月光(三)
「嫌な感じ……、ねえ」
膝小僧を抱えて押し黙るミアイに、ヤスを押し退けそうな勢いで身を乗り出したテンが問うた。
「体内の力が狂っているから嫌な感じがするんじゃないか? もっと身体を冷やしても駄目なのか?」
「そんなの分からないわ、だから困ってるんじゃない。熱中症と脱水にもなってたもの。もう少し様子を見てみなきゃ何とも言えないわ!」
「熱冷ましは使わないのか? 必要な薬を村から取って来るなら早い方が良くないか?」
「だ、か、ら! 少し経過を見たいんだってば! 強い薬は身体に負担が掛かるから、出来るだけ使いたくないの!」
「しかし、このままただ待っても────」
矢継ぎ早に質問をぶつけてくるテンにミアイは苛立ちを感じていた。しかし、どんなに声高に主張しても、その当人が悩んでいては相手を納得させられる訳がない。
「……なあ、お前ら。まるで子供を心配する若夫婦みたいだぞ」
水から上がったカクが言い合う二人をまとめて黙らせた。一瞬言葉に詰まった後で、慌てたミアイが今度はカクに喚く。
「ちょ…………、ちょっとぉ!」
「ふむ、確かに」
眉根を寄せた剣呑な表情のテンと、真っ赤になったミアイが相槌を打ったヤスを両側から睨み付ける。額に貼り付く濡れ髪を掻き上げるカクが三人の前に腰を下ろした。
「……まあ、冗談はともかく。暑さで逆上せてるにしろ、他に理由があるにしろ、身体を冷やしながら様子を見るしかないんだろ? どうせ獲物の解体が終わるまではここに居るんだ。ミアイを急かせてもシムが治る訳じゃ無し。……お前も少し落ち着け」
最後にぴしりとテンに指を突きつけた。
「すまない、つい……」
「ううん、良いの。シムが心配なのはみんな同じだから……」
カクの指を睨んでいたテンが肩の力を抜き、のろのろと居住まいを正す。患者当人だけでなく、患者の身を案じる者の不安も和らげるのも治療師の役目のうちである。ミアイは感情的に応じた自分を恥じた。
「ところで若奥さんよ、実際のところシムはどうなんだ。熱中症と脱水は分かるんだが、祝福の暴走てのがどうにも分からん。……俺は〈知恵熱〉の経験が無いんだ」
しつこくからかうヤスの肩を小突きつつ、ミアイが説明を始める。
「恵みの〈知恵熱〉も小さな子供によくある知恵熱と似たようなものよ。ただ、発熱の原因が祝福って言うだけ。成長によって身体と祝福の調和がとれなくなるの」
治療所の書物の一文を諳んじてもヤスには理解出来なかった。やはり知恵熱の経験が無いミアイも、最初はさっぱり意味が分からなかった。
「ええと……、わたしたちは元々持ってる自分の能力以上の力を得るために、必要なだけ自然の恵みを集めるわよね。いつもなら『跳びたい』と思った時に、その距離によって足に込める筋力と、周りから集める〈力〉の量を自然に調節してるでしょ。
だけど暴走すると自分が使う以上の〈恵み〉を集めてしまって、行き場を失った力が負担になって熱が出るの。例えるなら、沢山食べたはずなのに満腹なのが分からなくて、ずっと食べ続けてるような状態かな」
「……もし、そのまま食い続けたら胃袋が破けて死ぬな」
シムを理由に皆にも休む時間を作ってくれたヤスに心の中で感謝した。
「そうなんだけど、それを制限して調節する感覚がおかしいから、本人の意思や必要かどうかに関係なく身体がどんどん集めちゃうのよ。溜まった〈力〉を減らせば正しい感覚が戻るみたいけど、たぶんシムは能力補助くらいじゃ使い切れない量の力を抱えてる。走ったりすればそれだけで体温が上がるから無理だし……」
「やっぱり薬が良いんじゃないのか?」
それまで黙っていたテンが静かに口を開いた。先ほどとは違い、今度はミアイも落ち着いていた。
「ラウールはとても強いし、特殊な薬だもの。量を間違えたら大変な事になるわ」
「熟練の治療師しか扱えないのは知っているが、そんなに難しいものなのか」
「体力を消耗してて注意が必要な容態だから……。それに知恵熱はある意味『普通』の範囲だけど、シムはシシ王の〈力〉で強引に感覚を狂わされたでしょ。『暴走』と一口に言っても、それがどんな風になってるのかわたしには全然分からないの。
もしかしたら狂っているのが一部分で、それが体温を調節する部分だけに作用してたとしたら、おかしいのはほんの少しだけだもの。知恵熱じゃない本当の〈暴走〉は滅多にあるものじゃないし、診察した経験の有る治療師にちゃんと診てもらってからの方が安全だと思う」
異能力が原因の発熱は乳飲み子の知恵熱とは違い、幼児期の終わりの心身共に成長著しい時期に多かった。軽い眠気で済む者、高熱が出る者、暴走に至って生命そのものが消えてしまう者。症状が多岐に渡り診立てが難しいのである。
子供は〈自然〉に愛された証として生命────祝福を授かると言われている。幼児期に異能力の片鱗を強く示すのはそれ故だ。長じるにつれて能力が薄れてしまうのは、突出した異能力が肉体を害してしまうので、形を変えて生命の中に溶け込むのだとも────。
重症者に通常の解熱薬を与えても一時しのぎにしかならず、ラウールの服用が必須だった。
百合に似た花を付けるラウールはドルディア山脈特有の多年草である。〈祝福〉と呼ばれる異能力の制御を助ける働きが有り、これは他の何物にも無い特性だった。大地の霊気や森の精気────〈自然の恵み〉を自らの肉体に反映させる能力の強い者ほど、力が暴走した際の症状が重くなる。
「薬を使えば楽にはなるのは確かなんだが……」
「知恵熱で飲んだの?」
答えるテンはどこか遠くを見ていた。
「子供のころに何度かな。どんなに熱が高くても、飲んだ翌日には治まっていた」
「オレとタカもガキの頃は何度も飲まされた。口が腐るんじゃないかと思うくらい不味かったのは未だに覚えてるぞ。…………飲まなくて済んだなら幸運てもんだ」
味を思い出したカクが形の良い眉を歪める。肩を竦めたミアイは苦笑した。患者に処方した残りを舐めてみろとシャウナに言われた事があるのだ。指につけた少量の液体を舐めただけだと言うのに、正に「口が腐る」ような青臭いえぐさは、感覚の鋭い狩り人には拷問に等しかった。どれだけ口を濯いでも鼻に匂いが残り、暫く気分が悪かった。
力の暴走も熱中症も症状は似ているが危険度はまるで違う。もし、真実〈祝福〉の暴走なら、それを乗り切るためにも少しでも体力を回復させたかったのだ。もう少ししたらシャウナを呼びに行こうと考えた矢先にタカの悲痛な声が上がる。
「ミアイ! シムが!」
ミアイは弾かれたように走り出した。
「何……、これ…………」
シムの身体に触れたミアイは火傷したように手を引いた。先ほどまでは曖昧だった『何か』が強まって、シムの体内で荒れ狂っているのをはっきり感じる。短い間隔の浅く苦しげな呼吸、肌の赤みも再び強まっていた。
「なあミアイ……。これ、おかしいよな? 普通じゃないよな?」
「タカにもこの感じが分かるの?」
タカが大きく首肯した。一歩遅れて駆け付けたテンとヤスも、シムに触れて顔色を変える。ミアイがとても怖い何かとしか表現出来なかった波動。彼らはこれに覚えがある。
シムの異常な力の高まりはシシ王の〈咆哮〉にそっくりだった。死してなお獣王は己の偉容を見せ付けるのか。
頷き合ったテンとヤスがシムを抱えて湖へ走り込んだ。二人に挟まれたシムの身体が力無く揺れる。祝福の暴走を目の当たりにした皆の胸に底知れない恐怖が広がった。特にミアイはひどく取り乱していた。軽々しく特殊な薬を使えないと、テンを止めたのは彼女だったのだから。
焦るミアイが足を滑らせて湖中に頭まで没した。彼女自身は泳げるが、咄嗟の事に水を吸い込んでいた。すぐにタカが助け上げる。鼻の奥が焼け付くように痛んだ。支えてくれる太い腕に縋り付き、喉に入った水に激しく咳き込む。
足の届かない深さで無駄に伸び上がろうとするのを見兼ね、タカがミアイを抱き上げた。横抱きにされたミアイがシムの額や頬を撫でる。泣き出しそうな表情でシムを救う手立てを必死に探しているであろうミアイを男たちは見守っていた。無論皆も考えを巡らせてはいたが、やはりミアイに期待してしまう。切迫した雰囲気とシムの呼吸音だけが水面に漂う。
「あっ……、そうか! そうだよな! さすが兄貴だ!」
突然の事に驚く仲間を余所に、タカは腕の中のミアイに息せき切って話した。
「〈月〉の力はどうだ!? それなら恵みの力を使うだけじゃなく、狂った感覚も治るんじゃないか?」
獲物の見張りに残ったカクが絆で伝えてきた方法には別の問題があるのだ。
「で……、でも月は生命力そのものを活性化させるわ。逆にもっと酷くなるかも────」
「このままでもどうにもならないだろうっ!!」
感情も露わにテンが咆えた。押し黙ったミアイを見て目を伏せる。奥歯を噛み締め、歯の隙間から言葉を搾り出した。
「今から薬を取りに戻ってももう間に合わない。…………それならここで手を尽くそう」
テンが口にしたのは、ミアイが無意識に避けていた、しかし目前に迫った事実だった。村への往復は狩り人がどんなに急いでも二刻以上掛かる。治療師を呼んだとしても、〈祝福〉を使えない者が湖岸に着くのは更に後になる。残り少ない生命を削るかもしれないが、何もせずにただ見ているよりは良いだろう。
〈月〉の力は本人の意思で発動する。皆が必死に呼び掛ける中、ミアイは再びシムの額に手を置いた。沈んだ意識を浮かび上がらせるのに触覚を刺激するのも効果的だからだ。而して脱力していた身体に微かな震えが走り、シムが目を開けた。
「…………あれ? …………泣いてるの?」
ミアイは水が撥ねただけだと苦しい言い訳で誤魔化した。急いで月の力を使うよう伝え、怪訝そうに見返すシムを急かせる。不思議とシムはミアイだけを見、彼女とだけ話していた。途中で他の仲間に目が泳いでも必ず顔を戻す。まるで二人の間に特別な何かがあるかのようだ。
「祝福の暴走が治るかもしれないから、試してみて」
ぼんやりと見返していたシムが「やってみる」と瞼を閉じる。ミアイは集中の邪魔にならないよう額から手をどけた。暫し黙した後に目を開けて深い溜め息をついた。
「ごめん、やっぱり無理みたいだ」
「謝らなくて良いから。ね、もう一回やってみて」
繰り返す言葉には素直に従うものの、月の力は眠ったままだ。更に試すよう促したミアイをシムが止めた。
「もういいよミアイ。…………もういいんだ」
穏やかなシムの声と、周りの男たちの強張った表情がミアイの恐怖を呷った。
「ミアイの手って、冷たくて気持ち良いね」
シムにそう言われても、すぐには意味が理解出来なかった。ミアイが額にそっと手を乗せるとシムは嬉しそうに笑った。
「やっぱり……、きもちいい────」
黒目がぐるんと裏返りシムの意識が散った。急いで首の辺りを探るとまだ脈は振れていた。しかし先ほどより不規則で呼吸も苦しげだ。
「脈が弱くなってる、早くしないと……。もう一度覚醒させなきゃ……」
「シム! おい、寝るな!」
ヤスが必死に戻そうとする。
「…………自力で出来ないのなら手伝えば良い。お前が導いてやれ」
重い声にミアイが顔を上げるとテンと目が合った。
「導くって……、無理よ! わたしは巫女じゃないわ。それにシムと血が繋がってもないのにそんな────」
「ここに居る女はお前だけだ」
低く掠れていたにも関わらず、テンの声ははっきりと聞こえた。ミアイはヤスにも、自分を抱き上げるタカにも無言で助けを求めた。悲しみと恐れに彩られた男たちの顔には、希望と励ましも確かにあった。視線を戻したミアイにテンが喰い下がる。テンはまだ諦めてはいない。強い口調で彼女に懇願し決断を迫る。
「俺たち男だけで試しても駄目だろうが、お前が巫女の代わりをしてくれれば、もしかしたら成功するかもしれない。俺も……、俺たちも力を示して介添えはする。だからお前がシムの〈月〉を導いてくれ」