王狩り(三)
換金所の仕切り台には、牙が付いたままのイノシシの頭骨と折り畳んだ生皮が置かれていた。それを挟んで奥に責任者のアシュトンと助手のサイリーが、入り口側にガリとティーア。そしてテン組とギゼ組の面々が立っている。
換金所内は、荷物を置いて順番待ちが出来るよう壁に沿って腰掛け台が並べられている。そして、今そのベンチを占領しているのはたった一頭の獲物だった。
集まった村人が入りきれる訳もなく、大勢の野次馬は戸口の外から成り行きを伺っている。入口の脇には先ほどティーアを肩に乗せていた偉丈夫が立っていた。
衛士のボブである。本来は許されない剣を佩き革の鎧を身に着けた衛士は、巫女の命にのみ従い巫女の為だけに生きる。
ティーアには三人の衛士がいるが、その中でもボブは最も高い地位にある。『聖地』にある隠れ里で〈祝福〉と武器の扱いを研鑽し、巫女と共に東ガラットへ迎えられた正式な衛士だった。
ボブ自身はとても柔和な性格だが、テン組に続いてキゼ組が中へ入ったのを見届けたティーアが、「入り口を見張って」と口にした途端に顔付きが変わった。四角くごつい顔に厳しい表情を浮かべて胸の前で腕を組み、戸口を睥睨して動かなくなった。
村一番の巨漢である彼は見事な体格をしており、腕も太く胸板も分厚い。その衛士が見張る横をすり抜ける度胸を持つ者はいなかった。中のやり取りが見聞き出来るのがせめてもの救いだ。
「……さっき『王』の声が聞こえたの。貴方たちが『彼』に送った声も聞こえたわ。彼は自分の死を受け入れたけれど、牙には余り触らない方が良いと思うの。彼の誇りだったそこには、最後に感じた強い怒りが残ってる。死に逝く者の負の感情は生者に悪い影響を及ぼすわ」
役得を満喫していたサイリーが慌てて牙から手を離した。
「長くそばに居なければ……、抱えて一晩眠ったりしなければ大丈夫だとは思うけど。少しでも変だと感じたらすぐに離れてね」
生あるうちは生命の象徴だった物が生者に害を為す。
心配したガリが他の部分も同じかと尋ねた。骨や皮は納戸行きでも構わないが、肉や臓物を口にして具合が悪くなるのは困る。ティーアはテンたちが苦労して持ち帰った物を見渡した。
「良くないものは四本の牙にだけ集まってるわ……。簡単に言うとね、その牙は祝福を弱めるの。負の力は少しずつ薄れているようだけれど、今夜のうちに清めを施したほうが良さそうね。その方が安心でしょう?」
アシュトンが謝辞を述べると、何でもないと言うようにティーアはにこりとした。
直に触れればより正確に感じ取れるが、ティーアは祝福を『視る』事も可能だった。巫女サヤナの地、東ガラットの護り手に選ばれただけあって、彼女は特に優れた能力を有していた。
巫女は自然の恵みが体現した存在である。領主が司る政治に対しては一切干渉しないが、自然の恩恵を受ける人々の精神的支柱になっていた。強い〈祝福〉と親和性を持つ彼女は、そこに居るだけで皆の心を和ませる。
見目麗しい容姿は元より、穏やかな威厳を纏った所作も、尊敬される地位に相応しく洗練されていた。この地に生きる者の代表として歌や踊りを〈自然〉に奉納するのだから、彼女は美しく在らねばならないのだ。
それまでティーアを憚っていたガリが、テンに現実的な問題を投げ掛けた。
「どれくらい手元に残すんだ? 売りに出す前に、親しい相手や親類に贈る分を取り除けなきゃならんだろう」
「まだ決めていないんだ」
「急いで組衆と相談しろ。他の〈テス〉たちへ贈る分は、全て言い値で領主が買い取るから心配するな。それ以外はマリダポールの執政官へ直に依頼すれば良いが、獣王一体で数年分……、もしかしたら十年分くらいの収入になるぞ」
狩り人たちは常に変動する街の相場には疎いものだ。獲物を直接売り捌くとなればそれに費やす時間と相応の商才が必要になる。そのため『換金所』なる施設が収穫物を買い取って街へ運び、そこで出入りの仲買いや商人に卸した収入が『村』に入る仕組みだ。
元からある流通経路を使って、正真正銘の獣王の肉や骨を売れば一財産築ける。換金所を通さなければ更に利幅は上がる。厳格な執政官のオズバルドならば不正を働く事は有り得ない。
また、獣王を仕留めた時は他の四氏族へも伝令が走る。当然ながら狩られた獲物の一部を手土産として持参する事になるが、ガリはそちらの対価も払うつもりだった。
「歯か骨も要るわね。『王狩り』の印を作るんだもの」
「あ……、そうだったな」
ガリとティーアが顔を見合わせて呆れた。極度の緊張の反動が思考を鈍らせているのか。テンの表情がどことなくぼんやりしているように見えた。しかし、大事を成した当人はこんなものなのだろうと好意的に捉えておく。どちらにしろ組衆が揃っていないのでこの場で決めるのは不可能だ。
宝石や木製の玉を通した首飾りは公の場で身分を示すために必要だった。かつては特権階級の血族と巫女。そして戦士階級の狩り人だけの風習だったが、今日では成人した者にも自由民の証が許されていた。
『王狩り』の印は獲物となった獣王の一部が使われ、地位を示す狩り人の王石の左右に牙や爪、角等を加工した一対を配置する。イノシシならば歯や骨を削って形を整え、犬歯に似せた物が好まれた。
「まだ忘れていた事があった」
沢山の荷物の中から探し出した袋をカウンターに置く。巾着袋の中には、血抜きの為に切れ目を入れられて扇状に広がった巨大な肝臓が入っていた。誰かの喉がごくりと音を立てた。初めて目にした者にとってこの大きさは圧倒的だ。頭骨や臓物に目をやりながら、大地を踏み締めて立つ姿はどれほどだったのかと畏怖の念に捉われた。
テンが腰の後ろから抜いた小刀の柄をガリに向けて差し出した。
「特権の一口目を我らが長に捧げる。次は巫女殿に。……構わないよな?」
テン組の者に否やは無く、頬を紅潮させたガリが慎重に一片を切り取った。親指大のそれを口に含んでゆっくりと味わう。
「ああ……、もう何時死んでも悔いは無い」
切れ者と名高い領主は、私人としては気の好い青年だった。芝居掛かった物言いが苦笑を誘う。ティーアも同じナイフを使い、ガリより幾分小さく切り取って濃い血色の肉片を優雅に口に入れた。
テンも巫女と同じだけ切り取り、ナイフを回してカク、タカ、ヤスと同様に口にした。テンが仲間の注意を引き、ちらりとギゼへ目をやった。テンの意図を察したヤスがギゼにナイフの柄を向ける。
「シムとミアイには後で渡すとして……。勝ち鬨に応えてくれたお前たちにも特権の分け前を贈りたい」
「えっ……、ええっ!?」
仰天したギゼの声は裏返っていた。
「捌くのも村まで運ぶのも手伝ってもらった。その礼だ」
突然の事にギゼは目を白黒させていた。しかし組衆――――特にジゼル――――の射抜くような視線に後押しされてナイフに手を伸ばす。ギゼは遠慮して小指ほどの大きさに留めた。ギゼ組の者もいそいそと王狩りの相伴に預かる。ナイフを返したギゼは姿勢を正した。
「厚情に対して心から感謝する!」
感極まったギゼがテンを抱擁した。顔を強張らせて固まったテンに同情を寄せつつ、ティーアが艶然と微笑んだ。
「後はアシュトンとガリに任せて貴方たちは服を替えたら? 泥だらけの『王狩り』じゃ格好がつかないわ」
―― ◇ ――
「シム!」
転がるようにミアイが駆け寄り、シャウナとナナイも膝をついてシムを覗き込む。
「顔が赤いし身体が熱いね。人いきれで逆上せたのかい?」
「恵みの祝福が暴走したみたいなの。でも、湖で身体を冷やしたらちゃんと平熱に戻ったわ」
首筋で脈を計っていたシャウナが目を瞠る。
「ちょっと冷やしたぐらいで力の暴走が治る訳無いだろ! 何ですぐ言わなかったんだい!」
「何度も言おうとしたわよ! だけど周りがうるさくて――――」
ナナイが二人の袖を引いた。
「患者の処置が先!」
頭を切り替えたシャウナはてきぱきと指示を出した。ナナイに薬を取りに行かせ、近くにいた男たちにシムを井戸へ運ぶよう言い付ける。男たちを急かして、汲み上げた井戸水をシムに浴びせた。ナナイは気を利かせて洗濯用の大きなたらいも持参した。そこにシムを座らせて水を掛ける。シャウナがミアイの報告を聞いてシムを『診察』した。
「少し体温は高いけど、祝福の暴走とは違うよ。どっちかと言うと知恵熱に近いね」
「でも、知恵熱では呼吸が止まったりしないでしょ」
ミアイの反論を聞きつつ、シャウナは慎重に一匙分の水薬を計った。それを飲んだシムが顔を歪め、差し出された柄杓の水に飛び付く。喉を鳴らして飲み干すと、背中のベンチに腕を掛けてぐったりと身体を預けた。
「そうなんだけど、この状態は暴走とは違うんだよ……」
「ラウールの代わりに〈月〉の力を使ったから、今度は知恵熱が出たって事?」
美しい顔を曇らせたシャウナが立ち上がる。
「あたしにはよく判らないねえ。…………ちょっと待っておいで」
シャウナが連れて来たのは、ボブを伴ったティーアだった。巫女の資質の一つとして〈癒しの力〉を持っていて薬学への造詣も深いが、通常の傷病者を診る事はない。彼女が処置するのは〈恵みの祝福〉が深く関わる患者だけだ。
強い祝福の副作用である〈知恵熱〉への対処も本来は巫女の役目である。しかし、東ガラットには治療師で〈癒し手〉でもあるシャウナが居る。シャウナが手に追えないと判断した時のみ、こうして巫女が呼ばれた。
一通りの診察を終えたティーアは、改めてミアイにその時の状況と対処を尋ねた。そして、月の力で導いた下りを聞いてミアイにも質問をする。具合が悪いのはシムなのに、自分まで色々と尋ねられる理由がミアイには分からなかった。
「少し力を使うわ。抵抗しないで、楽にしていて」
じっと考え込んでいたティーアがシムに手をかざした。額から喉を通り過ぎ、胸で止まった手に呼応してシムの〈月〉が仄かに光を放つ。
「……年は十六歳だったかしら? まだ背は伸びていて?」
「秋に十七だよ。まだ背は伸びてるかも。去年よりミアイの鼻が下に見える」
他の質問も関節痛や食事量に嗜好の変化など、どれも今の状態とは関係が無さそうなものばかりだ。
「シャウナの言う通り貴方の祝福は狂っていないわ。少し落ち着いたら治療所で横になってちょうだい。薬を飲んだのなら、大人しくしていれば明日までに熱は下がると思うわ」
ティーアはシムの腕を軽く叩いて元気付けた。
しかし、静かに振り返った巫女の笑みは、何故かミアイの背筋に寒気を呼んだ。
「貴女も調べさせてもらってもいいかしら?」
「やっぱり貴女からもシムと似た力を感じるわ。だけど悪さはしていないの。たぶん貴女が女性だからよ」
「あの、それってどういう事?」
ナナイにシムを任せた巫女は、治療所の一室で問診と診察の後にミアイにそう告げた。
「女性としての能力が強まっているの。……平たく言っちゃうと、今、男性と契れば確実に身籠るって事」
ミアイの思考が停止した。愛想良く笑うティーアにシャウナも唖然としている。一呼吸置いてやっと意味するところを正確に理解したシャウナが、ミアイの腹に触れて体内を『調べ』た。
「まだそんな時期じゃないのに……」
ミアイは月の障りが重いので定期的に婦人病の薬を服用している。体調に合わせて煎じ薬を調合するのに不便は無いが、シャウナの意見を求めるのが習慣になっていた。そのためシャウナもミアイの月経周期を把握しているのだ。
「シシ王の力をぶつけられても貴女が無事なのは女だから。そう思った理由はまだあるわ。獣化を助けるなんて普通は出来ないけど、二人に残ったシシ王の力が共鳴して仲立ちをしたのなら、そういう事も有るかも知れないわ」
ミアイには心話の能力もシムと血の繋がりも無い。はっとしたシャウナがもう一度ミアイに触れた。黒曜石の瞳が驚きに見開かれる。
「ああ……、まさか……?」
「えっ!? あの……、わたし……」
我が身の事なのに何も分からない不安に顔が歪む。そんな彼女を真っ直ぐに見詰めたティーアがミアイの手を取った。
「大丈夫、どこもおかしくないから心配しないで。シシ王が貴女の〈恵み〉を目覚めさせただけ」
暖かい巫女の手からは慰撫の意識が感じられた。




