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銀の月 改稿版  作者: 紅月 実
第二話  雨
10/25

雨(五)

 地面はあちこちぬかるんでいた。夜明けまでに雨は降り止んでいたが、まだじっとりと空気は湿っている。今日は快晴になるはずだ。そして酷く蒸し暑い日になるだろう。

 たっぷり降った雨のおかげで森の緑が活気付いていた。シシ王に掘り荒らされた場所にも若芽が芽吹き、剥き出しだった地面を覆っていた。この分なら地下の根茎もまた伸び始めているに違いない。


 ドミネラは湿り気を好む植物なのでこの二日で一気に成長し、一旦食べ尽くされた所も再生して新たな群生地になっているかもしれない。ムルシェリはドミネラほど成長は早くないが、念の為確認をした方が良いとミアイは提案した。湖岸を含めた縄張り北西で嗜好に合いそうな植物の生えている場所と、縄張りを示す傷が増えていないかを範囲を広げて調べ直した。


 数刻後、再び『まな板』の近くに集まった。樹皮の目印マーキングは増えていなかったので、縄張りの拡大よりも雨で洗い流された臭いを付け直すのを優先したようだ。薬草の方はドミネラの新たな群生地が見付かっただけだった。

 注目すべきは大きなぬかるみが数ヶ所出来ていた事だ。殆どはすぐに干上がってしまうだろうが、泥浴に使えそうな深さと広さの場所が一つあったのだ。そこを沼田場ぬたばに決めてくれれば王の姿を捉える希望が持てる。

 見張る場所と回る順番を決め直した。今度はカクにヤスとシムが、タカにテンとミアイが付く事となった。連絡の要となる二人を別にして組分けはくじで決めたというのに、カクは弟の運の悪さに苦笑を洩らした。



―― ◇ ――



 テンとタカ、ミアイの三人は、沼田場になりそうなぬかるみへ向かっていた。タカを中心に左右に距離を取ったテンとミアイも周囲を警戒し、何かあればすぐに確かめた。

 そうやって少しずつ移動しているうちにミアイは微かな違和感を覚えた。立ち止まって『それ』を感じた辺りをじっと見詰める。タカもテンもその場に留まってミアイの様子を伺っていた。

 真っ直ぐな幹の針葉樹の根元。太いテルソーバの間には茨の藪があるだけだ。どんなにその藪を眺めていても何がおかしいのかが分からない。茨の丈夫な棘は分厚い毛皮を持った王でも鬱陶しいだろうし、隙間だらけで隠れられる訳でもない。それなのに何故かその藪が気になって仕方ないのだ。


 動こうとしないミアイを心配したタカが同じ枝に跳んだ。肩に手を掛けてもミアイは一点を見据えたままだったが、理解している証拠に手を伸ばしてタカの服の裾を掴んだ。

「ね……、あの辺りが変だと思うんだけど、どこがおかしいのが分からないの」

 囁いて指を差す。一度でも目を逸らしたら藪が消え失せてしまうような不安に駆られていた。ミアイの示す所へ顔を向けたタカも目を細めて探る。言われた通りにしてはみたもののすぐに首を傾げた。


「……おれにはどこがおかしいのか分からん。あの岩の何が気になるんだ?」

「? 違うわ、岩じゃなくて茨の藪の周りよ。太くて硬い棘の付いた茨の藪があるでしょう。何かおかしいと思うの」

「茨なんてこの辺りに生えてないだろう……?」

「でもあそこには岩なんて……。もしかしてタカには茨が見えないの?」

 唐突にミアイは違和感の正体に思い当たった。おおらかで口下手なだけで、タカも決して愚かではない。すぐにミアイと同じ事に気付いた。


 身振りで呼ばれると、ずっと二人を気にしていたテンもすぐにやって来た。ミアイのいる枝に三人は乗れないので、タカが枝を移って空けた場所に音も無くテンが立つ。ミアイの表情は確信に満ちていた。タカに示したのと同じ場所を指差すと含みのある口調で問う。

「…………あそこにある『あれ』は、あなたには何に見える?」

うるしの若木が四、五本まとまって生えているが……。違うのか」

 期待に満ちたテンが問い返す。声こそ潜めているものの、応じるミアイの口調は楽しげである。

「わたしには太い棘を持った茨の藪に見えるけど、タカはあそこには岩があると言ったわ。でも、あそこには藪も漆も岩も無かったはずなの。じゃあ、今あそこに居るのは何なのかしらね」

 〈絆〉など無くともミアイの考えはテンに伝わった。


 『獣王』は人の心に作用する能力を持っていたのだ。自らの存在を歪め、他愛なくありふれたモノになりすまして森に溶け込む能力を。きっと皆が心にある近付きたくない存在ものに見せる能力なのだろう。

 野生の獣なら気配を絶つ術くらい身に付いているだろうが、岩のような無生物にまで見えてしまうとは心底驚いた。僅かな気配も逃さぬよう探索する狩り人の感覚まで出し抜いたのだ。それとも逆に、祝福を強く受けた者ほど騙されやすいのだろうか。

 今までも能力ちからを使って何かに化けていたのだろう。隠れている事に気付かず何度傍らを通り過ぎていたのか知れない。胸をぎった悔しさは高揚感にかき消された。テンは逸る気持ちを無理に抑えて振り返った。

「合流しろとカクに伝えてくれ」




 タカの瞳が虚ろになった。兄へ心話を送る事に集中したのだ。絆で会話しているのだと知らなければ呆けているようにしか見えない姿だった。

 その時何かが動いた。大気が揺らいだような不思議な感覚だった。藪であり岩であり漆であるものに視線を留めていたミアイが息を呑む。

 四本牙の巨大なイノシシがそこに居た。降って湧いたように現れたそれは、他の何物でも無い圧倒的な存在感だった。出現と同時に聖地の王から敵意と怒りが発せられた。突如、苦痛の声を上げたタカの大きな身体が反り返る。


 急に時間の流れが遅くなった。額を弾かれたように仰け反った格好のタカがゆっくりと後ろに倒れて行く。このまま落ちれば地面に叩き付けられるか、途中の枝に当たるか、いずれにしろ無事では済まない。凍った時間の呪縛をテンの叫びが破った。

「タカ!!」


 考える前にタカの身体は反射的に動いていた。右の爪先を枝に掛け、それを支えに傾いた上体を強引に起こす。だが、手を伸ばしても掴まるべき物は無い。咄嗟に跳んだミアイがその手を掴み、上体を捻って元居た枝へ重い背中を押し戻す。

 彼女自身もタカの背後に飛び出しているが、空中でくるりと一回転して危なげなく下の枝に降りた。苦しそうにうずくまるタカと彼を支えるテンを見上げた。

「ミアイ! 『奴』を追え!!」

 テンの叫びに目をやれば、果たして王は逃走していた。重い足音が遠ざかる。それでもタカが気になるのは医療に携わる者のさがか。躊躇ためらうミアイをテンが急かせた。

「お前の方が足が速い、俺たちもすぐに後を追う! 行け!!」


 組衆を一人欠いても王を狩れるだろうか? 狩り組の頭としての責任と、仲間の身を案じる気持ちがどっとテンにし掛かる。

「どうした、大丈夫か。何が起きた!?」

「『あいつ』……、〈絆〉に割り込んできやがった。奴には…………、『王』には心話が聞こえるんだ」

 酷い頭痛に喘ぐタカがようよう言った。遠吠えを使わず連絡していたのがかえって裏目に出ていたのか。タカとカクの絆は筒抜けだったのだ。

「人の頭の中で大声で喚きやがって………」




 心話は厳密には人の言葉のやりとりではない。心に浮かぶ感情と脳裏で思い描く情景で意思の疎通を図る方法ものである。東ガラットにも〈自然の恵み〉が顕現けんげんしたような稀有な存在が居る。聖地の王は巫女並みに相手の心を感じ取れるのだ。

 心話は送り手と受け手の双方が恵みを受けていないと伝わり難いが、この兄弟のように絆が際立っている者の〈声〉ならさぞやよく聞こえた事だろう。


 細く高い遠吠えが風に運ばれて来る。心話の使えない者にとっては数少ない連絡手段だ。しかし、その声には迷いがある。王に心話が聞こえる事をミアイは知らないが、こうなっては遠吠えすら安心できない。ミアイが振り切られる心配は無いものの、一人では後を付いて行くだけしか出来ず焦っているのだ。

 テンの質問に頭を振ったタカは、額に手を当てて身体を強張らせていた。顔色も悪く脂汗が浮いていて、治療師でなくともすぐに動ける状態ではないと判る。出来るだけ早く追い付けと言い置いたテンはミアイを追った。




 二度目のミアイの遠吠えを頼りに全員が集まった。王は大きく弧を描くように走り続ける。長く走らせて疲れさせたいが、隣の狩り場へ逃げられでもしたら元も子も無い。まだ自分のものだと主張した縄張りの範囲からは出ていない。

 そして、タカの具合も思わしくなかった。カクを庇ったために痛手が大きかったのだ。頭の中に鋭いきりを差し込まれるような痛みを堪え、普段は無意識にしている些細な行動にすら細心の注意を払っていた。

 テンが唇を噛んで眉根を寄せた。進路を変えたシシ王は、行って欲しくない方向へと進んでいる。ちらりとヤスを見るとやはり険しい表情だ。シシ王は次第に速度を緩め、終に歩みを止めた。


 そこは土を掘り返され、ごっそりと薬草や根菜を喰い散らかされていた。細い若木も踏み倒されている。降り続いた雨で出来た大きな水溜りが、沼田場に最適だと目星を付けた場所だ。

 堂々と臆することなく『王』は即席の沼の中央に身を伏せていた。追われているのを知っていて、こちらを引きずり回していたのかと勘繰ってしまう。シシ王は自分で決めた縄張りをほぼ半周したのだ。

 それにここは足場が悪過ぎる。皆の心に浮かぶ『嫌な場所』を選んだに違いないとテンは確信した。


 他にどんな能力があるのかと考えを巡らせる。肉体的な能力も際立っていて、あの大きさと体重で踏まれたら手足は容易く砕け内臓は潰される。口から伸びた巨大な牙も恐ろしい武器だった。突き刺されればどうなるかは考えるまでも無いが、殴られても無事では済むまい。

 王を見付けたらどう狩りを進めるかは飽きるほど考えた。行動を予測し、場面ごとの対策も相談した。沼田場に着くまでにも考えてはいたが、状況も条件も最悪に近かった。


 距離を置いて樹上から見下ろす。シシ王は身体に泥を擦り付けている。寛いでいるように見えるが、発せられる威圧感に心身が萎縮してしまいそうだった。

「どうするよ、テン」

 習慣通りにヤスが頭に問うた。組衆はそれぞれの能力や役割を心得えていて、状況判断からの結論もほぼ同じだ。後は組頭が決定して指示を出すだけだった。

「『囮』で注意を反らしておいて『止め』が急所を狙う。……しかないだろうな」

 脚や牙にロープを掛けて倒す事も考えはしたが、実物を目にして無理だと諦めた。隙をつけたとしても六人では力負けするのが明らかだ。相手の能力を全て推し量る事は出来ない。こうなったら狩り人の誇りを掛けて真っ向から挑むしかない。

「シムとミアイは前へ出て注意を引いてくれ、俺とヤスが奴に近付いて傷を負わせる。カクは様子を見ながら囮と止めの補助をしろ。それと……、タカは樹上からの援護だ」


「そんな……、もう平気だ。だからおれも…………」

 まだタカの顔色は悪く平気には見えない。ぬかるんだ足場での狩りなどさせられるはずがなかった。

「だめだ、お前は絶対に枝から降りるな。気配を消して樹上に潜むんだ。奴の足止めをして目を潰せ」

 きっぱりと言い切るテンは自分の腰のポーチから出した物をタカに渡した。それはソマイだった。三個の石を革紐で繋げた捕獲具で、野鳥や小動物相手に使っていた。

 おもりの石から中央の結び目までが同じ長さの三つ又になるように作ってある。紐を持って回転させ勢いが付いたところで放つのだ。錘が命中すればそれだけでも打撃を与えられるが、投げ付けると空中で広がり、当たったものに紐が絡み付いて自由を奪う。


「弓もソマイもお前が一番上手い、それを使って俺たちを助けてくれ。……頼む」

 狩りに使う道具は狩り人にとって手足も同然だ。それを使わせるのは相手を心から信頼しているからである。体調が万全でも樹上からの支援を任されただろう事は、本当はタカも分かっていた。

 預かったソマイを帯に挟み、背負っていた小弓に弦を張った。額に汗止めの革紐を巻くとタカの顔付きが変わる。

 そして、六人の纏う雰囲気も一変した。緊張した空気はぴんと張り詰めた一本の紐縄ロープのようだった。その紐縄は太さの違う六本の糸が撚り合わさり、時には強く時には柔軟な動きで獲物を絡め取るのだ。


「獣王狩りを始める!」

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