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銀の月 改稿版  作者: 紅月 実
第四話 月光-ツキヒカリ-
16/25

月光(一)

 爪先が木の根に引っ掛かった拍子に膝の力が抜けた。腰を支えた力強い何かに縋ったミアイはかろうじて転ばずに踏み止まる。

「……大丈夫か」

 低くかすれた声がすぐ近くで聞こえた。ベルトを掴んでいたのはテンだった。喋る気力の無いミアイは頷くのが精一杯だ。疲労と倦怠感の詰まった身体は重く、頭も足もふらついた。

 男たちは身体の熱を冷まそうと既に胴着シャツを脱いでいた。逞しい胸にもたれると素肌を通してテンの心臓の鼓動が伝わって来る。ぐったりと寄り掛かったミアイは、テンが抱えたもう一人を見て鳶色の目を見開いた。自分たちの現状をやっと思い出したのだ。




 勝ち鬨の遠吠えの後、彼らは暫し放心していた。止めの際に心臓から流れた大量の血液が熱せられ、泥田場ぬたばに強烈な臭気が満ちた。むせ返るような血の匂いが彼らを正気付かせた。食料にする部分────特に傷み易い内臓は長時間放置出来ない。獲物は手早く処理するという狩りの教えが、彼らを立ち上がらせたのだった。

 これだけ大きな獲物を捌くには大量の水が必要だった。泥落としもしなければならないし、解体の前後は獲物の肉を冷やさねばならないからだ。手頃な太さの枝を数本刈り取って束ね、即席の担ぎ棒を作った。そこにシシ王の脚を括り付けてムトリニ湖まで運ぶのだ。

 熱い泥風呂となった沼田場から湖までは徒歩で一刻(一時間)少々の道のりである。仲間が黙々と準備をする間に、シムはかなり回復していた。身体はだるそうにしているものの、質問への受け答えもはっきりしている。これなら湖畔まで持ちそうだとミアイは判断したが、すぐにその考えを後悔する事になった。




 シムにはミアイが肩を貸していたのだが、歩きながら自分も失神したらしいと遅まきながらに気付く。小柄とはいえ人を二人も抱えて歩くなど、無茶をしたテンが腹立たしかった。しかしシムは、テンが支えていなければ立っていられないだろう。赤い頬に触れるとかなり熱い。

「水を飲ませなきゃ…………」

 彼女の声も乾いて掠れていた。全員分の水袋を確かめたタカがどれも空だと首を振る。ミアイは心の中で舌打ちした。皆の荷物はミアイが運んでいたのに、タカに持たせて余計な体力を使わせてしまったからだ。組衆の中で一番体力が残っているのは自分だとミアイは判断した。だからこそ〈恵み〉の力を抑えられなくなったシムに肩を貸していたのだ。




 祝福を強く受けた者の力は制御出来なくなると暴走を始める。強すぎる〈自然の恵み〉は害になるのだ。体温を調節出来なくなるのは初期段階で、発熱後に意識を保てなくなり、高熱に晒された肉体が耐えられなくなると死に至る。発汗のための水分補給をしながら身体を冷やすのが対処法だが、現状ではどちらも出来ない。

 〈恵み〉が原因の高熱に効く薬草は、聖地とテス一族の縄張りにだけ自生している稀少な物だ。組の縄張りでも一ヶ所だけ生えているが、湖畔とは逆方向で量も足りない。

 そうなると、やはり水分補給と冷水浴の両方が出来る大きな水場はムトリニ湖しかない。だが、シムには今すぐ水が必要だった。湖まで水汲みに行って戻るのは止めたほうが無難だろう。先刻のように途中で意識を失えば、かえって仲間に余計な心配をさせる事になるのだから。


 彼女は鉈と小刀用の武器帯だけを外して 革小箱ポーチの着いた道具帯は腰に巻いたままだ。腰から突き出た鉈の柄がシムにぶつかって邪魔だったのだ。男たちは少しでも体力を温存しようと、荷物を全て外してしまっている。

 泥でまだらになった肌は赤みがかり、自分を抱えていたテンの身体は熱かった。ミアイ自身も疲弊していたが、仲間の消耗は遥かに酷い。湖まで予想以上に時間が掛かっている。荷を運ぶ男たちは担ぎ手を代わる度に疲労の度合いがいや増した。


 獣王との対決が皆の気力を根こそぎ奪い、暑さと重労働が体力を削っているのか。強靭な心身を持つ狩り人でもこんな状態に陥るのか。

 脱いだ服を当て布にしていても、男たちの肩には枝が食い込んで痣になっていた。仲間の負担を減らしたくても、ミアイの力ではあの獲物を担げなかった。また体格の面でも肩の高さからして獲物の一部が地面をこすってしまう。ミアイは重い気持ちを吐息と一緒に吐き出した。こればかりは仕方ないと気分を切り替える。


 ここから東に行くと『まな板』に出る。まな板の近くには清水の湧いている場所があるがやはり少々遠い。普段なら大した事の無い距離でも、祝福ちからを使わずに走れば時間が掛かる。もっと近くで水を汲めるか、汁気の多い果実の得られる場所を必死に思い出そうとした。

 そして、やっと一ヶ所だけ思い当たった。水があるかどうかは賭けだが、駄目ならその近くで何某かの果実を探せば良いだけだ。




「水を汲みに行ってくるわ」

 シムを抱えて歩き続けるテンの注意を引くために、肩を叩いて同じ言葉を繰り返す。テンは何度も頭を振って目の焦点を合わせようとしていた。やはり認識力が低下しているようだ。

「…………水? ムトリニまで走るのか」

「ううん、もっと近くに湧き水があるかもしれないから行ってみる。水が無くても果実を摘んで来るから、みんなと一緒に休んでて」

「早くシムを水場に連れて行かないと………」

「いいから座って! わたしが戻るまでの間だけでも休むの!」

 妄執染みた言葉を強引に遮った。引き離したシムを木陰に寝かせ、焼けてしまいそうに熱い額をそっと撫でる。


「迷惑かけてごめん………」

「すぐ戻るから、もう少し我慢してね」

 薄く目を開けたシムが小さく呟いた。気にしなくて良いと首を振って頬を再び撫でる。テンもその隣に無理矢理座らせ、皆にも休むよう断固として言い渡した。

 カクとヤスが獲物を下ろしてその場に座り込む。酒用の小さい袋は残して空の水筒だけをベルトに挟み込んだ。六人分の荷物と彼自身の弓と矢筒を再びタカに預けて森に入った。




 別行動を取ったミアイはすぐに被りの胴着シャツを脱いだ。袖無しのベストはとうに脱いでいたが、男たちの前で下着姿になるのは我慢していた。女は不便だと不平を漏らしつつ、適当に流して走る。素肌に感じる風が心地良い。〈祝福〉を使わず自分の力だけで走るくらいなら足はふらつかないで済むようだ。

 このまま南よりに進むと地層が露出して段差が折り重なる場所がある。山頂の雪解け水が地面の下を通って、岩の隙間から染み出しているのを期待していた。年ごとに量や湧いている期間に差があるので固定の水場にはしていないが、去年は足下に小さな水溜りが出来ていた。量は少なくてもひんやりと冷たい水だった。


 周囲の樹々で位置を確認しながら進む。黒っぽい石が増えるのが近付いている目印だ。大きめの黒い石がハマニネの樹の根元にあった。すぐそばに段差があり傾斜がきつくなっている。段差を飛び下りて目的の場所を探した。岩の層から染み出た水が地面に小さな水溜りとなっているのを見て、思わず知らず声が出る。

「あった……!」

 傍らに膝をついて揃えた両手を岩に押し当てた。手の平に溜まった分を飲み干すと、二つ三つ数える間にまた溜まる。冷たい水を夢中になって飲み続けた。気が済むまで何度となく繰り返して喉の渇きを癒した。

 人心地つくと腹は冷えたのに少しずつ汗が出て来る。補給された水分で体温を下げようと身体が動き出したのだ。これで自分は大丈夫。次は仲間に持ち帰る分だ。


 手ですくっていてはどれだけ時間が掛かるか分からない。水を貯めている間に果実や熱冷ましの薬草を探したかった。湧き水の出口に挿し込んだ細い枝を伝わせようと試みたが上手く袋の口に滴らない。

 暫くどうするか考えた末に腰のポーチの一つから薬研やげんを取り出した。舟形の薬研は携帯用なので、長さが指先から手首まで、ちょうど手に持って使える大きさである。薬研の端は注ぎ口として使えるように加工されている。


 これは賠償金を払い終えた後でミアイが始めて買った高価な物だった。薬草や鉱物を磨り潰すための摺り棒も小さめだ。どちらも同じ材質の石で作られていた。

 水の湧き口に押し込んで角度を調節すると、水が一本の細紐のように滴り落ちた。その下に水筒を置き、周囲に転がっている石を使って口を上向きに固定した。これでずっと手で押さえていなくて済む。それでも多少零れているが、じわじわと下に貯まる分くらいは後で掬えば良い。


 地層から落ちた石や周りの土が湿り気を帯びている。水はそのまま地中に染み込んでいるようだ。貴重な小さい水溜りでは土が洗い流されて残った大小の石が水浴していた。

 休息がてら観察していると去年よりも水量が多かった。今年は例年より暑さが厳しいので、頂上付近の万年雪もたくさん溶けているのかもしれない。一昨年は岩の表面を湿らせる程度だったので心配していたのだ。清水が汲めて本当に良かったとミアイは胸を撫で下ろした。



―― ◇ ――



 水の詰まった革袋は蓋が弾け飛ぶ寸前だった。しかもミアイはそれを六つも運んでいた。動きに合わせて袋が揺れるので走り辛い。少しでも沢山の水を持ち帰りたいが、袋が破けるのも蓋が外れるのも願い下げだ。かと言って、ゆっくり歩いてこれ以上遅くなるのも嫌だった。可能な限り急いで元来た方角へ戻りつつ、今の仲間に重要な物の詰まった別の小袋に手をやる。

 しかし、ミアイが戻ってもそこには誰も居なかった。人が座った跡や大きな物を置いた跡も残っているのだから間違えてはいない。大急ぎで湖へ向かった。シムの具合が悪化したのだろう事は容易に予想出来た。水を待つ余裕も無くなったのだとしたら、じっとしているより進むのを優先して当然だ。


 仲間にはすぐに追い付いた。全員分の荷物を持ったタカを先頭に、獲物を括り付けた太い枝を前後に挟んでヤスとカク、少し遅れてシムに肩を貸したテンが続く。

「みんな、水よ! 水を持って来たわ!!」

 テンの前に回り込んで強引に押し留めた。胸に触れた手から伝わる熱さに息を呑む。日焼けした肌に透ける血の色が目を引いた。皮膚の赤みは体温の高さを示しているし、目も虚ろで唇も乾いていた。素肌が紅潮しているのに汗を殆どかいていないのは体内の水分が足りないからだ。

 振り返って他の仲間の様子も素早く確認すると、その場から動けずに居るだけで滲んだ汗が光っている。目の前の二人が最も酷い状態だった。シムを奪い取り、テンにはっきりと簡潔に指示した。

「座って。休んで」


 両腕をだらりと垂らし、前後に揺れたまま立ち尽くすテンは無反応だった。膝裏を蹴るように軽く押しただけで簡単に膝をついた。有り得ない様子にぞっとする。平時のテンならこれほど容易く引き倒せる訳がない。突っ伏したテンのそばにシムを寝かせ、手の掛からない仲間へ水を渡しに行った。

 ちびちびと口を湿らせる男たちに渡した水は残さなくて平気だと伝えると、遠慮をかなぐり捨てて顔や身体に掛け始めた。シムのために皆黙って自分の飲み水を差し出していたのだ。我慢せずに済むのならそれに越した事は無い。

 取って返したミアイは、未だ呆けたままのテンと意識の無いシムに水を掛けた。逆さにした袋が殆ど空になったころ、ぶるっと頭を振ったテンがやっと身体を起こした。


 まだ冷たいからと添えてミアイはテンに水筒を渡した。テンの喉仏が上下に激しく動き、瞬く間に飲み尽くした。自分だけが思うさま清水を飲んだ事に罪悪感を覚えながら、腰の袋から木の実を一つ取り出す。

 息継ぎを思い出したテンに次の水筒を渡して、飲み口を咥えようとしていたテンの口に小さな物を押し込んだ。それはつややかな赤い果皮に覆われた木の実で、細長い団栗どんぐりによく似ていた。

「噛んで」

 何の疑問も持たずにその通りにしたテンの顔が大きく歪む。

「吐き出しちゃだめ! ちゃんと飲み込んで!」


 ミアイに言われるまでもなく、テンは水で木の実も果汁もまとめて飲み下した。ウロの実は強い酸味があるのだ。脱水や暑気あたりのときに一つ二つ齧るだけで症状を緩和してくれる。ミアイは特に酸味が強い種類の実を持ち帰っていた。彼女自身も既に食べていたのでテンの気持ちはよく分かる。しかし、この酸味が効くのだ。一時的に不快な思いをするのはこの際無視した。

 全て飲み干してしまいそうな勢いのテンに、シムと交代で少しずつ飲むよう言う。他の組衆にも木の実と削った岩塩の欠片を配って回る。ウロの実を見るとそれだけで一様に顔を顰めたが、大人しく水で流し込んでいた。

「薄めた果汁に蜂蜜を入れるととっても美味しいのよ。今度作ってあげるわ」

 他愛ない言葉で組衆を元気付けたかったミアイだが、答える気力は誰にも残っていなかった。




 テンはぐったりしたシムに水を飲ませるのに苦労していた。そのままテンに支えさせたミアイは、指で潰したウロの実の果汁をシムに舐めさせる。激しく咳き込むが気付けにはなったようだ。

「…………これって、何かの嫌がらせ?」

 熱い息を吐きながら微かに笑って見せる。心配させまいと軽口を叩くのも苦しいだろうに。言葉に詰まったミアイも無理に笑い、今度はその口に塩を放り込む。

「……そうよ、嫌がらせよ」

 本当は好きなだけ水を飲ませてやりたいが、脱水を起こしているので少量ずつしか与えられないのがもどかしかった。テンは僅かな間に滝のような汗をかいていた。二人に塩とウロの実を食べさせて更に水を飲ませた。それからまたたっぷりと水を掛ける。

 水の残りは手付かずの袋が一つ。湖畔まで、一、二回担ぎ手を交代すれば着くので十分に足りるはずだ。

 ミアイは二人の頬や首筋に触れて体温を確かめた。テンは肌の赤みも薄らいだので心配は無い。だが、もうシムは歩かせるのは無理だ。岩塩を元通り布でくるんでポーチにしまうと、テンに出発を促す。ミアイはシムをおぶって歩き出した。

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