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銀の月 改稿版  作者: 紅月 実
第三話  対決
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対決(五)

 縄目が食い込む痛みはまだ生きている証だった。今の彼は上の枝から下ろされた縄に吊るされていた。先が輪になったロープは首ではなく、脇の下を通って胸に掛かっている。

 カクがシムのために施した細工だった。本人が脱力しても上体を支える長さに調節してあり、意識があれば不自由ながらも枝に座って幹に背を預けられるようにしてあった。両足を垂らして枝を跨げば、ロープが切れない限り落下の危険も無い。

 シムの身体の中では〈恵み〉の力が暴れ回っていた。助けとなるはずの祝福が手足の自由を奪う枷となり、熱のせいで意識を保つのも難しかった。

 狩りの開始と同時に無力化されてしまった自分。仲間が必死に戦っているのを安全な場所から見ているしか出来ない自分。

 何度か上がったシシ王の悲鳴に意識を揺すぶられても、忸怩じくじたる思いにさいなまれるばかりだった。そんな彼に一筋の光明がもたらされた。その試みが成功すれば、ただの足手まといにならずに済むはずだった。




 組の中で最も『強い』二人が止めを刺せなかった時点で、タカはすぐにシムの所へやって来た。突進するシシ王とそれをいなすテンを視界に収めつつ、考えがあるので手を貸して欲しいと言ったのだ。

 身体が動かないから出来ないよ。

 シムにしては珍しく泣き言が口をついた。しかしタカは強く否定した。

「お前になら出来る。いや、お前にしか出来ない事なんだ」

 手ひどくからかわれても怒らず、困ったように笑っている。シムは温厚なタカが好きだった。いや、タカだけではない。頭のテンもヤスも、いつも憎まれ口を叩き合っているカクも、相棒のミアイの事も好きだった。皆大切な仲間なのだ。その期待に応えたかった。生まれて初めて真摯な気持ちで祈った。

 狩りの女神の『春の乙女』は彼に微笑したようだった。




 一陣の涼風に頬を撫でられ、薄れていたシムの意識がはっきりした。指示された事を思い出し、沼田場を見やって目を瞠る。タカが想定した状況になりつつあったのだ。テンがもう一度左へ跳べば、目印になるテンの背中が正面に来る。

 腰の 物入れポーチからソマイを取り出した。たったこれだけの事をするにも残り少ない体力を搾り出さなければならなかった。空いた手を跨いだ枝につく。深呼吸をして目眩めまいが収まってから、中心の結び目を掴んで錘を回転させた。

 ひゅんひゅんと耳のそばで独特の風切り音がする。王の突進を避けたテンが左に動いてシムに背中を向けた。ソマイを持った腕を肩の高さに上げ、腿で身体を支える。回転を限界まで速めて投擲の体勢に入った。

 恐らくこれが唯一の機会だろう。この後テンが左右どちらへ跳ぶかで全てが決まる。希望と逆方向へ跳ばれたら次を待てる余力は残っていないのだから。




 素早く向きを変えたシシ王がテンに向かって猛進する。ぎりぎりまで踏み止まっていたテンが跳んだ。

────左っ!

 シムがソマイを放った。それまでテンが存在していた場所を通過したシシ王は、飛来する捕獲具にもろに突っ込んだ。厳密にはソマイは顔面に当たってはいない。突き出した牙に絡んだだけだ。しかし、それがかえって厄介だった。

 投擲後に空中で広がったソマイは牙に巻き付いた。小石と違って簡単に落ちる訳もなく、頭を振って払おうとする度に目の縁に、傷のある口吻や牙に、おもりが当たって跳ね返り幾度もぶつかった。

「…………へへん、だ。ざまあみろ────」

 己の成した結果に満足げに呟いた。身体から抜ける力と共に、シムの意識も薄れていった。



―― ◇ ――



 先ほどまでと同じく急制動からの方向転換をする姿勢だった王は、中途半端な体勢のまま泥の上を滑って止まった。

「兄貴っ!!」

 この瞬間を待っていたタカが両方の『声』で力一杯叫ぶ。皆が声のした方に一瞬気を取られた。


 〈絆〉が伝え見せたものが腰のポーチに伸ばしたカクの手を止めた。それはシシ王の正面────牙に絡んだソマイが飛んで来た方向────から弓を射掛けるタカの姿だった。反射的にそこを見た。シシ王も同じ辺りへ視線を向けている。はっとして声の場所に視線を戻せば、現実のタカは右前脚にソマイを投げたところだった。


 弟の計画が判ったカクは己のソマイを取り出す刹那の間に考えを巡らせた。今更同じように投擲しても目標への到達時機はずれてしまう。合図の際に持ったソマイを使うつもりだと予想していたのに、惑わされた自分が腹立たしかった。

 離れた樹上に身を潜めていたタカと違い、地上のカクと『王』までの距離は短い。しかし、飛距離が短すぎるとソマイの紐は開ききらない。おもりの一つを握り二回だけ振るって放つ。狙いはタカに合わせて前脚、カクの位置からだと近いのは左脚だ。錘から中央までが同じ長さになるように作られたソマイは、通常は三本の紐を結んだ中央を持って投げるが、これなら始めから紐が開いている。

 流れるような動作で投擲したカクのソマイは、タカの物の一呼吸後に到達した。三個の錘が左右から前脚を押し包む。一回転して戻った先達の革紐にカクのソマイが絡まった。


 偽りの情景に気を取られたシシ王は前脚の動きを封じられた。間近で見ていても心話が届かない三人はソマイが織り成した結果をただただ見詰めるだけだった。

 歩く事もままならずもどかしげに前脚を動かしているが、王の剛力なら革紐を引き千切るのもすぐだろう。逸早く我に返ったテンが駆け出した。────王に背を向けて。

 握っていた借り物の鉈も振り捨て森へ向かって疾駆した。一心不乱に駆け抜ける広い背をミアイが言葉も無く見送る。


 短い距離を足に意識────力を集中して走る。強く地を蹴り、身体を屈め両足で目前の大樹を踏み切った。蹴られた振動が幹を伝わり枝を揺らす。

 時季外れの濃緑色の落葉がざわざわと舞い落ちた。刹那消えたテンの姿がシシ王の頭に倒立するような姿勢で現れる。

 ミアイが同じ事をして失敗したが、先刻とは大きく違う点があった。ミアイは両手で牙を掴んだ。しかし、テンの片手は耳を掴んでいた。そして彼女より大きく重いテンが全力でぶつかったのだ。比する必要など無かった。


 牙と耳を強く引かれたシシ王の巨体が左に傾いだ。泥に沈んでいた右前脚も甲高い鳴き声と共に浮く。掴まれた耳の根元が半分千切れていた。痛みから逃れようと反射的に左に体重を掛ける。痛手を受けていた筋肉がとうとう断ち切れ、力の抜けた後ろ脚ががくりと崩折れた。テンは長い足を振って強引に引き倒した!

 盛大に泥水を跳ね飛ばした王はもがいて身体を起こそうとする。テンは脹脛ふくらはぎまで泥に刺さった足を引き抜いた。千切れた耳を投げ捨てて両手で牙を掴み、半歩下げた片足に体重を掛けて王を阻んだ。


 我に返った組衆が弾かれたように動き出した。ミアイは二本のソマイでくくられた前脚をまとめて押さえ込む。拘束が解ければ王はすぐにでも起き上がるだろう。いや、起き上がろうとしているうちはまだ良い。もしそのまま後ろに転がればテンは確実に潰される。

 泥で滑る逞しい脚を二本まとめて抱えるのは難しかった。脚先の細い脛なら持ち易かろうが、丈夫な蹄に身を晒すなど愚かな事だ。抵抗する王が脚を振る度にミアイの身体も翻弄される。下の左脚から手が滑った。

 ミアイの体重を物ともせずに暴れる王に、とうとう革紐が負けた。ぶつんと言う音がミアイにはやけに大きく聞こえた。

 しかし、前脚は太い腕に押さえ込まれていた。胸から回り込んだタカがこれでもかと締め上げる。ミアイは片膝をついたタカの腕ごと王の脚を抱えた。




 ヤスとカクは激しく蹴り出される蹄に用心しつつ、急いで後ろ脚へと駆け寄った。ヤスが鋭くソマイを振り下ろす。錘の一つを持ち、残りの錘を絡めてほんの一時ひとときだけ脚の動きを止めた。すかさずカクが脇に抱える。

 下になっている左脚は力無く投げ出されて泥に埋まっている。用心して踏み付け、そこを支点に腰を落とす。同様にヤスも脇に抱え、綱引きよろしく男衆が二人掛かりで屈服させた。しかし────。




 王を引き倒して動きを止める事は出来た。だが、それだけだった。

 五人掛かりでやっと押さえ込んだものの、詰みの一手がまだ足りない。ここで王の生命が尽きるまで力比べをするなら、もっと早くに消耗させる事も出来たのだ。どうあっても止めの一撃を!

 テンの目にヤスの残した短刀ナイフが映った。何かの取っ手のように柄だけが首から突き立っていた。それを思い切り踏み付けた。柄が半分ほど沈み、王が引き攣った悲鳴を上げる。踵で踏み付ける度にナイフの柄が短くなっていった。


 毛皮にめり込んで見えなくなっても構わず踵を押し当てた。牙を掴んで王の首に足を乗せる姿は、横向きに立っているようだ。踵をねじって肉の中のナイフを更に深く押し込む。

「届け! 届け! 届けぇっ!!」

 叫び声が己のものである事も意識しないまま、死の楔を打ち込み続けた。頚椎けいついの断たれる音は耳ではなく、踵から骨を通して伝わった。同時に上がった王の悲鳴は長く尾を引いた。




 ごきりと言う音をタカとミアイも聞いた。口から吹き出る血泡とともに、王の抵抗が弱まった。しかし、まだ狩りは終わっていない。痙攣する脚を押さえる手に一層力を入れた。

「ヤス、止めを!」

 牙を押さえたままテンが怒鳴る。

「早く……、情けを…………!」

 大きい獲物は血抜きも兼ねて止めに心臓を突く。脚を頭の方へ引き上げたタカが場所を空けた。かしらに従ったヤスが跪いて鉈を構え、胸骨の下から前脚の中間辺りへ鉈を突き上げた。

 惰性で動いていた心臓が引き裂かれる。もう一度大きく痙攣すると王の瞳から光が消え、濁った硝子玉のようになった。鉈を抜いた傷口から溢れ出る鮮血が泥水を赤く染めた。




 がっくりと膝をついたテンの息は荒かった。呼吸する度に痛めた右肩が疼く。無意識に庇おうと伸ばした左腕も重く、身体中が強張ってきしんだ。テンだけでなく他の組衆もその場から動けなかった。

 放心したテンの心に、数多ある狩りの教えの一つが浮かんだ。

────生命をたたえよ

 獣も草木も皆同じ命。自らの命を繋ぐために相手の命を絶つ事を軽んじてはならない。命を与えてくれる相手への感謝の気持ちを忘れず、彼らと同じく自身も自然の流れの一部だと心得よと言う意味だった。狩り人たちは戯れでは獣を殺めない。生きるための手段として森の獣を狩っているだけだ。


 青い空を見上げたテンの喉から、奪った生命への鎮魂の想いが遠吠えとなって響く。

 疲れ切っているはずなのに声色は純粋で美しかった。一人、また一人と仲間の組衆も頭に倣う。最後に一際高い声が加わると、改めて五人で狩りの成功を誇った。テスの勝ちどきは長く森に木霊した。

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