綺麗な君は何処へ
「学力成就の神社知ってるんだけど行かない?」
テストの結果に打ちひしがれる平凡な女子高生・華蓮。そんな彼女を励ますように誘い出したのは、誰もが見惚れる黒髪の美少女であり、親友の楓だった。
放課後の喧騒を抜け、二人が足を踏み入れたのは、地図にも載っていない山の古社。
鳥居をくぐった瞬間、世界は一変する。
朽ち果てていたはずの社殿は鮮やかに蘇り、静寂が五感を蝕んでいく。
違和感は、確信へと変わる。
「友情みくじ」と称して差し出された箱の中、華蓮の指が触れたのは、紙ではない――湿り気を帯びた「人間の眼球」だった。
突如として牙を剥く異界の罠。
隣にいたはずの親友は、見るも無残な“異形”へと姿を変え、歓喜に震えながら呟く。
「美味い……」
「最高だ……」
逃げ場のない無限回廊、肌を這う生暖かい舌、そして腕を貫く鋭い痛み。
信頼していた笑顔の裏側に隠されていたのは、狂気にも似た底なしの食欲だった。
捕食者 "化け物" と 獲物 "祀られたもの"
その境界線が溶け落ちる血溜まりの中で、華蓮はまだ知らない。
怪物が漏らした「じっくり味わわねば」という言葉に隠された、あまりにも残酷で執着に満ちた真意を――。
放課後の教室には、まだ昼の名残のような明るい光が差し込んでいた。西日のオレンジが窓際の机を長く照らし、黒板にはホームルームで書かれた連絡事項がチョークの白で残っている。帰り支度を終えた生徒たちのざわめきは徐々に遠のき、教室には数人の笑い声と椅子を引く音だけが残っていた。
その中で、ひとつの机に突っ伏している少女がいた。
「あーーーー……テストやばい……」
華蓮は机に頬を押しつけたまま、魂が抜けたような声を出す。頬に触れる木の机はほんのり冷たく、額の上で焦げ茶色の髪がさらりと広がっている。根元の黒と毛先の茶色が混ざった、いわゆる“プリン状態”だ。
そのつむじを、隣に座っている黒髪の少女、華蓮の友達の楓が人差し指でツン、と突いた。
「そうかな?」
少し口を尖らせながら言う。ツン、ツン、と面白がるようにつむじを突く指は遠慮がない。
「いや、英語と古典が平均点プラス10点しかない……」
華蓮は顔を上げず、机に声を押しつけるように続ける。
「これじゃ優等生って胸張って威張れなくなる……」
「髪染めてる時点で優等生って言えるかな?」
楓はくすっと小さく笑いながら、華蓮の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。指が髪の中を通り、少しパサついた毛先が指に絡む。
華蓮はすぐに上体を起こし、背筋をぴんと伸ばした。
「これはオシャレ!セルフで染めた割には上手な焦げ茶カラーでしょ?」
ムフーと胸を張りながらニコニコと得意げに言う華蓮。スマホの画面には美容動画の履歴が並んでいる。
楓は即座に言った。
「論点がズレてる」
その一言に、華蓮は少しムッとした顔をするが、すぐに気を取り直したようにスマホをいじりながら言う。
「楓は黒髪ロングストレートが似合うと思うからそのままにした方がいい!」
楓の髪は背中の半ばまである艶のある黒髪で、まっすぐ綺麗に落ちている。窓からの光が当たると、絹みたいに滑らかに光った。
「そうかな……?」
楓は少し頬を赤くしながら頬杖をつき、スマホの画面を指でスクロールする。
「そうそう」
華蓮は適当に相槌を打ちながら、SNSの通知を確認している。
しばらく沈黙が流れた。
教室の外では、運動部の掛け声が遠くに聞こえる。廊下を走る誰かの足音が一瞬だけ響き、また静かになった。
楓はスマホを見つめたまま、ふと思いついたように言った。
「学力成就の神社知ってるんだけど行かない?」
華蓮は大きく欠伸をする。
「私スピリチュアル信じない派だからキョーミなし」
楓は肩をすくめる。
「おみくじもあるよ。恋みくじとか友情みくじ」
「友情みくじ?初めて聞いた」
「ちょっと興味あるかも」
楓の口元が、ほんの少しだけ上がった。
「決まり。学校から近いから行こ」
華蓮はスクールバッグを肩にかけ、机の横からひょいと持ち上げる。
「一緒に恋みくじと友情みくじを引こうよ!楓のタイプとか知りたい!」
楽しそうに言いながら教室のドアへ向かう華蓮。
楓もゆっくり立ち上がり、その後ろを歩き出した。
廊下には夕方の光が伸び、床に長い影が落ちている。窓の外では部活帰りの生徒たちが笑いながら校門へ向かっていた。
その横を並んで歩きながら、華蓮はふと気づく。
「楓なんでニコニコしてんの?」
楓の表情は、さっきからずっとどこか楽しそうだった。
廊下の光の中で、楓は少し目を細める。
「いや、楽しみだなぁって思ってさ」
声はいつも通り柔らかい。
「ふーん、そっか」
華蓮は深く考えず受け流した。
スクールバッグを揺らしながら歩き続ける。
楓はその横で、静かに笑みを浮かべていた。
――これから華蓮にすることを、まだ何も知らないまま。
この街は、正直に言って田舎だ。
駅前に一応コンビニはあるが、外壁の白はところどころ灰色にくすみ、看板のライトも片方が切れている。商店街には昔ながらの駄菓子屋があり、ガラスケースの中には色あせた包装のお菓子がぎっしり並んでいる。量り売りの肉屋もまだ残っていて、軒先には赤い提灯のようなランプがぶら下がり、夕方になると肉を焼く匂いが通りに漂う。
時間が、少しだけ取り残されたような町だった。
そんな町の外れ、山のふもとにある森に一歩足を踏み入れると、空気が変わる。
さっきまで肌を撫でていたぬるい夕方の風が、嘘みたいに冷たくなる。木々が空を覆い、光が途端に弱くなるからだ。湿った土の匂いと、落ち葉を踏むかさりという音だけが静かに響く。
「はぁ……はぁ……キッッツい……」
石段の途中で、華蓮が立ち止まった。
肩で息をしながら、太ももに手をつく。胸が上下し、呼吸のたびに前髪がふわりと揺れる。
華蓮は決して華奢な体型ではない。どちらかといえば柔らかく丸みのある体つきで、運動部のような持久力があるわけでもない。学校の階段なら平気でも、山の石段となると話は別だった。
一方、数段上で振り返った楓は息ひとつ乱していない。
細く長い脚、無駄のない体のライン。黒髪のロングストレートが背中で静かに揺れる。森の薄暗さの中に立つ姿は、どこか現実感が薄く、日本神話に出てくる神様みたいに整った美しさがあった。
その楓が、少し呆れたように笑う。
「後ちょっとだから頑張って」
そう言って、すっと手を差し出した。
白く細い手だった。
華蓮はその手を見て、ほんの一瞬だけ「うわ、綺麗な手」と思う。けれどすぐに、息の苦しさがそれどころではなくなる。
「後ちょっとって言ってもうかれこれ20分なんですけど?」
ぜえぜえ言いながら文句を言うと、楓は肩をすくめた。
「ちょっとじゃん。頑張れ頑張れ」
完全にあしらう口調だ。
「くっ……運動神経いいやつはこれだから……」
華蓮はぶつぶつ言いながら、差し出された手を掴んだ。引き上げてもらいながら、また一段、また一段と石段を上がっていく。
森は静かだった。
風が木々の葉を揺らす音と、二人の足音だけが響く。
そして、最後の石段を登りきった時。
視界がふっと開けた。
そこには、神社があった。
「……え」
華蓮は思わず立ち止まる。
拝殿の柱は黒く変色し、木はところどころ腐り、表面がぼろぼろと剥がれている。屋根の端は少し歪み、今にも崩れそうに見える。
鳥居も同じだった。赤い塗装はほとんど剥げ、むき出しの木が灰色に風化している。
「こんな神社あったんだ……」
思わず呟きながら、華蓮は鳥居の前に立つ。
誰もいない。
風だけが吹いている。
ほんの少しだけ、不思議な感じがした。
それでも深く考えず、華蓮は鳥居をくぐる。
その瞬間。
ざあっ、と風が吹き抜けた。
落ち葉が舞い上がり、髪を乱す。
「くっ……!」
華蓮は反射的に目を閉じた。冷たい風が頬を叩き、スカートの裾が大きく揺れる。
数秒。
風が止んだ。
そっと目を開く。
そして、息を呑んだ。
「……え!?」
目の前の景色が、変わっていた。
さっきまでの朽ちた神社ではない。
鳥居は鮮やかな朱色で、木肌は滑らかに磨かれている。拝殿も新しく、美しい木目が夕方の光を受けて柔らかく輝いていた。
まるで、時間が巻き戻ったみたいだった。
「なにこれ……」
華蓮はきょろきょろと辺りを見回す。
けれど楓は、まるで最初からこうだったかのように歩き出していた。
「先にお願いごとしてからおみくじ引こう」
振り返りもせず言う。
「え、ちょ……楓!」
華蓮は慌てて後を追う。胸の奥が少しざわつく。さっきの光景、本当に見間違いだったのだろうか。
拝殿の前に立つ。
賽銭箱の前。
華蓮はポケットから小銭を取り出し、ちゃりん、と入れた。
そして深呼吸する。
二礼。
二拍手。
ぱん、ぱん、と手を打つ音が静かな境内に響く。
最後に目を閉じ、手を合わせた。
(えーっと……)
お願いごとを考える。
最初は「テストの点が上がりますように」とか、「成績が落ちませんように」とか思ったけれど、なんだか急に恥ずかしくなった。
少し考えてから、心の中でそっと願う。
(健康に、そこそこ友達と楽しく過ごせますように)
本当はそれで十分だった。
特別すごい未来じゃなくていい。普通に笑って、普通に学校に行って、普通に友達と話していられれば。
それでいい。
華蓮はゆっくり目を開けた。
その瞬間。
横を見る。
楓はまだ手を合わせていた。
……いや。
よく見ると、ほんの一瞬だけ、華蓮を横目で見ていた気がした。
次の瞬間、楓はすぐ目を閉じ、手を合わせる。
――最初から祈っていなかった。
華蓮が目を開けた直後、楓も同じタイミングで目を開いた。
あまりにも自然で、まるで偶然みたいだった。
「華蓮はなんてお願いしたの?」
楓が穏やかに聞く。
華蓮は「うーん」と唸る。
さっき願ったことをそのまま言うのは、なんだか気恥ずかしかった。
少し考えてから、笑って言う。
「優等生であり続けますようにって!」
照れ隠しの嘘だった。
楓は華蓮の顔を見て、ふっと微笑む。
「そっか」
それだけ言った。
けれどその笑みが、なぜかほんの少しだけ――意味ありげに見えた。
境内は、さっきまでと同じように静まり返っていた。
風が木々を揺らす音だけが聞こえる。拝殿の前には賽銭箱があるだけで、よくある神社のようなお守り売り場や社務所らしい建物は見当たらない。
華蓮はきょろきょろと辺りを見渡した。
「……あれ?おみくじどこ?」
屋台のような小さな売り場もない。木箱もない。
さっきまで隣にいた楓に聞こうとして振り向く。
「楓──」
そこで、華蓮は言葉を止めた。
楓がいない。
ほんの数秒前まで隣にいたはずなのに、姿が消えていた。
「……え?」
胸の奥が、ひやりとする。
次の瞬間。
拝殿の扉がきぃ、と静かに開く音がした。
楓だった。
まるで自分の家のような自然さで、拝殿の中へ入っていく。
「ちょ、楓!だめだって!」
華蓮は慌てて声を上げる。
思わず駆け出そうとして、足がもつれた。石の段差につまずき、体勢がぐらりと崩れる。
楓は振り返らない。
止まらない。
そのまま奥へ進みながら言う。
「この中におみくじあるよ」
声はいつもの楓の声なのに、どこか平坦だった。
こちらの様子を気にする気配がない。
「ねぇ!楓!待って!」
華蓮は戸惑いながらも、結局その後を追って拝殿に入った。
中は外よりも暗かった。
古い木の匂いがする。少し湿った、長く閉ざされた場所の匂い。
拝殿の奥には供物が並んでいた。米、果物、酒。どれも綺麗に整えられているのに、なぜか人の気配はまったくない。
楓は供物の棚の横をすり抜け、そのまま奥へ進む。
さらに奥には長い廊下が伸びていた。
「……こんな奥まで入っていいの?」
華蓮は小声で呟く。
廊下の板はつやつやと光り、歩くときしりと小さく音が鳴る。壁の隙間から外が見えた。
そこには水が広がっていた。
池のような水面が一面に広がり、石と苔が静かに沈んでいる。風が吹くと、水面がゆらりと揺れた。
ひやりと冷たい空気が流れ込む。
背筋に冷たいものが走る。
(……なんか、変)
神社って、こんな奥まで入れるものだったっけ。
楓は相変わらず振り返らない。
廊下の先にある部屋へ入っていく。
畳の部屋だった。
中央には神座があり、神様を祀る本殿らしい場所だとすぐにわかる。空気が重い。静かすぎて、耳鳴りがするようだった。
その時。
華蓮は気づく。
楓が、ローファーのまま畳を歩いていることに。
「楓!畳の上では靴脱いで!」
思わず怒った声が出る。
華蓮は楓の手首を掴んだ。
楓がぴたりと止まる。
「ん?……あぁ、ほんとだ」
まるで今初めて気づいたみたいに言う。
ローファーを脱ぎ、ぽん、と脇に置く。
本当に気づいていなかったらしい。
華蓮はその様子を見て、妙な違和感を覚えた。
(……なんか今日の楓、変じゃない?)
いつもの楓ならこんなこと絶対しない。
まるで別人と話しているみたいだった。
胸の奥がざわざわする。
その時、視線が神座に向いた。
そこには、何かが祀られていた。
何か、としか言えない。
形はよく見えないのに、そこにあるだけで空気が変わる。
圧迫感。
威圧感。
それなのに、恐ろしいほど美しい。
息を呑むような神々しさだった。
楓はその前に立つと、横に置かれていた木箱を手に取った。
そして華蓮の前に差し出す。
「これが友情みくじだよ」
箱は古い木で出来ていた。
黒く艶のある木目。ずっしりと重い。
中に何かが詰まっているようだった。
華蓮は箱を見つめる。
「……お金とかってどこに入れんの?」
楓は「あー」と言って少し考える。
まるで想定外の質問みたいに。
「後で神主さんが取りにくると思うよ」
ケロッと答える。
その言い方が、妙に軽かった。
華蓮は胸のざわつきを振り払うように箱へ手を入れた。
(早く引いて、帰ろう)
なんとなく、早くここを出たい。
箱の中に手を入れる。
指先が何かに触れる。
細長いもの。
丸いもの。
そして、柔らかいもの。
(……え?)
指に触れた感触が、紙じゃない。
ぶよ、とした感触。
思わず声が出る。
「うわ!」
おみくじって普通、紙じゃない?
華蓮は戸惑いながらも、その中の一つ──丸い球体を掴んだ。
楓は華蓮の頭上からそれを見ている。
楓は華蓮より二十センチほど背が高い。
だから、顔は見えない。
けれど楓の口元は、ゆっくりと歪んでいた。
不敵に。
まるで最初から全部知っていたみたいに。
「これにする」
華蓮が球体を取り出そうとした、その瞬間。
ゴゴゴゴゴッ
床が揺れた。
地震だった。
供物が棚から落ちる。
果物が転がり、酒瓶が割れる。
襖がガタガタと震え、柱が軋む。
「な、なに!?」
華蓮は立っていられない。
体が大きく揺さぶられ、足を踏ん張れない。
そのまま、どん、と尻もちをついた。
手に握っていた球体が潰れる。
ぐちゃ、と嫌な感触。
揺れが止まる。
静寂。
「くっ……いっつたぁ……」
華蓮は顔をしかめながら尻もちをついたまま呟く。
楓は少し前のめりになっただけで、倒れていなかった。
そして、手を差し伸べる。
「大丈夫?」
その手を取ろうとして──
華蓮は凍りついた。
「……ひっ」
楓の手。
それは、人の手じゃなかった。
異様に大きく、骨張っている。
皮膚はざらつき、爪は長く尖っている。
まるで。
鬼の手
恐る恐る、顔を上げる。
そこにいたのは。
楓じゃなかった。
切れ目のように裂けた顔。
床につくほど長い黒髪。
自動販売機よりも高い身長。
人の形をしているのに、人ではない何か。
それが、こちらを見下ろしていた。
華蓮の呼吸が止まる。
その時。
自分の手に違和感を感じた。
ゆっくり視線を落とす。
手が、真っ赤だった。
血。
べっとりと。
さっき握っていた球体を見た。
転がっている。
ぐちゃりと潰れたそれは。
人間の眼球だった。
息が荒い。
胸が上下し、空気を吸っても吸っても足りない。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓の音が耳の内側で鳴り響く。鼓膜のすぐ裏で太鼓を叩かれているみたいにうるさい。指先まで脈が伝わってくる。
目の前には――
異形
映画で見たゾンビなんて比べものにならない。特殊メイクでもCGでもない。本当に存在してはいけない何かが、すぐそこに立っていた。
楓だったもの。
それが、頭を爪でポリポリと掻きながら呟く。
「あ、やっちゃった」
まるで失敗したみたいな口調だった。
どうやら、この姿を見せるのは想定外だったらしい。
その一瞬の隙を、華蓮は見逃さなかった。
床に手をつき、体を起こす。膝が震えているのも無視して、立ち上がる。
そして――走った。
廊下へ向かって。
背中を見せるのは怖い。追いかけてくるかもしれない。首の後ろに視線が突き刺さる気がする。
それでも止まれない。
振り向けない。
ただ走る。
後ろで足音がすると思った。
でも――しない。
振り返る勇気はないけれど、気配だけでわかる。
あの化け物は追ってきていない。
ただ、そこに立ってこちらを見ているだけ。
むしろ落ち着いているようだった。懐に手を入れて、余裕そうに。
それが余計に恐ろしかった。
華蓮は廊下の先の襖に飛びつく。
「お願い……!」
拝殿に戻れるはず。
さっき通った場所だ。ここを開ければ外に出られる。
勢いよく襖を開ける。
――しかし。
そこにあったのは。
また廊下だった。
「……え?」
頭が追いつかない。
違う。おかしい。
でも考える余裕なんてない。
華蓮はまた走る。
次の襖。
開ける。
廊下。
また襖。
開ける。
廊下。
延々と続く廊下。
「なんで……!」
息が苦しい。肺が焼けるみたいに痛い。足が重い。視界がぐらぐら揺れる。
それでも走る。
走るしかない。
襖を何枚開けたかわからない。
気づけば足がもつれていた。
体力が限界だった。
その場に崩れ落ちる。
「は……っ、は……っ」
畳に手をつく。視界がぼやける。体から変な汗が噴き出してくる。背中が冷たい。
これは――
命の危機だ。
本能がそう叫んでいる。
その時。
背後から、気配。
何かが首に触れた。
冷たい指。
「ギっ……!」
首を掴まれた。
次の瞬間、体が宙に浮いた。
足が床から離れる。
華蓮の体を軽々と持ち上げていたのは、あの化け物だった。
いつの間にか、すぐ後ろにいた。
華蓮の喉が締め上げられる。空気が入らない。手足がばたばたともがく。
そして――
首元に何かが触れた。
舌だった。
汗ばんだ首筋を、生温かい舌がゆっくりなぞる。
気持ち悪い。
吐き気が込み上げる。
でもそれよりも、呼吸ができない苦しさの方が強い。
「……!」
突然、力が抜けた。
化け物が手を離した。
華蓮の体は床に落ちる。
「ごほっ……!ごほっ!」
空気が喉に流れ込む。咳が止まらない。気道が焼けるように痛い。
視界が滲む。
その前で。
化け物が自分の顔を手で覆いながら震えていた。
「美味い……」
低く呟く。
「最高だ……」
「体液でこれまでとは……」
理解する前に、腕を掴まれた。
強い力。
逃げられない。
次の瞬間、腕に鋭い痛みが走る。
叫びが部屋中に響き渡る。
血が流れる。
華蓮の悲鳴が境内の森に響いた。
あまりの叫び声に、木々の葉が揺れ、小さな動物たちが逃げ出していく。
化け物はゆっくり顔を上げた。
口元が赤く染まっている。
そして、にこりと笑った。
「うん、甘くて美味い。」
その笑顔は――
教室で見た楓の笑顔と、どこか似ていた。
華蓮の体が震える。
また力が抜ける。
体が床に落ちる。
次の瞬間、肩を押さえつけられた。
完全に動きを封じられる。
足を持ち上げられる。
そして――激しい痛み。
華蓮の視界が白く弾けた。
声が出ない。
喉が震えるだけ。
世界が遠くなる。
音がぼやける。
意識が沈んでいく。
その時、化け物の声が聞こえた。
「食べ尽くすのはもったいないな……」
低く、悩むような声。
「こんなに美味しいのは初めてだ……」
少しの沈黙。
「……じっくり味わわねば」
その声には、奇妙な葛藤が混ざっていた。
今すぐ食べたい衝動。
でも、長く味わっていたい欲望。
その狭間で揺れているようだった。
華蓮の視界は完全に暗くなる。
音も消えていく。
そして――
華蓮の意識は、そこで途切れた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
小説が苦手な私でございますが、暖かい目で見届けていただけると幸いです。
なれない小説を初めて書いたので誤字脱字等がございましたらご指摘していただけるとありがたいです。




