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銀の月 改稿版  作者: 紅月 実
第四話 月光-ツキヒカリ-
17/25

月光(二)

 水気を含んだ風を感じ、湖面の煌きが目を射るほどに近付いた辺りから、地面が緩い下りになっていた。木の根が所々露出して階段状の足掛かりがあるとはいえ、足元はぬかるんで滑り易くなっている。普段の移動は殆どが樹上で、地上の場合でもこんな大荷物を持っていたりはしない。だから今まで困った事は無かったのだ。


「だって……、みんなはもっと重い物を運んでるのに……!」

 最後の下りの道程は、タカがシムを運べとテンが指示してもミアイは承服しなかった。肩で息をしながら切れ切れに反抗の声を上げる。口の中へ伝う汗は、もう何の味もしなかった。

「もし、お前が足を滑らせたらシムごと転げ落ちるんだぞ」

 ヤスにぴしゃりと言われても引き下がらない。

「だけど……」


「疲れて足元のおぼつかないお前より、タカのほうが楽にシムを運べるってだけの話だろ。『誰が』で言い合いするより、『早く』水辺に運ぶほうがシムのためだと思うぞ」

 彼女の汲んで来た清水は、男たちの活力を呼び戻していた。さりげなく割って入ったカクが保護欲を刺激した。最後の難所に挑むための小休止を終わらせて立ち上がり、細い肩に手を置いて優しく諭す。

「……だから、な? 早く身体を冷やしてやろうぜ」

「……そうね、……そうよね。ごめんなさい……」

 肩を落としてしゅんとしたミアイがタカから皆の荷物を受け取る。




 組衆で唯一の女であるミアイが肉体的に最も脆弱なのは周知の事実である。今のような極限状態でさえ無ければ、狩りをするのに申し分無い能力は備えている。

 しかし、ミアイに求められているのは男衆並みの膂力では無い。機転を利かせて水を汲みに行ったり、熱冷ましに効く木の実を採って来たりするような、細やかな気遣いと専門家としての知識だった。


 治療師師補ともなれば知識はもちろん、非常時に対処出来るだけの経験も身に付けている。水辺で身体を冷やしたとしてもシムには注意が必要だろう。ミアイが居てくれてどれだけ心強い事か!

 カクは皆の気持ちを代弁しただけだった。真面目なのか引け目があるのか、ミアイは余人に頼るのを妙に拒む事があった。彼女がどれだけ背伸びしても届かない場所へも、男たちは無理せず手が届く。逆にミアイを頼る場面が他にいくらでもあるのだから、こういう時は素直に甘えてしまえば良いのに思う。


 腕力が必要な止め役の女衆の中には一見すると後姿で性別の判らない者もいるが、力より素早さに特化した囮役のミアイは華奢な骨組みをしていた。狩り場で鍛えられた筋肉があっても、元が小ぢんまりしているので首や肩も細い。部分的に十分な肉が付いていて、細く括れた腰が上下にある形の良い膨らみを際立たせている。

 治療師のシャウナのような成熟したなまめかしさとは違う趣きを持つ、優しい顔立ちと女らしい身体つきの若く健康な娘。


 真面目で気立てが良く、理を説けば己の非を認める柔軟さも持ち合わせている。有望な治療師師補で、おまけに『王狩り』と来ては男たちが放ってはおくまい。カクの端正な顔が意地悪い笑みを形作った。

 化粧をして髪を結い、年相応に着飾ったミアイは、秋の収穫祭で獣王の御証みしるしと同等以上に注目されるはずだ。十八の娘が何故こんなにもまばゆいのか、その理由が分からない阿呆どもが山ほど言い寄って来るだろう。


 同じ組で長い時間を共に過ごしている彼は、とうの昔に気楽な傍観者を決め込んでいた。祭りまでにどれだけのヤツが泣くか。中々の見物になりそうだと内心でせせら笑う。

「どうしたの?」

 小首を傾げて不思議そうに見上げる仕草が何とも愛らしい。カクは何でもないと優しく笑ってミアイを安心させた。

「……オレも早く泳ぎたいと思っただけさ」



―― ◇ ――



 シムを担いだタカは慎重に斜面を下りた。ミアイは先に荷物を下ろしてからもう一度タカと共に下りた。雨をたっぷり吸った土は柔らかく、時には深く足が沈み込む。タカはシムを支えながらあちこちに掴まり、時には尻をついて慎重に歩を進める。

 足場から足場への間隔が開いていたり、近場に手が届かない時にはミアイがタカの手を掴んで支えになった。タカを追い越したミアイが木の根元に滑り降りる。太い枝をしっかりと掴み、身体を斜めにして手を伸ばす。

 タカが差し出された手を握って次の足掛かりへと動いた。ミアイの細腕が抜けそうなほどの重さが掛かる。枝がしなってミアイの身体が地面に近付いた。滴る汗が湿った土に染みる。


 坂の終わりは森の終わりでもあった。ミアイは一人で湖に向かって走った。先に置いた荷物の山に己の道具帯を放り出す。岸寄りの浅い所は水温が高いので深場を目指した。本当はシムを氷室に放り込みたいくらいだった。

 記憶を頼りにもっと深い所を探して歩き回る。ふいにすとんと水底が落ち込んだ。一気に足が沈んだミアイは胸まで水に浸かる。陽の当たる表面は温かいが、そのすぐ下にはひんやりとした層がある。足元は更に冷たく、長く触れていれば凍えてしまいそうだ。

「ここへシムを連れて来て!」


 ムトリニ湖は東ガラットの重要な水源である。この湖を源とする川が二つあり、そこから枝分かれした幾つもの支流は地上と地下を行き来しながら、さながら血管のように森の中を通っている。川へと流れているのだから、表面が静かに見えても湖水は動いている。

 シムが水の流れに捕まれば、深みへ引きずり込まれて自力で泳ぎ戻るのは不可能だ。支える側のミアイたちも万全の状態ではないのだから、あまり深い場所へは行けなかった。


 しかし、シムを横抱きにしたタカは胸の下までしか水に浸かっていない。これなら大丈夫だろう。タカは首やズボンを大きな手で掴み、ぐったりしたシムの身体を泳がせる。足元に回ったミアイが水中で引き抜いた相棒の靴を岸に放り出す。

 シムの踵は底の辺りをたゆたい、腕も自然に揺れている。水に浸した布で顔を拭い口元を濡らした。飲み込む動作をしたので少量ずつ口の中に滴らせる。夏でも冷たい雪解け水に冷やされて肌の強い赤みも引いてきた。


「これならきっとすぐに気が付くわね」

「…………俺、そんなに寝てたんだ」

「シム!」

 ミアイとタカが揃って破顔する。

「……そっか、湖まで来たんだ。……じゃあ、もう水を好きに飲んでも良い?」

「一度にたくさんはだめよ、少しずつね。それと────」

 ウロの実と岩塩の欠片を取りにミアイは岸へ上がった。いつも昼食を取る岩の所に、鉈やベルトが折り重なっていた。仲間のシャツもその横に打ち捨てられている。ミアイは自分の荷物を漁って必要な物を探した。

 肩越しに振り返ると、支えられながらもシムは自分の足で立っていた。それを見たミアイが浅場へ来るよう呼び掛ける。

「どうせならで座ってる方が楽でしょ。大分良いみたいだから、横になって冷やせば良いわ」


 高熱で弱った内臓を冷やすのを避けたかった。急激な体温の変化は身体の負担になる。後は発汗で徐々に体温を調整した方が良さそうだ。深場は中央への引きも強いので、安全な所でゆっくり休ませる事にする。

 胡坐をかいたシムにウロの実と塩の欠片を食べさせ、一緒に持って来た深皿に水を汲んで渡した。タカにも木の実と塩を食べさせると、シムを任せたミアイは他の仲間の様子を見に行った。



 ── ◇ ──



 坂を下りきって見慣れた湖岸の風景が目に入った時には皆の表情が変わった。森から水際までは剥き出しの地面に大小の石が沢山転がっている。石のごろつく中を精一杯急いだ。逸る思いが疲れを忘れさせる。荷重の掛かる前の担ぎ手を二人にし、坂を下り切った三人は必死に歩いた。

 湖中に踏み込むと水が足に絡み付いて邪魔をする。頃合いの深さで声を掛け合った。

「そろそろか!?」

「よし、下ろすぞ!」


 カクの声に合わせて肩に食い込んでいた枝を下ろす。男たちは腿まで水中に没しているというのに、獲物の一部は浮島のように水面からぽっかりと出ている。皆で顔を見合わせた後、テンが溜め息をついた。

「腹が開けると良いんだが……」

 通常は先に内臓を外し、空になった腹腔内に重しの石を詰めて水中に沈めるが、楕円形の乾いた泥塊のままでは無理である。足に括り付けていた担ぎ棒を外して、テンとヤスがこびり付いた泥を掻き落とす。剛毛より小枝と呼ぶ方が相応しい硬度と長さの毛が、血交じりの泥で固まっていた。毛を引きむしるようにしても中々泥が取れなかった。


「……こりゃあ、だめだ。冷やすついでに泥も水に洗ってもらった方が早いぞ」

 観念したヤスの言葉にテンも手を止めた。

「すぐには無理か……。せめて傷を広げて中に水が入るようにしたいな」

 カクが岸から取って来たナイフの束をテンに渡す。ヤスのナイフは獲物の体内に埋まったままだが、テンのナイフは苦労して泥の中を探した。タカの矢も、折れた物もあったが運良くやじりは全て回収出来た。鉄製品はナイフ一本、小さな鏃一つでも大切に使っていた。


「半分くらいひらければ御の字だろうな」

 やっと露出させた胸の傷口にナイフの切っ先を当て、硬い皮とぶ厚い脂肪を切り開く。刃に付いた脂肪が切れ味を鈍らせると別のナイフに交換した。五本のナイフが使えなくなるまではあっという間で、胸の中央から腹へ三、四十センチの切れ目を入れるのが限界だった。


 桁外れの巨躯は脂肪の厚さも予想を遥かに超えていた。鉈で叩いても簡単には足を潰せなかったのも頷ける。冬を乗り切る脂肪を蓄えるのは秋口になってからだと言うのに……。

 シカと違って脂肪の多いイノシシの解体は、複数の刃物を用意して、刃の脂肪を溶かすために湯に浸けながら行う。しかし、気が急いていたので湯を沸かすどころか火も起こしていなかった。

 溜め息をついたテンは潔く諦めた。腹に石を入れて気休めの重しにする。これで水の入る隙間も出来た訳だ。もっと深場へと思っているとミアイが近付いて来た。


「冷やしてから始めるの?」

「これだけの大きさだと内臓を抜くだけでも手間なんだ。少しは休ませろよ」

 テン組の解体担当────カクが大げさに嘆いて見せ、意味ありげににやりとした。つられたミアイも肩を竦めて笑った。一人で捌ける範囲を超えているので皆で分担するのは明白だからだ。

「もう少し動かすぞ」

 ヤスが獲物の足を強く引く。また担ぐより水の中を引き摺る方が楽だ。獲物の足に掛けたロープを受け取ったミアイが、岸辺の岩に巻き付けて結わえる。岸へ戻るヤス、テンと入れ替わりに、今度はカクが深場へ踏み込んだ。適当な深さのところで潜ると、少し先へ浮かんで泳ぎ出した。

「あまり深い所へ行かないでね!」

 声を張り上げ浅場で涼む二人の横にミアイも座った。


「……シムはどうだ?」

 渡された木の実と塩を飲み下したヤスが尋ねる。テンもミアイの言葉を聞き漏らすまいとしていた。

「今は落ち着いてる」

「『今は』?」

「身体を冷やして熱を下げたから、大分楽にはなったみたい……」

 言葉が続かず俯いた。ヤスに見詰められて居心地が悪くなったミアイは水底の石をいじっている。片方の眉を上げたヤスが先を促した。

「よく分からないけど、嫌な感じがするの。何て言ったら良いか……。シムの身体に触ると、ただ熱いだけじゃなくてチリチリするのよ。それがとても嫌な感じなの…………」

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