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銀の月 改稿版  作者: 紅月 実
第三話  対決
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対決(四)

 なたで牙をつ鈍い音、続いて重い水音の反復。それまでとは似て異なる規則を持った律動。相手の出方に合わせていたテンの動きが変わった。

 攻撃は自分の動きを最小限に抑え、大きな痛手を与えるという一定の法則がある。これは相手が人でも獣でも同じだ。しかし、テンはそれを無視していた。いや、目の前にある邪魔なものを、ただ力任せに殴り付けているだけだった。

 近寄り過ぎて牙を避けるのも紙一重である。後ろに跳ぶ事すらせず、片足を引くか上体を泳がせて避けるのみ。見ている側の背筋が寒くなるような攻防が続いた。


 我を忘れて夢中で鉈を振り回すかしらを見るヤスは冷静だった。意識から抜け落ちてはいても、王の注意を引くという一応の目的は果たされている。巨体の向こうに時折見え隠れするテンの目は完全に据わっていた。

 激情のままに挑むテンの気迫は王と拮抗しているようだ。このまま押し切れるかと思っていると、急にテンの身体がかしいで消えた。




 何かを蹴飛ばしたように左足が浮いた。ちょうど鉈を振り下ろそうと踏み込んだ時に足が滑ったのだ。足元に全く注意を払わずここまで持ったのだから、テンの身体能力を褒めるべきか。

 大きな鼻が腹に向かって突き出された。固い土をも容易く掘り返すその鼻は、少々の強化など物ともせず人体を破壊するだろう。

 思い切り頭を反らして足の力を抜いた。背中の筋肉が引き攣って悲鳴を上げる。テンの胸すれすれを危険が通り過ぎた。火傷しそうな温度の泥に背中から落ちたテンの視界の端で影が動いた。


 脇から飛び出したミアイが、指先で弾き出すつぶて用の小さな石を一握り投げ付ける。豆粒大の小石が牙や鼻面で跳ねた。王は反射的に目をつぶってぶるぶると顔を振っていた。────テンの真上で。

 曲げた膝を胸に引き付けた。手首を返して両手を肩の上に付くと、腰も浮かせて身体を精一杯小さく丸めた。縮めた身体を鋭い呼気と共に一直線に真上に伸ばす!


 無防備な顎をテンの踵が捉えた。上下の顎が強く打ち合わさり、シシ王の首が不自然に上を向いた。脳への衝撃がシシ王の平衡感覚を狂わせ、かたわらの人間たちを睨み付ける視線もどこか焦点がずれていた。口から赤いモノの混じった唾液を垂らしながら、それでも倒れず踏み止まっているのは生き抜こうという本能だった。


 渾身の蹴りを見舞うと伸び切った身体を後ろへ押し出した。綺麗な弧を描いて足先から着地した。蛙のような姿勢でシシ王を見上げる。

 熱い泥のおかげで頭の冷えたテンに束の間の迷いが生じた。両手で身体を支えるために鉈を放してしまったのだ。泥に沈んだ武器を拾いに行くか否かの瞬き一つの迷い。揺らぐ王と同じに手足を付いた彼の前で一本の鉈が泥に突き立つ。テンが徒手なのを見て取ったミアイが迷わず己の鉈を投げたのだ。


 王までの距離は大股で三歩。鉈はテンとシシ王のほぼ中央にあった。テンは泥の中から飛び出した。

 一歩目────迷わず鉈に手を伸ばした。

 二歩目────泥まみれの両手でしっかりと握って引き抜いた。

 三歩目────自身の物より軽く短い刀身を補うために、いつもより深く踏み込んで左下から力の限り鉈を振り上げた。

 骨の砕ける感触、続いて上がる野太い悲鳴。喉に近い下顎から右頬までが大きくぜていた。テンの二度目の渾身が再びシシ王の脳を揺さぶる。激痛と混乱で巨体は痙攣し震えていた。

 その瞬間ときを逃さずヤスの声が響いた。王の身体が大きく二度揺れ、先よりも甲高い悲鳴が上がる。




「カク、続け!!」

 鉈を構えて走り出すヤスの号令で身を潜めていたカクも飛び出した。テンにはミアイが控えていたように、ヤスにはカクが付き従っていた。

 力強く踏み切ったヤスは、先に与えた横方向の傷に跨る角度で切り下ろす。刃が当たる瞬間に身体ごとぶつけて深くえぐった。肩から泥に突っ込むが勢いには逆らわず背中で泥の上を滑る。自身を傷付けないよう鉈の柄を腿に強く押し付けた。

 度重なる打撃で薄くなった白い脂肪は、その膜の下に赤い筋肉が透けて見える。カクの鉈が狙い違わずそこを叩く!

 確実を期した二撃目にして遂に紅い血飛沫が飛んだ。


 しかし、それでもまだ『王』は倒れなかった。怯えた家畜のような鳴き声とともに頭を振りたくりたたらを踏んでいる。その度に顎と腿の傷から血が噴き出した。彼らは恐慌を来した王から即座に飛び退いた。

 庇ってはいるが王の左後脚はまだ動いていた。ここまでやっても筋繊維を断ち切れなかったのか。ヤスは口の中の泥を唾と共に吐き捨てた。後脚はともかくテンが砕いた顎は深手だ。あの傷で〈咆哮〉が使えるとも思えないが、手負いの獣の怖さは骨身に染みて分かっているつもりだった。



―― ◇ ――



 痛みと混乱、シシ王はその二つを撒き散らしている。正に「荒れ狂う」という表現がぴったりだった。強い思念に晒されてタカの頭痛も再発しつつあった。固く閉ざした心に突き刺さるそれらは、どんなに強く耳に手を押し当てても、耳元の大声が聞こえてしまうのに似ていた。

 姿を晒した兄に対して、可能な限り明確な意思を排除した微かな思念を漂わせた。例え王に感知されても────今の状態では聞こえはしないと思うが────こちらの位置や意図を悟られない希薄で細い気配。

 生まれた時から一緒だった兄ならきっと分かってくれるはず。タカは兄弟の絆に賭けた。




 いつものような具体的なやり取りと違い、肩をつついて相手を振り向かせる程度の軽い接触だった。王に目を据えていたカクが顔を上げる。触れてきた思念の方向を探ると、奥まった中段の枝に弟の姿を見付けた。

 幹の陰から身体を半分出してソマイを持った手を振っている。わざわざ位置を教えたのは考えがあるのだろう。そう考えたカクが大きく頷くと、もう一度腕を振った弟の存在感が薄くなった。

 気配を絶っても『居る』場所も、何か事を起こそうとしているのも分かっている。たったそれだけの事がこれほど心強いとは思っていなかった。


 口の端を上げて笑みを作る。僅かばかりの余裕を形にして己を鼓舞したのだ。端正な容貌の彼がそういう表情をすると、向けられた相手が見下されたような気分になる皮肉な笑い方である。

 ふと、幼い頃に口癖だった台詞が浮かんだ。身体は大きくても気弱で泣き虫だった年子の弟。同じ年頃の遊び友達にからわかれて泣き出すと、自分と弟の名誉のために何度も喧嘩をした。

────兄ちゃんに任せな。必ずあいつをやっつけてやるからな!

 いつも言っていた懐かしい言葉を自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。



―― ◇ ――



 時を置かず畳み掛けるか、出血させて弱らせるか。テンに新たな迷いが生じた。決め兼ねて暫し茫と立ち尽くす。

 しかし、『王』が落ち着きを取り戻すまでの時間は短かく、呼吸にして三つ四つほどだった。鳴き声が収まるにつれ、テンを睨め付ける落ち窪んだ目の光が異様に強まった。

 巨躯が揺らめく陽炎に包まれた。そして、揺らめきに混じる赤い筋が徐々に多くなり太さも増す。〈咆哮〉の時とは違う強烈な威圧感と闘気が若者たちの身をすくませた。

 目に見えるほど強い〈恵み〉の力を使うには多大な体力を消費する。負傷した身体で長く耐えられる訳が無いのだ。巨体を維持するには大量の食料と、それを提供する広く豊かな縄張りが必要である。足の傷は行動範囲を狭め、顎を砕かれて食餌もままならない。深手を負ったシシ王の生命の灯火が残り少ないのは誰の目にも明らかだった。


 燃え盛る炎のような闘気の鎧を纏い、血走るまなこも火を噴いているようだ。後ろに控えるミアイに一瞥もくれず、テン一人を敵と定めたのがありありと感じられた。

 王がテンに向かって走り出した。虚をつかれたテンは避けるのがやっとだ。目標を通り過ぎた王は前脚を軸に急旋回した。速度を維持して再びテンに迫る。鉈で牙を打ったテンはその反動で跳び退いた。シシ王は泥を上手く使ってまたも方向を変えた。

 直進して来る相手を避けるには後方より横移動の方が楽である。テンに向かって巨大なイノシシが直線的に駆け抜け、避けられると身を翻してまた駆け抜ける。鬼ごっこのような動きが、沼田場のある空き地から王を逃さずに済んでいた。王とテンを中心に皆が目まぐるしく位置を変える。




 聖地を出て麓の村近くへ降りて来る雄イノシシは皆『はぐれ』だ。親離れしたばかりの若い個体か、それまでの縄張りを別の雄に追い出されたものだけ。目の前にいる王も新たな王に縄張りを奪われて敗走して来たのだろう。

 しかし二度目の敗北を好しとせず、最後まで立ち向かおうとしている。若く力の強いものが先達を追い落とす世代交代が自然のことわりなら、本能に従って生き残ろうとするのもまた自然である。


 このまま避け続けていれば王は遠からず力尽きる。しかし、それでは『聖地の王』が余りにも憐れではないか!

 最後まで戦う事を選んだ王に対する礼儀として、自らも『狩り人』の力を示して倒したかった。答えを探す思考の出口に焦りが覆いを掛けてしまったのだろうか。堂々巡りでテンの考えはまとまらなかった。

 狩り人の誇りは皆にもある。森へ誘い出して時間稼ぎをすれば弱らせる事が出来るのに、敢えてそうしないかしらの意図を察するのは容易だった。

 傷口からは血と共に王の命もこぼれて行く。テンの言葉を待つ組衆の焦燥感も募って行った。

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