっても足りないわ。でもそんな事言ってたら、収穫に忙しくて狩りをしてる暇なんて無くなっちゃうわよね……」
「ねえねえ治療師様。これはどうする?」
ミアイは肩を竦めて独り言を止めた。シムに近寄ってその手元を覗き込む。
「えっと……、それは……。どっちでも良いわ」
「どっちだよ!」
「じゃあ摘んで!」
シムとミアイが同時に笑い出す。二人の笑いは皆に伝染し、和やかな時間が流れる。
狩り組が縄張りで収穫するのは特に高値で取引される貴重な種類と、治療所から換金所を通して依頼される特定の品が多かった。狩り人なら基本的な毒と食用植物、怪我の応急手当てなども出来るが、治療師のように昇華させた知識とは根本的に違う。
薬の材料は種類も多く摘み取る時期や部位によって効能も変わる。収穫してすぐに乾燥が必要な物、逆に乾燥させると効果を失う物など様々だ。正しい知識が無いと稼ぐどころか無駄骨になってしまう。
有り難い事にテン組には調合師から一つ上の治療師師補に昇格したミアイがいる。面倒で手間の掛かる処理も丁寧に教え、手際良くこなした。
今やテン組は若手の狩り組の中でも一目置かれる存在だった。元々稼ぎの良い組ではあったが、治療所からの依頼でガリ=テス個人の縄張りへ採集に出向く事さえある。テンとガリが幼馴染みということもあるだろうが、ミアイの加入で『村』への貢献度が上がり、信頼されるようになったのである。だが、始めから上手く行っていた訳ではない。
ちょうど二年前の夏にミアイは村の掟を破った。狩りを一人で成功させなければと気負い過ぎたのだ。止めの一撃に失敗し、小刀が刺さったままのシカは隣の縄張りへと逃げ込んだ。ミアイは狩り場の境界を侵して獲物を追った。
縄張り荒らしは重大な掟破りである。縄張り主のテン組に捕らえられ、恥ずべき行為を犯した彼女の信用は地に墜ちたかに思えた。しかし、組衆の一人タカの口添えで賠償金を支払うに留め、掟破りは告発しなかった。
狩り組とその縄張りを管理する換金所の責任者と、法の頂点に立つ領主に報告はしたものの、東ガラットの実力者二人は組頭の意向を尊重した。被害者であるテンたちがミアイを組衆として迎えたので、徒に事を荒立てず彼女の名誉を守ったのだ。
ミアイが若衆を出てからこつこつ貯めた金を全て渡しても賠償金はその倍以上残った。祭りの晴れ着用の生地や絹のリボンを横目で見ながら、必要な物以外は徹底的に切り詰めた。非番の日には治療所で働いた。街へ卸す薬草に保存用の加工をするのも治療所の仕事で、出向いた者には食事が用意されるからだ。
狩り場の植生は普段から注意して観察してあり、薬草の収穫時期や方法に関する知識も深まった。治療所で急に入り様になった物は、組の許しを得て狩り場で採集した物を納めた。
様々な経験と知識を積んだミアイは一昨年のうちに治療師師補に昇格した。十六歳で師補はかなり早い昇格だった。治療所の責任者が目を掛けているミアイを贔屓したと陰口を叩く者もいたが、「それなら森へ行って同じように薬を採っておいで!」と一喝されて下火になった。
女衆であるミアイは移動する速度も範囲も只人と比ぶべくもない。贔屓をしているのは〈自然〉そのものと言えた。調合師から師補になって日当もぐんと上がった。狩りの稼ぎの殆どを賠償金の払いに充てられたのもそのおかげだった。
そして頭数が増えてからもテン組の稼ぎは減らなかった。次の年の春先に賠償金の返済が終わり、重荷が消えたミアイはやっと皆と対等になれた気がした。
賠償金も払い終わり、狩り人としても順調。治療師としての地位も上がった。テンたちと一緒に居るようになってからミアイの運は開けたのだった。
午後も半ばを過ぎ、少し早いが村に帰るかと話していた時だった。タカの背後に目を留めたテンが無言で皆の注意を引いた。視線の先にはシカがいた。風上の獲物にはまだ気付かれてはいなかった。
「どうする?」
挑むような声は既にテンの心が決まっている事を物語っていた。
「急がないとな。日暮れまで余り間がない」
ヤスに言われるまでも無く急いで薬草をしまった。
「『まな板』まで行くと解体と戻りの時間が厳しくなる。長く走らせずに手早く済ませたい。出来るようなら囮のどちらかで仕留めろ」
真上の枝に静かに跳び上がったテンは足に力を貯めて腰を落とした。背後のヤスも同じ姿勢をとる。
「行け!」
合図と同時に『止め』が上段の枝まで一気に跳ぶ。強く蹴られた枝が大きく揺れた。シムと一呼吸遅れてミアイが走り出し、カクとタカが続く。
シムは地面すれすれの跳躍からシカの後ろに着地した。両手を広げて草を掠める。ばさりと葉ずれの音がした。耳が鋭く音の方向に向いたと思うとシカは走り出した。跳ねるように逃げるシカを追ってシムも再び走り始める。
シムが着地し、気付いたシカが逃げ出す前にミアイは左へ大きく跳んだ。右足で跳び左足で地面を強く蹴る。移動の際は他に合わせて速度を加減する必要を感じるくらいには、ミアイは自分の脚力に自信を持っていた。一跳びで先行するシムに追い付くと、シカを挟んで併走した。後ろから横手の二人が適度な距離を保って付いて来る。
短刀を抜いたミアイが強く踏み切った。二歩でシカを追い抜くとくるりと反転して進路を塞ぐ。眼前で構えたナイフに意識を集中させて殺気をシカにぶつけた。真横に跳んだシカは全力の逃走に移った。
それはシムの横をすり抜ける事になったが、怯えた獣の目に彼の姿が映っていたかどうか。すれ違いざまにシムの振るった短刀がシカの喉元を切り裂く。向かってくる勢いで予想より深くなった傷から派手に血飛沫が飛んだ。
獲物はよろめきながら何歩か歩いた。前脚の力が抜けてどさりと倒れる。惰性で動く心臓が『止め』の足元に血液を溢れさせた。ミアイの二段跳びを見た二人は確実を期すべく待機していたのだ。
「二人ともよくやった、時間が無いから急いでくれ。俺はタカと一緒に湖で冷やしてある獲物を回収して直接換金所へ向かう。それを捌いたらお前たちも村へ向かえ」
囮を労うテンは満足そうだった。
「ん、分かった。お呼びだよ~」
「今日は楽が出来ると思ったんだがなあ……。まあ、仕方ない。後でな」
苦笑して頭と弟に声を掛けたカクは、獲物の横に膝をつくと三本目のナイフを抜いた。
大小二本のナイフで大体の用は足りるが、カクは獲物を捌く専用のナイフを携帯していた。数限りなく研がれた刃は細長い三角形になっていた。精緻な模様が掘り込まれた乳白色の柄は何かの骨で出来ており、鉈の柄と揃いだった。
「血抜きが足りないからやり辛いかもな」
皮に切れ目を入れて慎重に獲物の腹にナイフを刺す。柔らかいバターを切るように刃が沈み込んだ。染み出した血が白い毛の一部を赤く染める。鋭く舌打ちしてカクはそっとナイフを抜いた。
「やっぱり出血したか……。悪いが脚を押さえててくれ」
言うが早いか再びナイフを振るってあっという間に内臓を抜いた。皮を剥ぐのに吊るすかとヤスに聞かれた時も「このままで良い」と作業の手を休めない。
「いつ見ても上手いわ。ほんとに凄い……」
深く息を吐いて呟く。ミアイとシムがざっと臓物の処理を終えた頃には解体も殆ど終わっていた。獲物の解体は狩り人の基本技術である。しかし、カクの技量は達人の域に達していた。その手際は素晴らしいの一語だが、手伝ったヤスも充分過ぎる腕前だった。
「タカが居ない所でならいくらでも練習に付き合うぞ。……と言っても、ミアイは特に練習なんぞ必要ないだろ」
「? タカは関係ないでしょ」
「…………我が弟ながら哀れな」
「かわいそうだよねー……」
ミアイの意外そうな表情を見ていたカクは頭痛でもするように頭を抱えた。獲物の肉に持ち手用のロープを結ぶシムも同意する。
「不遇なタカはとりあえず置いといて、急がないとまずい」
どういう事よと食い下がるミアイを手で黙らせたヤスが周りを見ろと顎で示した。辺りは薄暗くなっていた。夕闇ももうすぐ完全に夜空と交代するだろう。
獲物は血抜きが足りないので、背負わず全て手で持って行く事にした。途中で血液や体液が染み出すと面倒が増える。身体と服は洗えば済むが、手入れの面倒な道具類は汚したくなかった。
「仕方ねぇなぁ…………、縄張りを突っ切るぞ」