月光(四)
服を脱いで木立の陰で借り物のシャツを被る。タカのシャツは大き過ぎて襟元から肩が抜けそうだった。それでも尻が出てしまう自身の胴着よりも随分ましである。髪を解いて襟元や膝上の裾を押さえて裸足で岸へ急いだ。
既に服を脱がされたシムは浅場に座らされ、両側からテンとヤスが支えている。シムの背後にはタカとカクがおり、皆神妙な面持ちだ。男たちは早足に近付くミアイへは一瞥をくれるのみで、長く視線を留める無作法はしなかった。ミアイはシムの真後ろに膝を突いた。仲間にシムの〈月〉の位置を尋ねるが、知る者はいなかった。
「そう、じゃあ聞いてから試してみるわ。……それじゃあ、脱ぐわね」
あまり似ていない兄弟二人がミアイに背を向け、シムの肩に手を置いた。テンとヤスもシムと並んでしゃがみミアイに背を向けている。ミアイは男臭いシャツをするりと脱いだ。
普段は服に隠されている素肌が強い陽射しを弾く。まろやかで真白い胸や尻、なだらかな腹とその下の翳りも余す所なく晒された。日焼けした腕や首との違いが肌の白さを際立たる。脱いだシャツを持ち主の肩に掛けると、ミアイはシムを背中から抱き締めた。
肩越しに呼び掛け、指先で肩を叩いて擦る。挟まれた乳房が潰れて身体が密着する。あれほど熱かった身体はひんやりしていた。シシ王がシムの生命を打ち消そうとしている。そう思うと、微かに残っていたミアイの羞恥心がより強い別の想いに取って代わった。
「…………死なないで」
掟を破った自分を許してくれた仲間。組を移って不安だった自分を笑わせてくれた友だち。大人びているかと思えば幼い振る舞いをする、まるで弟のように大切な大切な────。
ミアイの目から溢れた雫がシムの胸へと滴り落ちた。力無く垂れていた頭を擡げてシムが苦笑する。
「やっぱり泣いてる…………」
「あなたがいなくなったら悲しいもの」
「ミアイは優しいね」
シムはとても満足そうだ。頬を伝う涙をそのままに、ミアイが月の位置を問うと、シムは「胸の中央」とだけ答える。二言三言話すだけでも辛いのだろう。苦しげな息使いが更に乱れる。ミアイがシムの胸に両手を当てた。
「今からわたしが導くから、もう少しだけ意識をはっきりさせておいて」
「…………やってみる」
ミアイは目を閉じて背中にある自身の月に集中した。肩甲骨の下端の中間、シムの月の真裏に当たる場所だ。気配で察した男たちも各々の月へ集中した。皆がミアイの力を感じ、シムの月を呼び起こす手助けとなるべく位置だけを示す。
祈るように意識を自然の中に広げるとミアイの月が仄かに光り始め、そこから光の粒子がふわふわと浮き出る。自身の体内から手の平を通してシムへと力を注ぎ込む。
力が最も強まるのは発露の瞬間だが、衰弱したシムの祝福が反応するかどうか分からない。様子を見ながら少しずつ高めて刺激したかった。そういう力の使い方を訓練していないミアイにとって、正に手探りの導きだった。
内部の〈月〉と、周囲に満ちる〈自然の恵み〉。
二つが彼女の中で混じり合って大きな奔流となった。長く留めようと手の平へ集中させたがすぐに抑えられなくなる。内包した力が行き場を求めミアイの月を輝かせた。彼女の月に目を射る鋭さは無かった。それは暖かく優しい力強い生命の光だった。
「わたしを感じて…………」
囁きは意識の爆発に呑み込まれた。背の一点から湧き出た光がミアイの身体を浸食し、瞬く間に全身へと広がった。己自身が自然そのものだと錯覚しそうな、えもいわれぬ解放感に精神が蕩ける。力ある光に翻弄され、揺らぐ心身を支えるため両手をついた。頭部が、肩が、腰が、光の中で形を変えていく。彼女の〈月〉が満ちた時、光の膜が音も無く砕け散った。
ミアイの居たその場所に、舞い踊る光の粒子を従えた銀狼が顕現した。混じりけの無い銀糸の毛皮を纏った雌狼。狩り人ミアイのもう一つの姿だった。
―― ◇ ――
そもそも〈月〉とは何か。自然や恵み、祝福と呼ぶ超自然的なモノが集中している箇所である。心臓が体内に血液を巡らせるように、全身或いは一部へ〈祝福〉を送る基点である。それは額や喉、胸など身体の中心部に多く見られた。
昼は太陽、夜は月が空に在るように、月を宿す者は人と獣、二つの姿を持つ。
そして〈月〉にはもう一つ特徴があった。強い祝福の証である月は、肉体の強化能力と密接に結び付いていた。
月を示せない程度の能力では筋力や感覚器の一部のみを増強させるに留まる。祝福が『歪んで』いても、部分的強化能力だけでも、或いは異能力が皆無であっても領民としての地位は変わらない。
しかし、為政者一族と自由民の間に存在する戦士階級の〈狩り人〉と成るには、五体五感が揃って健やかな事。そして、常人を遥かに超える身体能力の証である〈月〉を持つ事――――獣化――――が絶対条件だった。
無自覚で未熟な者が月を制御するのは困難である。領内で生まれた子供に素養があれば巫女の導きで〈月〉を覚醒させる。月の儀式は成人前の十二歳までに行われた。それには近親者も同席するが、実母や血を分けた姉妹――――血縁女性の存在が重要だった。
介添えの血族を媒介にした巫女が精神感応力で干渉し、女性体に強く出る癒しの力を使って対象者を正しく導くのだ。だが、時折巫女の導き無しで獣化してしまう者も居た。
生まれたばかりの赤子は生命力に満ち溢れ、産みの母との親密な繋がりも持っている。母子共に強い〈祝福〉を備えていると、稀に母親の呼び掛けだけで獣化する。巫女が行う月の儀式は、嬰児と母親の絆を模したものだと伝えられていた。
―― ◇ ――
湖面の照り返しが纏わり付き、〈月〉の力の余韻と相俟って、銀色の毛一筋一筋が光を放っているようだった。しかし硬い表情の男たちは、誰も幻想的で美しい銀狼の姿を見ようとしない。
獣化したのはミアイのみ。シムの月は輝かず呼吸も止まっていた。ある者は打ちのめされ、ある者は唇を噛んで目を伏せる。
銀狼=ミアイは頻りにシムの匂いを嗅いでいたが、つと前脚を上げて背後からシムの肩を掻いた。項垂れた男たちが無反応なのを見て取ると、正面に回り込んでシムの胸を押した。やっと気付いたヤスがミアイを見詰める。獣化すると声帯も変化するので人語を話せなくなる。しかし理解は出来るので意思の疎通は可能だった。
「寝かせろってぇのか……?」
鼻面でシムの肩を小突くのにヤスが問う。銀狼は人の姿の時と同じ肯定の仕草で頷いた。仰向けに寝かされたシムの髪を打ち寄せる湖水が遊ばせる。銀狼は友の匂いを再び嗅ぐと、頭を胸に擦り付けた。まるで頬擦りのような動作をしてから再びシムの胸の匂いを嗅いだ。
男たちはシムから離れたミアイに縋るような視線を向けた。ミアイはそれに答えずじっとしている。言葉で問う前に答えは出た。いや、正確には皆が感じたのだった。ミアイが視線を注ぐ先でシムの月が仄かに光っていた。固唾を呑んで見守るうちに強さを増し、光の粒子が一つ二つと浮き上がる。
夏空を仰いだミアイの喉から高らかな吠え声が紡がれる。声に導かれるように弾けたシムの月が辺りを白く染めた。皆が眩しさに目を細める。顔前にかざしたテンの右手が、ヤスの喉が、カクの左肩が、タカの額が呼応して光を放つ。
輝く己の〈月〉を背負い、銀狼が誇らしげに響かせたのはまごうかたなき鬨の声。瞬く間に全身を包んだ光の中でシムの身体が変化して行く。遠吠えが終わると光の幕が砕け散った。テンは徐々に光が弱まる自身の月────中指の爪から目を移した。
煌く光の欠片の中に横たわっていた雄狼が、周囲に首を巡らせてのそりと立ち上がる。膝をついた男たちが歓喜の思いで仲間を見上げた。
もう一つのシムの姿は組衆の中で最も大きい体躯をしていた。ミアイと並ぶと違いが際立つ。二回り大きい身体を包むのは緑がかった漆黒の毛皮だった。
獣化した際の体格は祝福の強さによる処が大きいと言われている。それが正しければシムの〈恵み〉の力は非常に強いと言えるだろう。毛色は個体差だが、身体付きは性差が出る。
人から獣に変わってもミアイが女性体なのは同じである。雌の銀狼は全体的にほっそりとしていて面立ちも優しい。対して男性体のシムは何もかもが太く力強かった。
シムは頭を一振りしてふらつく四肢を踏ん張った。貯めた力を解放して跳躍する。軽々とミアイを飛び越え浅瀬に着地し、浮かれて辺りを跳ね回った。そのはしゃぎようは今までの不調も一緒に跳ね飛ばしているようだった。
くるくるとよく動く黒狼の眼差しは、遊び好きで好奇心旺盛なシムのもの。蘇生した友へ皆が暖かい視線を送っていた。
「おいおい、あんまり調子に乗ってるとまた熱が出るぞ」
諌めるヤスも笑み崩れている。
仔犬のように水と戯れていた黒狼が勢い余って銀狼に突っ込んだ。ごつい体格の雄狼に体当たりされて甲高い悲鳴を上げる。刹那の出来事で誰も止める暇が無かった。
そろそろと後じさったシムは動揺していた。その場で足踏みをし、太い尾を所在無げに振った。テンとタカが「大丈夫か」とミアイに声を掛ける。幸い突き飛ばされて倒れただけで済んだ。……が。
起き上がったミアイの毛は首から背中へと逆立ち、全身から発する怒気がシムへ向けられる。歯を剥き出して低く唸り、威嚇するミアイに対してシムは即座に平伏した。
耳を伏せ太い尾を後ろ脚の間に隠して腹這いになる。本来なら喉も地に付けるのだが、ここでは水に鼻が沈んでしまう。灰褐色の毛が混じる前脚に顎を乗せてミアイに服従の姿勢を見せた。
上目遣いに己を見やる黒狼に顔を寄せた銀狼は耳の先を噛んだ。黙して苦痛に耐える漆黒の毛皮がぴくぴくと動く。銀狼は一噛みしただけで離したが、黒狼の耳は欠けもせず血も流れていない。
ミアイは許しを請う友に頬を擦り付けた。太い鼻面の匂いを確かめ顔を舐めてやる。おずおずと顔を上げたシムの目に映ったのは、己を心配そうに覗き込むいつもの優しい友の姿だった。
歩き出した銀狼が振り返って一声咆えた。早くおいでと尾を振り、もう一度呼んで走り出した。浮き浮きと走り出した黒狼がすぐに追い付く。並んで走る姿は仲の良い姉弟のようだった。
黒狼は水際を往復する鬼ごっこにすぐに飽きた。銀狼の細い頚を甘噛みして別の遊びをしようとせがむ。しかし力が入り過ぎた。またも失敗った黒狼を叱り付けた銀狼は、一人だけ離れた場所に座す友の元へ向かった。
今の彼女は〈祝福〉────生命力の流れを嗅ぎ分ける事が出来た。黒狼の〈月〉がゆったりと動き始めた時もそういう匂いがしたし、皆の身体からは濁った疲労の匂いがしている。
彼は岸辺の大岩に背を預けていた。その岩にはロープが結び付けられ、水に沈んだ一方の端には彼らの苦労と名誉の源が括り付けられている。
銀狼はシャツを脱いだままの彼の素肌に鼻面を寄せた。予想通り全身の疲労と汗の匂いが少々。際立った障り────怪我やひどい痛みは無いようだ。安心した銀狼は顔を擦り付けた。
「お前の毛色は珍しいよなぁ……。しかもきらきらしててえらく綺麗だ」
首や肩を撫でる手付きに邪心は無かった。心からの賛辞を喜んだ雌狼は頭を振って答えた。そこへ業を煮やした黒狼が走り寄って咆える。もっと遊ぼうと銀狼を誘っているのだ。周囲を走り回るので小石や水が飛び散った。
「ロープに突っ込んで切ったらお前の皮を剥ぐぞ!」
銀狼は腕を舐めて友を宥めた。
水を掛けるなと怒られたシムを連れてミアイは湖へ泳ぎ入った。犬掻きで浮いていたかと思うと銀色の頭が沈む。水底を蹴って水上に半身を出した。着水後に浮かんで息継ぎをし、また潜って強く底を蹴ると水面に躍り出る。今度は後ろ足の先まで水上に飛び出した。綺麗な弧を描いて頭から水に飛び込む。
顔を出したミアイがシムを見詰める。受けて立った黒い頭が沈み、近くの水面が盛り上がったと思うとシムが魚のように跳ねた。ミアイの二度目の跳躍よりもずっと高く跳んだが、無様に落ちて大量の水飛沫が上がる。それが大いに不満だったらしく幾度も繰り返して飛び上がった。やっと美しい姿勢で飛び込めると、どうだとばかりに嬉しそうに喚いた。
今度はミアイが受けて立つ。底を蹴って水面へ躍り出ると、身体を錐のように回転させた。頭から潜る時も水は殆ど撥ねなかった。続けて高く飛び上がると空中で一回転して見せる。嬉々としてシムが真似をし始めた。
シムは体調が悪い時に獣化したせいで肉体を制御しきれていない。それ故力加減を誤るのだろう。月の姿は変化・維持するだけで祝福を消耗する。更に激しく動いていれば、大量に抱え込んだ恵みの力を無理なく自然に消費出来るはずだ。
獣化で生命力そのものが活性化すると同時に、狂った調和も治ったようだが、まだ力を持て余している。もう少し発散させれば月化を解いても問題無さそうだ。シムは本当に楽しそうにしている。ミアイは彼を失わずに済んだ幸運を自然の恵みに深く感謝した。