たすけて、助けて。
たすけて。
ナイフを突き付けられている娘の明奈が、震える声でそう言った。
ナイフを突き付けているのは妻の影羽。つまり、明奈の母親だ。
だけど、中身は影羽じゃない。
俺は影羽に向かって叫ぶ。
「ユリハ、やめてくれ!明奈に手を出すな!」
解離性同一性障害。いわゆる多重人格だと、影羽は診断されていた。
交代人格の「ユリハ」は攻撃性が強く、危険な人格だ。
そして今、明奈にナイフを突き付けているのは間違いなくユリハの方だ。影羽はこんなことしない。
「必死ね。かわいそうに」
影羽の顔をしたユリハは、影羽が見せたこともないような邪悪な笑みを浮かべた。
「言っとくけど。こっちに近付いてきたら、この子の喉を切り裂くから。
この距離なら、あなたがこちらに来るよりも、私がこの子の喉を切る方が早いわ」
「なんで…なんでこんなことするんだ?」
「なんで?別に意味はないわ。壊したい。それだけ」
ユリハは楽しそうに笑った。
影羽が出てきてくれれば、と思う。ユリハを抑えて、影羽の人格が出てきてくれたら…!
そんな俺の思いを見透かしたかのように、ユリハは言った。
「影羽なら出てこないわよ」
「え…?」
「あの子の人格は崩壊したの。今は、身体の中で眠ってるわ。とてもじゃないけど、外に出られる状態じゃない」
「…うそ、だ」
「そう思いたいのなら、思えばいいわ。だけどね、本当よ」
ユリハは無表情だった。
「おとうさん、たすけて」
明奈がか細い声でそう言った。俺はユリハに向かって叫ぶ。
「頼む、明奈は解放してくれ!代わりに、俺を殺してくれていいから…!」
「いやよ。それじゃ面白くない」
ユリハは意地の悪い笑みを浮かべた。そして人差し指を立てると
「1分あげる」
「1分…?」
「1分以内にあなたが一歩でもこちらに向かってきたら、私は自殺する。
あなたが1分間動かなかった場合は、この明奈を殺す」
それを聞いた明奈が、静かに泣きだした。それを見てユリハは笑う。
「私が自殺する時は、影羽も道連れね」
俺の頭は何も考えられなくなっていた。
俺が動いても動かなくても、どちらかが、死ぬ。
ユリハは不気味な笑みを浮かべながら言った。
「ねえ、妻と娘、どっちをとりたい?」
助けて。
影羽の声が、聞こえた気がした。