とんでもないことされた
これほどまでに心安らかに、小笠原さんを見つめたことがあっただろうか。
否、無い。
「お、がさわら、さん……」
まるで明かりにたかる羽虫の如く、部屋の照明だけじゃない、それはそれは神々しく光っている小笠原さんを求めてふらりと体が動く。足より先に手、手より先に指先。
人差し指の先が、心なしか暖かい眼差しの小笠原さんに届く。
――前に、手首を握られ、腰ごとぐいと引き寄せられる。
肺の空気が強く押し出され、ため息が唇から漏れた。必然的に上を向く形になった僕のおでこは、小笠原さんの頬と触れあっていた。
「真央」
「小笠原、さん……」
何ですか、コレは?
さらに強い力で腰をぎゅっと抱かれて、現実に引き戻された。うつろに天井を見つめていた僕のまなこは、信じられなさで充血するほどみなぎってきた。
なんで、急に抱き合ってんの?
すごい自然な展開でビックリしましたよ僕。
あの底冷えするような睨みですっかり肝っ玉が縮み上がってしまい、見慣れた小笠原さんがなんだかとても安心した。根っからの小心者ゆえ、未知の恐怖に遭遇して、少しでも身近な人間に暖かみを求めたかったらしい。
それはそれとして、すんなり受け入れちゃう小笠原さんもどうなの? すいません、あの、そろそろ首の後ろも、引っ張られたままの手首も、浮きかけの足も痛いんですがね。
「……は」
と、思っていたら、あっけなく手放された。バカにするような嘲笑付きで。
それはもう、柔らかく手放すでも突き放すでもなく、本当に興味を失ったみたいにボトンと落とされた。
全体重を預けていた僕は、そのまま重力に従って前屈みに倒れ伏すことになった。
「な、なにふんでふか」
手で支える暇もなく、そのまま顔面着地を果たしたため、口から漏れる恨み言は畳に吸収されてくぐもって情けない。
「無理だ、やっぱりおまえには欲情しねえ」
……そんで、言うに事欠いて、それ。
追い打ちですか、羽虫というよりウジ虫の如くあなた様の前にひれふすこの僕に向かって、そのセリフ。
別にさあ、欲情されたらそれはそれで嫌すぎるんだけど!
思い出すのは、さっきの上半身裸の男だ。その人にも、なんだかすっごい不本意なことを言われたような気がするし。
バカにされたというか?
顔はともかく体は関係ないだろ。僕だって男である、プライドを持って体には自信を持ちたいお年頃なのだ。
「さっきの、誰なんですか」
顔は横にずらしたものの、未だ畳にウジ虫でいる僕の口からすねたような声が出た。
「おまえの知らねえヤツだ」
「知らないから教えてくださいって言ってるんですけど。その、なんか、いかがわしそうな、人だし……」
「ああ? まあ、あいつは正真正銘の変態だからな。……つーか、おまえもいつまでそうやってんだ。目障り」
長いおみ足で蹴られて、ごろんと仰向けになる。
さっきまでの強い抱擁がウソのようなぞんざいな扱いだなコレ。本当にさっきのアレは僕に欲情するかどうか確かめてただけだったらしい。そんな方法で普通確かめるかと言いたい。むしろ確かめる意味を聞きたい。
「広い部屋ですね……」
仰向けになったことをいいことに、ごろごろしながら部屋を見回してみる。十畳以上はありそうな部屋だが、桐箪笥、文机、座椅子、テレビくらいしかない。
殺風景だな……ものがないのは良いけれど、まるで生活感もなければ、癒しもない。せめてもっとこう、花とか飾ればいいのに。
「ここが、小笠原さんの部屋ですか? いっぱい同じような部屋があったから、もう二度と来れそうにないです」
「つーかおまえは何しにやってきたんだ。宴会は? 終わったのかよ」
「まだやってましたけどね。僕、もう帰るところです。明日のことも関係ないし、いつまでもここにいたってしょうがないし」
「あー、帰れ帰れ」
ごろごろする僕に背中を向けて座る小笠原さん。その向かいに結構大きめの卓上薄型テレビがある。こう、古風な家にすんでいる割に、近代的な物が多い。
それを着流し姿で、開け放った庭の風情を感じながら見るなんて、結構雅だよなあ。
……美しいよなあ。
小笠原さんの均整の取れた体に、のぞくうなじ、開けた首もとの鎖骨が、男らしさの中に妖艶な色香をもたせている。庭では、池の水面にゆらゆらゆれる幻想的な丸い月。
絵にならない方がおかしい。
魂を抜かれたように、ぼーっとこの一つの情景を見つめていると、テレビの画面が急に明るくなった。
そんで、流れ出した映像に、のぼせていた気持ちが一気に醒めた。
「先輩っ! いや、嫌です!」
「嫌だは聞かない。おまえに拒否権はねえんだよ。いいから大人しくしろよ、たっぷりかわいがってやるからよ」
「いや、いやーっ」
……嫌なのはこっちなんですけどおお!
ちょっと、テレビの中のそこのお二人! 今は空気を読んでいただきたい! だから急に絡み合うな! お願いだから浸っていた僕の時間を返してくれ!
てゆーか、それを何の疑いもなく流し始めた小笠原さん!?
「きゃーっ! 何観てんですかっ!」
リモコンを操作しているらしい小笠原さんの手に飛びつく。あっさり避けられた僕は、またしても小笠原さんの目の前で前のめりに転ぶハメになる。さっきよりテレビが近くなって、二人の盛り上がりが直接耳に飛び込んできた。
憤死どころか恥死する。
「何って、アダルトビデオだろ? 最近はこういうのも流行っているらしいからな」
「だから何で観てるんですってば! こういうのは一人で見てくださいよ! ていうか何で今!? ていうかなんで男同士ー!?」
「さっきのは駄目だったからな……なあ、次はどのシチュエーション試すか?」
「た、た、た、試すって! もしかしてさっきの聞こえてきた声も、僕にしたことも……!」
畳でじたばた暴れる僕の上に、のっそりと小笠原さんが近づいてくる。テレビの中と同じ、四つん這いの姿勢で囲われて、僕に逃げ場はなかった。真後ろから聞こえてくる恥ずかしい声がさらに僕を追い込んでいく。
「なるほどな、抵抗されると征服してやりたくなる。おまえ、こういうの得意そうだな」
「得意も何もねえよコラ! 来んなバカッ……すいませんどいてくださいほんとおねがいします」
「生意気なおまえには」
「うひっ」
「ここをこうして……」
「やめてったら、先輩っ」
「へえ? やめて欲しいの?」
「ぎゃああひいい……って紛らわしいーっつーの!」
前から後ろから誰が何だか分からないまま繰り広げられる怪しいプレイに終止符を打ったのは、そんな僕の叫びと共に繰り出された火事場のくそ力だった。
なおも強い力で迫ってくる小笠原さんを、僕は無我夢中で後ろむきに投げ飛ばしていた。
……人って空を飛ぶんだ、と関心している場合じゃなく。
次の瞬間、あたりに強い水しぶきの音がこだました。
「……やば」
いつの間にか外されていたシャツのボタンを留める余裕もなく、恐る恐る見つめた先に、月が浮いた池に浸かる水も滴るいい男。そう、髪を掻き上げる仕草なんて、色っぽくて、なんて……。
なんて……死期を感じる。
「小笠原さん、さて、続きを致しましょうかね」
「……そうだな、今からおまえを天国に送ってやろう」
ぎゃああ、ガチで殺される!