王狩り(一)*動物解体描写有り
ガラテアの森に遠吠えが響く。それは助けを求める声だった。
湖岸から独り離れたテンは縄張りの境界に立っていた。同じ合図を二度繰り返して暫し待つ。奥まったこの場所に水気を含んだ風は届かない。しかしその分樹影が濃く、微風が汗を乾かして行く。四半刻(十五分)も経たずに待ち人は現れた。
「テンか? どうしたんだ」
隣の縄張りを狩り場にしている組頭のギゼだった。樹上から軽やかに降りたギゼがテンと対峙する。
「わざわざ呼び出してすまない。大物を仕留めたので手を借りたい。頼まれてくれるか」
「ああ、それは構わないが……。そんなに大きいのか」
自分たちの縄張り内へギゼを招き入れたテンは先に立って歩き始めた。背中に視線を感じつつテンは速度を上げる。
「言葉で説明するより見てもらう方が早い。湖岸まで一緒に来てくれ」
縄張り内の出来事は自分たちで対応するのが常である。他の組の手を借りる事自体は決して恥では無いが、狩り場の内情を組衆以外の者に知られたくないのが本音だ。地形や植生は稼ぎに関わるのだから用心して当然である。要らぬ疑いを避けるため、呼ばれた側のギゼも一人で現れた。そして頭同士は境界上で話を決める。
沼田場での勝ち鬨に答えたのはギゼ組だけだった。テンは皆と相談し、通例に倣って勝ち鬨へ賞賛を返してくれた彼らに助けを求めた。
北のエレラ組は昨日から非番で不在だし、南東のイアン組は風向きと沼田場の位置からして声は届いていないようだ。尤も、聞こえていたとしても答えないとは思っていた。二年前にミアイの件で揉めて以来、お互いに距離を置いて積極的に関わらないようにしていた。
後ろから付いて行くギゼは、流して走るテンの姿をしげしげと眺めた。今は一番暑い時間帯なので、男衆が狩り場で胴衣を脱いでしまうのはよくある事だ。しかし道具類を一切帯びず、剥き出しの両肩に何かが擦れたような傷がある。肩に掛かる長めの髪も自然に垂らし、髪もズボンも湿っていて所々泥らしき物が付いていた。
正直なところ狩りの勝ち鬨は滅多にするものでは無い。若衆を出たばかりの新人ならともかく、テンのように狩りに慣れた者がしたのなら、何があったと聞きたくなると言うものだ。
「六人組でも手が足りないほどの大物だとしたらよっぽどだよな。……もしかして誰かが怪我でも?」
「ああ、実はシムがな。まあ、もしシムが無事だったとしても、手が足りないのは変わらないが。…………もっと早く手伝ってもらえば良かったと後悔しているが、あの時はそこまで頭が回らなかった」
好奇心を抑えきれずに尋ねるギゼに、テンは淡々と答た。どこかいつもと違う、悟りを得たかの如き静かな態度にギゼの身体が震えた。
「テン、お前…………。一体何を狩った…………?」
「見れば分かる」
テンに伴われたギゼにヤスとタカが手を上げて挨拶する。二人もその向こうに居るカクも、テンと同じく半裸で水に浸かって涼んでいる。テンはカクに近付いた。大岩のそばに座していたカクの愛想の良さは、嫌味かと勘繰りたくなるほどだ。
「手間取らせて悪いな。……でも、手を貸しても損は無いと思うぜ?」
テンは躊躇う素振りも無く水の中へ歩を進める。ギゼはその時になって、やっと大岩から伸びているロープに目を留めた。テンはそれに沿って動いていたのだ。ぴんと張ったロープは『何か』を繋ぎ止めていた。水中には巨大な黒い影が沈められ、それに手を置いたテンが不敵に笑った。
「これが獲物だ。解体とその肉を村まで運ぶのを手伝って欲しい」
巨大な黒い影の正体が分かったギゼには、自信に満ちたテンが別の者に見えた。狩りの女神の弟で、力強い〈祝福〉をその身に纏うという『夏の青年』の姿に重なったのだ。
電光石火、ギゼは組衆を連れて来た。境から頭の遠吠えで呼ばれ、湖中で冷やされるシシ王を見た三人は目と口を大きく開けたまま一言も無い。王の首を上向かせたカクが立派な牙を見せてやると、ギゼ組唯一の女衆ジゼルがようよう言った。
「…………ほんとに獣王なんだ。兄さんのほら話じゃなかったのね」
「ほら話とは何だ!」
ジゼルはギゼの妹なので物言いに遠慮が無かった。「いつも変な冗談ばかり言ってるから」と、さりげなくきつい言葉を投げ掛けている。
残りの二人は目と口を閉じるのを思い出すとシムの具合を聞いてきた。ギゼ組の男衆はシムと同じ西寮住まいだ。
「シシ王のせいで祝福が暴走したので月の力で回復させた。一刻以上獣化していたので今は休ませている。もう大丈夫だとは思うが、後はミアイの判断に任せるつもりだ」
テンが要点だけを掻い摘んで説明すると、「祝福の暴走」に反応した男たちの目と口がまた開いたが、治療師のミアイがついているならと今度はすぐに閉じた。
当初の衝撃が過ぎると、ギゼたちはどうやって獣王を仕留めたのかとテンとカクを質問責めにした。一つ一つ答えを聞く度に大仰に驚く。テンがシシ王を引き倒した件になると四人が一斉に声を上げた。千切れた耳を見せられたギゼたちは、肉厚で長い飾り毛の生えた獣王の一部に群がった。子供のように目を輝かせ先を争って触ろうとする。
獣王は〈自然の恵み〉の結晶である。その身に触れるのは〈自然〉の幸運を得るのと同じだと言われていた。
「耳なんぞに夢中にならなくてもこの後嫌ってほど触るだろうに」
カクの皮肉にもめげずジゼルが言い返す。
「こういうのは縁起物じゃないの! 解体作業とは別よ!」
そうだそうだとギゼたちも頷く。テンとカクは顔を見合わせて笑った。
── ◇ ──
ミアイは畳んでおいた衣服をのろのろと身に着けた。下着とズボン、胸当てでかろうじて体裁を保つ格好になったところで力尽きた。もう指一本持ち上げる力さえ残っていない。
〈月〉の力を解いた直後はひどい喪失感と倦怠感に襲われるのが常である。獣化中は自身の月を通じて祝福の力が身体中に満たされる。しかし人の姿に戻ると〈自然〉との密な接触を断たれ、力を使った反動として極度の疲労が圧し掛かるのだ。
彼女自身もシシ王との対決や暑さで体力を消耗していたのだから、動けなくなるのも当然である。見計らったように木の影から、「そのまま暫く休んでいろ」と聞こえた時はほっとして気が遠くなった。
一眠りしてから目を覚ましたミアイは汗まみれだった。涼しい地面を探して寝返りを打つ。どこも温まっていて寝心地の良い場所は無く、仕方なく身体を起こして手近な木に寄り掛かった。木陰を渡る水辺の微風に素肌を晒す。
顔に掛かる影に上を見れば、何かがぶら下がっていた。細く潰れた水袋が張り出した枝に括り付けられ、そこからロープが垂れている。水を用意してくれたヤスの気遣いに感謝した。意識が途切れる直前に聞いたのは彼の声だったのだ。目の前にはムトリニ湖が広がっているが、そこまで行くのさえ億劫だった。
ロープを引くと結び目が解けて革袋が下に滑り落ちた。森や岸辺を抜ける風に熱を奪われ、水は意外にひいやりしていた。中の水を一息に飲み干す。
うだるような暑さと太陽の位置からして、もう午後の三刻(午後三時)はとっくに過ぎている。木立に垣間見える岸辺から一筋の煙が上がっていた。大岩の周りで数人が慌しく動いている。黒髪のテンとヤス、柔らかい髪色はカク、強い陽射しに照らされた金髪の一際大きなタカの背中。
仲間の姿に混じって見慣れない人影も見える。助っ人を頼んだのだとミアイにもぼんやりと分かった。その中で一番小さな人影に目をやるが、身体付きからして女だった。
獣化中のシムは激しく身体を動かしていた。休んでも自分より早く起き出す事はあるまい。自分がいつも午睡をする木陰で着替えたように、シムにも気に入りの休息場所がある。ミアイはそこに居るだろう仲間の様子を確かめに行った。
―― ◇ ――
水の中から獲物を上げると、ギゼたちがその巨体に改めて驚いた。砕かれた下顎や後ろ脚の傷。上向きに張り出した四本の犬歯は特に目を引く。二本は外側へ、鼻の皮膚を突き破った二本は顔面を守るように内側へ湾曲していた。
テンたちはいつもの場所で火を熾した。石を円形に置いた炉に乗せた鍋が微かに湯気を漂わせている。鍋の縁からはナイフの柄が幾つも突き出ていた。ギゼたちのナイフも利用して獲物を捌くのだ。一つでも多くの刃物が欲しいこの状況で、誰の持ち物だなどと瑣末な事柄に拘ってはいられない。
小山のような塊は腹を上向かせるのが難しく、仕方なく横向きで固定した。テンが苦労して開いた胸の一部からタカが腹を切り広げる。一方テンは胸から喉に取り掛かった。ギゼたちは手伝いに徹して脚を押さえ、脂で鈍った刃を湯に浸けて次のナイフを渡す。テンが終えてもタカの作業は続いた。
大きさ故に時間は掛かったものの、順調に腹を開き終えて内臓を取り出した。露出させた気管と食道を顎に近い部分で断ち切る。それをしっかり掴み数人掛かりで呼吸器、消化器官と順繰りに引き出す。最後に出口付近を紐で縛っておいた腸を肛門の皮ごと切り取った。
臓物の収まっていた腹腔は、人間一人が余裕で入れる空間だった。ぽっかりと空いたその場所の存在は、『それ』の認識が畏敬の対象から食料に変わった事を如実に物語っていた。
作業を分担する相談をしていると、ミアイとシムがしっかりした足取りで森から現れた。元気そうな二人の姿に皆が安堵した。
「身体は大丈夫か?」
「もう平気だよ。ねえ、オレにも何か手伝わせてよ」
ミアイよりも早くシムが答える。テンはミアイを意味ありげに見た。ナイフの脂気を落としている鍋、胴着を脱いで汗まみれの男たち。無言で問い掛けられたミアイは、あちこちに視線を彷徨わせた。
「精肉は体力を使うし、火のそばは熱いから無理ね。そうすると内臓の洗いになるけど……」
内臓の下処理とて楽ではないが、ずっと水に浸かっていられる仕事はそれくらいだった。
「それでいいよ! オレがやる!」
テンが目を瞠った。好きな者は皆無と言っていい作業だが、シムは解体や内臓の処理を特に嫌っていた。食事と引き換えに、懐具合の危ういタカに当番を押し付けてしまう事も多い。率先してその作業をやりたがる理由は一つしか思い当たらなかった。
「……そうね。じゃあ、わたしも一緒にやるわ。どうせ一人で出来る量じゃないもの」
「あ、あたしもそっちを手伝う。走ったり火の番したりで熱いったらないわ」
鍋の近くにいたジゼルが好機とばかりに話に乗る。身体が動くうちは、何を言ってもシムは引き下がらないだろう。そばで様子を見ながら無理をさせない程度に好きにさせるしかない。肩を竦めたミアイは苦笑した。




