王狩り(二)*動物解体描写有り
シムとミアイ、ジゼルは各々が細身のナイフを手にしていた。臓物を包む網目状の脂肪は、街の美食家や食通を自負する者たちがこぞって高値を付ける部位だ。腹膜を慎重に剥がしてから腑分けした。
誤って内臓を傷付けると体液や内容物が漏れ出し、それが食する部分に付着すると味が落ちるのだ。特にイノシシの尿は匂いが強く、ほんの少量を零しただけでごっそりと処分するはめになる。そんな悲劇が起きないよう、切り離した膀胱に詰まった液体はジゼルが早々に深場で捨てた。
量が多いうえに最も手間の掛かる腸はシムが、ミアイが胃と腸の一部を、ジゼルは他を一手に引き受けた。それを見ていたシムは不満げだったが、ミアイが食餌を調べると言うと渋々引き下がった。どうやら、皆の嫌がる仕事を全てやるつもりだったようだ。
腰まで水に浸かったミアイは胃の内容物を確かめた。縁が鋸のようにギザギザしたドミネラと、水滴型の葉を持つムルシェリを難なく見付けた。株ごと、蔓ごと様々な植物がたっぷり詰まっている。木の根や枝に付いたままの漿果や、沢ガニらしいハサミさえあった。ほんの数日でどれだけの物を食べたのだろうか。
シシ王が掘り返した場所は耕されたも同然なので、きっとそこからまた新しい芽が出る。今秋の実りが目減りしても、縄張りの生命自体が失われた訳ではないから大丈夫だと自分に言い聞かせた。
暗い気分を振り払い、中をきれいにしてから注意して裏返した。小腸は詰め物にするためにそのままの長さを保つ。比較的細いとは言え棍棒のような極太の腸詰めが出来るだろう。消化液や粘膜の滑りを湖底の石に擦り付け、根気良く丁寧に落とした。
山の中腹にあるムトリニ湖の水温は低めだが、照り付ける太陽はまだ暑い。吹き出る汗を拭っていると、袋を幾つも手にしたジゼルがやって来た。
「これも使って。網のもまだあるわよ」
礼を言って受け取る。ジゼルは離れた場所で独り黙々と作業するシムにも袋を渡しに行き、ミアイのところに戻って来た。
「シムに断られちゃったからこっちを手伝うね。でもほんと、信じられないくらい大きいわねぇ。狩るのも大変だったんだろうけど、その後も桁外れに大変」
わざと目を剥いておどけて見せる。ジゼルは二人が休んでいる間に伝令として村まで往復していた。換金所へ人手を頼みに行ったのに、十人も居るならそれ以上は必要ないと断られ、麻袋や背負子を渡されただけだったとぼやく。
「アシュトンはテンに口止めしてたの。早めに周りと話をつけて手伝いを頼むか、でなければ終わるまで黙っていろって。そうじゃないと横取りされるかもしれないからって……」
「縄張りを無視して? そんな……」
「まさかと思うような事は昔からあったみたいよ。獣王が境界を跨いで行動していたから自分たちも狩りに参加できたはずだって、後から権利を主張してみたり……とかね」
換金所の責任者は、王狩りについてテンに忠告していた。ふと魔が差して過ちを犯してしまう事はままある、と。ミアイもアシュトンの意見に賛成だった。かつての自分も掟を破って縄張りを侵した経験があるとは、口が裂けてもジゼルには言えなかったが。
今まで挨拶程度の付き合いしかなかったジゼルは話しやすかった。二人だと作業も捗ったのでシムの手伝いに回る。しかし、シムは頑として一人でやると言い張った。シムの必死さに意地以上のものを感じたのか、ジゼルは口を噤んでいた。
「一人より三人の方が早いでしょ。あっちも手こずってるみたいだし、もし先に終わったら向こうを手伝えるわ」
「…………うん」
ミアイが示す先には言わずもがな、大きすぎる獲物に苦労する仲間の姿がある。いつもは滑りの良いシムの舌も今日に限っては重いようだった。
―― ◇ ――
イノシシはシカと違って筋肉と皮膚の間に脂肪層がある。そこにナイフを入れて皮を剥ぐのだが、いざ作業を始めると幾らも経たずに刃が鈍る。三、四人で同時に進め、ナイフも人も頻繁に替えた。四肢の先端から始めて胴体を終えると、首周りの肉を断ち切って頭部を外す。人間のうなじに当たる部分に埋まっていた大振りの短刀は、切っ先から三分の一のところで折れていた。
「道理で途中から刺さり難くなったと……」
得心して思わず呟くテンをヤスがじろりと睨む。しかし短刀の持ち主は、研ぐより直すより、以後は思い出の品として物入れに保管する品を感慨深く眺めた。
「手に馴染んでて気に入ってたんだがなぁ……。まあ、踏み折った奴に新しいのを買ってもらうがな。あぁ、ついでに柄と鞘も作ってもらおうか」
凹凸のある頭部の皮剥ぎは非常に面倒である。頭部は目立つ部分でもあるので、全員一致でカクに押し付けた。彼の解体技術は換金所の責任者の折り紙付きだ。当然ながらギゼたちもそれを知っていた。
始めこそ不満顔だったが、己の生皮を外套のようにぶら下げた獣王の頭を前にしたカクは真剣そのものだった。愛用のナイフで皮を剥ぎ終え、下顎から舌を抉って厚みのある頬肉を削いだ。
「これ全部を解体して骨を外すのは……、無理……だよな」
「ああ……、無理だな」
首から下を見たギゼが決定権のあるテンに確かめた。この後の苦労を慮った組頭二人が揃って溜め息をついた。
先細のナイフで背骨から切り離したあばらの部分は、骨に沿って鉈でぶつ切りにする。人の腕とさほど変わらぬ豪快な骨付き肉が山になった。背骨を取って四肢を外し、関節の繋ぎ目に小刀を当てて柄頭を叩く。刃先がめり込んだらしっかりと柄を握って抉る。背肉と腰肉を取り分け、脚部は発達した一部を切り取るに留めた。
その頃には臓腑を洗い終えた三人がかいがいしく皆の間を動き回っていた。大まかに分けられた肉の塊をロープで括り袋に詰め、冷やすために水に沈める。鍋に浮いた脂を何度も掬って捨て、足りなくなった薪を補充した。
―― ◇ ――
テンが肉を詰めた最後の麻袋を湖水に沈めた。大岩から伸びる数本の細縄には沢山の袋が括り付けられて鈴生りだ。
「緊張したせいで頭が痛え」
「ああん? お前でも緊張するのかよ」
首や肩を回していたカクは、ヤスの軽口を聞き流して手を濯ぐ。
「……長く歩かせちゃだめよ」
ミアイが物問いたげに彼女を見ていたテンに答えた。何を気にしているのかくらいは言われなくても分かる。人の輪から独り離れて座るシムは、誰に言われるでもなく水に浸かっていた。
「途中で動けなくなったのを随分気にしてるみたいなの」
「もしシムが ああならなかったら、注意を怠った全員が沼田場でやられていたかも知れない。あの時無事だったのも、シムを蘇生出来たのも運が良かったんだ。俺たちが被るはずだった悪いモノを、いつも幸運なシムが一人で引き受けてくれたんだと思っている」
悔しそうに眉根を寄せるテンの肩先をヤスが軽く叩いた。未知の存在に立ち向かい、皆が生き残ったのは幸運だったのだ。〈自然〉の気まぐれ――――狩りの女神の微笑みと、組衆の力があったればこその現状。
獲物を解体しながら、狩りの仔細を聞いていたギゼたちも神妙な面持ちだ。彼らの知るシムはいつも陽気で人当たりの好い若者である。あんなにしょげたシムを見るのは初めてだった。
「シムは背負子に乗せて連れ帰る。嫌がったら縛り付けてでも従わせる」
テンの意見は尤もである。しかし、シムの心情を考えると自らの足で凱旋させてやりたいとも思った。
水から上がったテンは岸に放り出してあった自身のシャツを手に取る。担ぎ棒の当て布にしていたせいで数ヶ所穴が空いているが仕方ない。乾いた泥がこびり付いたそれを被りながらだったので声がくぐもった。
「……村の手前で降ろして、辛そうなら肩を貸してやれば良いな」
続く言葉にミアイの顔が綻んだ。
―― ◇ ――
「来た! テンたちだ。戻って来たぞ!」
ドルディア自治領で獣王狩りが成功たのは実に一五年ぶりだった。六年前ゼノン=テス領内に巨大なヒグマが現れた際は集落が襲われて犠牲者が出たため、狩り人を総動員して大規模な山狩りを行なった。それ故『王狩り』の称号を得た者は居ない。
ジゼルがもたらした報せは瞬く間に広がり、広場には真偽を確かめようとする者たちが続々と集まった。遠巻きにする村人たちの眼差しは期待と懐疑に満ちていた。注目を浴びながらテンを先頭に狩り人たちが歩む。
換金所の前でアシュトンとガリ=テスが出迎えた。二人は、いや、周囲の視線もテンが下ろした背負子に釘付けだった。覆っていた麻布を取ると、巨大な牙を生やしたイノシシの頭骨が現れた。
「獲物だ」
人々が一斉に若き狩り人たちを取り囲んだ。沸き上がる歓声の中、握った拳を突き上げてガリが叫んだ。
「テン組が四本牙のイノシシを狩った! 彼らを讃えよ! 王狩りを讃えよ!!」
「王狩りを讃えよ! 王狩りを讃えよ!」
頭のテンを始め、ヤスとカク、タカ、後列のミアイとシムへ皆が異口同音に賛辞を贈る。獣王を目の当たりにしたギゼたちへも羨望の眼差しが注がれた。感涙に咽ぶガリがテンを力強く抱擁した。筋肉質の逞しい背中を幾度も叩く。
「お前が……、俺の弟が『王狩り』になるなんて……。夢みたいだ」
痛みに眉根を寄せていたテンは戸惑い、そして、はにかんだように笑った。
「王狩りなんて凄いわミアイ!」
「何も言ってくれないなんて水臭いじゃないか! 後でゆっくり話を聞かせておくれね。おや? 肩の傷はどうしたんだい。他の男衆は無事なのかい?」
シャウナとエプロン姿のナナイが両側から抱き付いた。
「シャウナ聞いて! 実はシムが……」
矢継ぎ早に投げ掛けられる称賛の中で、ミアイは付き添っていたシムと引き離されていた。揉みくちゃにされたシムが人波に消えた。彼女がどんなに声を張り上げても、興奮した人々の歓声に掻き消されてしまう。
シムがへなへなと座り込むと、遅まきながら周囲の者が彼の異状に気付いた。
「……うん、どうした、顔が赤いぞ。……シム!?」
「通して! お願い、通して!」
右にナナイ、左はシャウナとがっちり腕を組んだミアイがシムのそばに行こうと踠いた。『王狩り』の六人を中心に数十人がひしめいているのだ。切迫したミアイの叫びが組衆にも届くが、彼らも取り囲む村人に阻まれて身動きが取れなかった。
その時、混乱する広場に凛とした声が響いた。天の助けは、正に頭上から聞こえた。
「みんな、落ち着いて! そこにシャウナがいるわ! 彼女を通してあげて!」
人々は道を譲ろうと努力した。かろうじて出来た隙間にミアイが身体を捻じ込み、シャウナとナナイも後に続く。
あれほど熱狂していた村人が水を打ったように静まり返った。人々の後ろに、革製の胸鎧と同じ素材の手甲を着けた偉丈夫が立っており、肩には美しい娘が腰掛けている。その姿は、まるで小鳥が枝で羽を休めているように落ち着いていた。偉丈夫の為に人垣が割れ、長とテンまでの道が出来た。
青玉の瞳のその娘は、見事な蜂蜜色の髪を片方の肩から垂らしていた。髪に野草の花を飾り、質素な生成りの貫頭衣と白い小さな布靴を履いている。年の頃は二十歳前後だろうか。滑らかな白い肌と紅くふっくらした唇。しかし、その面に化粧気は無い。
周囲に感謝の笑みを振り撒く娘を乗せた偉丈夫は、領主の前で歩みを止めた。娘の細い腰を支えて下ろす。三つ編みにした髪と服の裾が風を孕んでふわりと揺れた。髪に差していた花の一つが宙に忘れられ、自らの足で立つ彼女の後を追って花も地上に舞い下りた。
あらぬ方を不安げに見ていたテンも、ガリと並んで居住まいを正した。右手を胸に当てたガリが恭しく左手を差し出す。優雅に重ねて応えた指先の爪は形良く整えられていた。
「よくぞ参られた。巫女ティーア」
「知らせてくれてありがとう。ガリ=テス」
彼女は礼を尽くすテンにもたおやかな右手を乗せて応えた。
「確か貴方の組のミアイも治療師の修練をしていたわよね。シムの事はミアイとシャウナに任せましょう」
ティーアが励ますように微笑むと、黙して敬意を払っていた村人の緊張も解けた。
「もうすぐ日が沈むのにまだ暑いわね。中に行ってもいいかしら」




