私の婚約者は、攻略対象ではないはずですが?
「アリシア。僕は、彼女を愛している」
目の前にいる婚約者の言葉に、私はしばらく何も言えなかった。
レオン・アシュフォード。
幼い頃から婚約を交わし、いつか夫婦になることを疑ったこともなかった人。
今日は学園の卒業パーティ。
本来なら、レオンの隣にいるのは私のはずだった。
けれど今、彼の隣にいるのは別の少女。
淡い金色の髪に、宝石のような瞳。
神殿が突然現れた彼女を『聖女』と認定してから、すべてが変わってしまった。
「私もレオン様を愛しています」
そう言いながら聖女は涙を浮かべ、私を見る。
「どうか、私たちの仲を許してください!」
「アリシア・ハートウェル。君との婚約を破棄する」
私は、レオンを見つめた。
「……本心ですか?」
「ああ」
迷いのない返事だった。
これは彼の本心ではない。
それでも、胸の痛みが消えるわけではない。
私はドレスに隠している薬瓶を、そっと握りしめた。
そして――覚悟を決める。
◇
いつもと変わらない朝だった。
「できましたよ」
アリシアはカップに緑色の液体を注ぎ、レオンの前に置いた。
レオンはカップを手に取り、香りを確かめる。
「うーん……今日もすごいな。いや、独特な香りだ……」
ここは、薬学を専攻するアリシアのためにレオンが贈ってくれた温室だ。
中には様々な薬草や花が植えられ、アリシアが一つひとつ丁寧に管理している。
温室で薬茶を飲むことが、二人の日課だった。
「しかし、ここも随分と賑やかになったね」
「レオン様のおかげです」
アリシアが必要とする薬草は、レオンがどこからともなく探し出してくる。
珍しい薬草を見つければ、子供のように嬉しそうな顔で彼女へ贈るのだ。
「君の努力の賜物だよ」
アリシアは膨大な薬学の知識を持っていた。
薬草同士を掛け合わせ、既存のものにはない効能を生み出す腕を見込まれ、王宮の研究所からも何度も声をかけられている。
「そういえば、本当に研究所からの誘いを断るのか?」
「はい」
アリシアは迷いなく答えた。
「研究員の代わりはいくらでもいます。でも――」
アリシアは、まっすぐレオンを見た。
「レオン様の妻は、私にしかなれませんから」
「……それは間違いない」
レオンは嬉しそうに笑い、アリシアを抱き寄せた。
「僕の妻になるのは、君だけだ」
二人は顔を見合わせ、笑う。
互いを愛し合う二人にとって、それは当たり前の日常だった。
◇
「聖女が現れた」
ある日、神殿が突然そう発表した。
最初は半信半疑だった人々も、聖女が見せた奇跡のような癒しの力を目の当たりにすると、次第に彼女へ心酔していった。
そして、聖女が学園へ編入してきてから、少しずつ空気が変わり始めた。
「……周りの、君を見る目がおかしくないか?」
「ええ」
アリシアに敵意を向ける生徒が、日に日に増えていった。
アリシア自身は何も変わっていない。
変わったのは、周囲のほうだ。
そして、その変化は聖女が現れてから。
「とにかく、あまり一人にならないように」
「……はい」
学年の違う二人は、常に一緒にいることはできない。
レオンと離れているときは、変わらず接してくれる友人たちと行動する。
そうして、何とか学園生活を送っていた。
――しかし。
それから徐々に、友人たちの様子まで変わり始めた。
そして十日ほど経った、ある朝。
いつもの時間になっても、レオンが温室に姿を見せなかった。
「何かあったのかしら……」
不安を抱えながら、アリシアは一人で登校した。
そこで――見てしまった。
聖女と並んで歩くレオンの姿を。
「……レオン様!」
思わず駆け寄る。
しかし、レオンが向けてきた視線は――驚くほど冷たかった。
「……何だ」
「……!」
アリシアは、その場に立ち尽くした。
普段のレオンとは、まるで別人だった。
(まさか……レオン様まで?)
レオンはアリシアから視線を逸らした。
「用がないなら話しかけるな」
それだけ言うと、レオンは聖女とともに校舎へ入っていった。
アリシアは、その背中を見送ることしかできなかった。
――おかしい。
昨日まで、何も変わらなかったのに。
「聖女様が現れてから……何か変だわ」
思わず口にした瞬間。
周囲にいた生徒たちが、一斉にアリシアを睨みつけた。
「聖女様を侮辱するのか!」
「嫉妬しているだけでしょう!」
「婚約者に捨てられて当然だ!」
アリシアは逃げるように、その場を離れた。
婚約者が突然、別の女性と腕を組んで歩いている。
どう考えても、おかしいのはこちらではない。
それなのに、誰もがアリシアを責める。
――学園は危険だ。
そう判断したアリシアは温室に籠り、一人で原因を探り始めた。
毒ではない。
薬でもない。
ならば――魔法ではないか。
聖女には、不思議な力がある。
もし、人の心に干渉するような魔法を使っているのだとしたら?
心そのものに作用しているのなら、解毒薬のように、その効果を打ち消す方法があるかもしれない。
アリシアは、自分と親しい人ほど、変化が現れるまでに時間がかかったことに目をつけた。
(何か共通点があるはず……)
「あっ……!」
共通点。
それは――アリシアの薬茶だった。
薬茶の味が苦手な友人には、香りを楽しめる香袋を渡していた。
そして、レオンには毎日のように直接飲ませている。
だからこそ、レオンの変化が一番遅かったのではないか。
(摂取量によって、効果の強さが変わる……?)
香りだけでは効果が弱い。
けれど、敵意を抱いている相手から渡された飲み物を、わざわざ口にする者はいない。
それに、即効性も必要だ。
「どうすれば……」
アリシアは、必死に考え続けた。
それから数週間。
「……できた」
小さな瓶を手の中で握りしめる。
完成した薬は、魔法によって引き起こされた精神干渉を、一時的に打ち消すもの。
まだ実験段階ではある。
けれど、これなら――。
「あとは、どうやって使うか……」
アリシアは瓶を見下ろした。
そして、もう一つ気になっていることがある。
――なぜ、自分には聖女の魔法が効かないのか。
長期間、薬茶を飲み続けていたレオンには、はっきりと魔法の効果が現れている。
なのに、アリシアには何の変化もない。
その理由だけが分からなかった。
◇
薬を使う場所を探すため、アリシアは久しぶりに学園へ向かった。
そして校舎裏へ回ったとき――
「……!」
レオンと聖女が向かい合っているのが見えた。
アリシアは咄嗟に木の影へ身を隠す。
(今、使うべき……?)
手の中の薬瓶を握りしめる。
しかし、失敗すれば二度と機会はないかもしれない。
耳を澄ます。
「――私、あなただけの聖女になります」
その言葉を聞いた瞬間だった。
頭の中で、何かが弾けた。
――イベント。
その言葉が、突然頭の中に浮かんだ。
「……え?」
全部、知っている。
私は、この世界を知っている。
前世で遊んでいた乙女ゲーム。
『あなただけの聖女』。
平民として暮らしていた少女が聖女の力に目覚め、王子や騎士たちと恋をするゲーム。
そして――侯爵家の跡取りであるレオン・アシュフォード。
彼は攻略対象ではないが、『ビジュが良すぎるサブキャラ』として人気の高いキャラクターだった。
そして、聖女がどれだけアプローチしても、婚約者以外には絶対になびかない。
その一途さに惹かれるプレイヤーも多かった。
だからこそ、レオンを攻略できないのが惜しいという声も多かったのだ。
「……そういうことだったの」
アリシアは、震える手を握りしめた。
ここは――ゲームの世界。
アリシアとしてゲームの登場人物に転生してしまったのだ。
問題は、なぜ今のレオンが聖女に心を奪われているのか。
答えは一つしかない。
「……転生者」
聖女もまた、前世の記憶を持っている。
おそらく、ゲームの主人公である聖女に、別の誰かの意識が入り込んでいるのだ。
そして――
『あなただけの聖女になります』
これは、主人公が攻略対象へ告白するイベントの台詞。
次のイベントは、一週間後。
学園の卒業パーティ。
聖女が攻略対象とともに、その婚約者を断罪するイベント。
もし今、レオンルートに入っているのなら。
断罪されるのは――アリシアだ。
何も悪いことをしていないのに、婚約破棄を突きつけられる。
ゲームでは、それが「悪役令嬢」の役割。
「……使える」
アリシアは小さく笑った。
卒業パーティ。
大勢の人間が集まる場所。
そして、聖女が最も油断する瞬間。
「待っていて、レオン様」
薬瓶を強く握りしめる。
「必ず、あなたを取り戻します」
◇
そして――卒業パーティの日が来た。
学園の大広間には、王子をはじめとした多くの貴族が集まっている。
その中央に、アリシアは一人で立っていた。
向かいには、レオンと聖女。
「アリシア。僕は、彼女を愛している」
レオンの瞳に、かつての優しさはない。
隣にいる聖女が、涙ながらに訴えた。
「私もレオン様を愛しています。どうか、私たちの仲を許してください!」
そして――
「アリシア・ハートウェル。君との婚約を破棄する」
その瞬間。
聖女が、ほんの少しだけ口元を吊り上げた。
アリシアは、それを見逃さなかった。
「……それは、本心ですか?」
「ああ」
胸が痛む。
それでも、アリシアは笑った。
「レオン様」
「なんだ」
「後で、必ず後悔することになりますよ」
アリシアは懐から小さな瓶を取り出した。
「なっ――」
そして。
床へ叩きつける。
パリンッ!
砕けた瓶から、特殊な薬剤が揮発する。
瞬く間に、広間いっぱいへ広がっていった。
「みなさん――目を覚ましてください!」
突然の異変に、会場は騒然となった。
「毒か!?」
「何が起きている!?」
しかし――
しばらくすると、人々の動きが次々に止まっていく。
「……あれ?」
「私……今まで、何を……?」
「どうして私は、アリシア嬢を……?」
そして、レオンも頭を抱えていた。
「……う……」
アリシアはレオンに駆け寄った。
「レオン様!」
レオンはゆっくりと顔を上げる。
その瞳に――光が戻っていた。
「……アリシア?僕は……」
レオンの顔から血の気が引いていく。
「君に……何てひどいことを」
アリシアは何も言えなかった。
そんな二人を見ていた聖女が、突然叫んだ。
「どうして!?」
会場中の視線が、聖女へ集まる。
「どうして魔法が解けているの!?」
広間が静まり返った。
聖女は震える手を掲げる。
「もう一度……!」
パチンッ!
指を鳴らす。
けれど――何も起こらない。
レオンも周囲の人々も。
誰一人として変わらなかった。
「魔法が効かない……!?」
アリシアは、聖女の前へ歩み出た。
「あなたの心を操る魔法は、私の薬で一時的に打ち消しました」
「あんた……!」
聖女の顔が歪む。
「私はレオンルートが見たいだけなのに!邪魔しないでよ!」
聖女はもう止まらなかった。
「あんたは名前もないモブキャラでしょ!?レオンを独占するなんて許せない!」
聖女がアリシアへ手を向ける。
「消えなさいよ!」
魔力が集まる。
――攻撃魔法。
これを防ぐ手段はアリシアにはない。
「アリシア!」
レオンがアリシアを庇うように、その身を前へ投げ出す。
「なっ……!」
聖女が驚き、一瞬動きを止めた。
その隙を逃さず――
「その者を捕らえよ!」
王子の一声に衛兵たちが一斉に駆け出し、聖女を取り押さえた。
「触らないで!私は聖女よ!私は選ばれた存在なの!」
「人を攻撃するような者を、聖女とは認められない」
「嫌!離して!」
聖女は喚き続けながら、衛兵に連れて行かれていった。
その後ろ姿を見送りながら、アリシアはしばらく動けなかった。
やがて王子がアリシアの前まで歩み寄り――深く頭を下げた。
「……すまなかった」
「そ、そんな……!」
王族に頭を下げられ、アリシアは慌てる。
「この件については、神殿へ正式に抗議する」
「……お願いいたします」
王子は頷き、会場を見渡した。
「卒業パーティは中止とする。詳細については追って伝達する。体調の悪い者はこちらへ」
王子に誘導され、会場にいた人々は困惑しながらも広間を後にしていく。
やがて――
広間には、アリシアとレオンだけが残った。
すべてが終わった。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
「アリシア!」
床に座り込むより先に、レオンが抱き止めてくれた。
「……レオン様」
久しぶりに見る、本当の彼の顔。
それだけで、胸の奥に張り詰めていたものが崩れていった。
「本当に……すまない」
「……」
「僕は、君を傷つけた」
「……はい」
「許してもらえないだろう」
レオンはアリシアから体を離す。
「それでも、僕は君を愛している」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「……私も」
アリシアの頬を、涙が伝う。
「私も、レオン様を愛しています」
レオンを愛しているから。
誰よりも大切だったから。
だから、一人でも戦った。
「アリシア……」
レオンが伸ばす手を途中で止めた。
触れていいのか迷っているのだろう。
そんな彼の手を――アリシアは自分から握った。
レオンは苦しそうに眉を寄せた。
「たとえ正式な手続きをしていないとしても……僕は婚約破棄を口にした」
「……レオン様」
「だから、もう一度やり直したい」
レオンはアリシアの前に跪いた。
「アリシア・ハートウェル嬢」
手を差し出し、まっすぐに彼女を見つめる。
「僕と結婚してほしい」
アリシアの瞳に、涙が浮かんだ。
「……喜んで」
アリシアが差し出された手を取ると、レオンは泣きそうな顔で笑った。
そして、アリシアを強く抱きしめる。
「ありがとう、アリシア」
アリシアも、彼の背中へ腕を回した。
「もう二度と、離さないでくださいね」
「約束する」
しばらく抱きしめ合ったあと。
アリシアは、ふと思い出したように言った。
「薬茶の効能もあげておきましたから安心してくださいね」
「……え?」
レオンの顔が引きつる。
「薬茶の効能……?」
「ええ」
アリシアは笑った。
「前よりも、もっと身体にいいものに」
「……きっと、すごい味……風味がするんだろうな」
「何ですか?」
「いいや、何でもない」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
もう、誰にも邪魔されることのない二人の日常。
それはきっと、これからも続いていく。
――今度こそ、永遠に。
お読みいただきありがとうございます。




