第三十五話
見慣れた街並みが、どこか色あせて見えた。
朝の雑踏、信号の音、ビルの隙間を抜ける冷たい風――それは確かに、凌空の記憶にある「元の世界」だった。
だが、胸の奥を締め付ける違和感は、人生が遠くに置き去りにされたようだった。
かつて短剣を握り、コードエディットを操って世界を変えた手のひらは、今はただの成人男性の手だった。
スキルも、職業も、仲間たちの声も――すべてが消えていた。
それでも、心の奥には、あの世界で過ごした記憶だけが確かに宿っていた。
アパートの狭い部屋に戻ると、机の上には埃をかぶった本と、家族からの封筒が無造作に置かれていた。
凌空は手紙を手に取り、母の字をじっと見つめた。
「たまには帰って来てね」
その一文が、胸に鈍い痛みを刻んだ。
あの世界で戦い、仲間と過ごした時間は、ここではただの空白にすぎない。
クラリスの声が脳裏に響いた。
「負けないで、リク」
リリィの涙、レオンの笑顔――彼らの顔が、色あせた部屋の壁に重なった。
この世界に、彼らの居場所はない。
それでも、心の奥で確かに息づく記憶だけが、凌空を前に押し出していた。
窓の外では、都会の喧騒が遠く響く。
凌空は埃っぽいパソコンを開き、求人サイトの画面を眺めた。
異世界でコードを書き換えた記憶が蘇った。
あの時、魔王の神枢核を前に、仲間と共に不可能を可能にした。
「クラリスなら、立ち止まるなって言うよな」
彼は画面をスクロールし、システム会社の求人に目を留めた。
指が震えながらも、応募ボタンを押した。
あの時間の空白を埋めるために、今、歩き出す時が来た。
数日後、凌空はシステム会社の面接室に座っていた。
蛍光灯の白い光の下、履歴書をめくる面接官の視線を感じる。
「ブランクが長いようですが……プログラマーとしてやっていけますか?」
グリーンヘイブンでの日々、仲間と汗を流したあの場所が浮かんだ。
仲間と汗を流し、魔王の神枢核を前にコードを書き換えたあの時を思い出した。
「はい。どんな壁も乗り越えられる自信があります。仲間と共に大きなシステムを動かした経験があるので」
彼の声には、静かな確信が宿っていた。
面接官は小さく頷き、微笑んだ。
採用通知を受け、初めての勤務日。
凌空はモニターに向かい、膨大なソースコードを前にキーボードを叩く。
システムの致命的なエラーがチームを悩ませていた。
「このバグ、誰も直せないよ」
同僚の嘆き声に、凌空は目を閉じた。
「諦めなければ、道は開ける」
彼はコードを解析し、チームに告げた。
「ロジックを整理して、役割を分担しよう。俺がコア部分を担当する。他を頼む」
同僚たちは驚きつつも動き出し、凌空の指がキーボードを舞う。
数時間後、システムのエラーが解消され、画面に正しい出力が表示された。
「すげえな、凌空!」
同僚の声に、彼はネックレスを握り、呟いた。
「クラリス、見ててくれたか?」
週末、凌空は実家への道を歩いていた。
母からの手紙を読み返した日から、胸の奥で何かが疼いていた。
都会の喧騒を離れ、懐かしい田園風景が広がる実家の玄関に立つと、言いようのない緊張が込み上げた。
ドアが開き、母の顔が現れる。
「凌空、ずいぶん久しぶりね」
その声に、凌空の胸が締め付けられた。
彼はポケットの中でネックレスを握り、言葉を探した。
「ただいま、お母さん。……本当に、久しぶりだ」
母は少し目を細め、凌空の疲れた顔を見つめた。
「ずいぶん大変だったみたいね。顔、変わったわ」
凌空は小さく笑い、言葉を紡ぐのに少し時間がかかった。
「うん。長い間、遠くにいたんだ。辛いこともたくさんあったけど……いつも背中を押してくれた仲間たちがいた。あの人たちのおかげで、俺、変われたんだ」
母は一瞬、目を丸くしたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「大切な人たち、ね。どんな人たちなの?」
凌空はネックレスを握りしめ、グリーンヘイブンの焚き火の夜を思い出した。
薪の爆ぜる音、クラリスの笑い声、リリィの静かな祈り。
「……話すと長くなるよ。でも、俺が迷わずに戻ってこられたのは、あの人たちのおかげだ」
母は静かに頷き、そっと凌空を抱きしめた。
「おかえり、凌空。こうやって帰ってきてくれるなら、それでいい」
その温もりに、グリーンヘイブンの仲間の顔が重なった。
凌空は目を閉じ、呟いた。
「俺、ちゃんと家族を守るよ。約束する」
その夜、凌空は公園で空を見上げた。
都会の星はかすかだが、グリーンヘイブンの星空が心に浮かぶ。
クラリスの言葉が、風に乗って響く。
「君が教えてくれた希望は、どんな世界でも生き続けるよ」
凌空はノートパソコンを開き、新しいプロジェクトのコードを書き始めた。
画面の光が、彼の指先を照らす。
「スキルじゃなくても、想いがあれば、誰かを救えるんだ」
彼は星空を見上げた。
「レオン、俺、自分の道を進むよ」
風が頬を撫で、遠い世界の笑顔が星に溶けた。
その頃、グリーンヘイブンの花畑では、クラリスがルナや子どもたちに火の蝶の魔法を教えていた。
「集中しなさいよ! もっとイメージして!」
彼女の瞳に、かつての孤独はない。
リリィはエリと花冠を編みながら、ネックレスと同じ青い石を手に呟く。
「リク、元気にしてるかな」
レオンは丘の上で剣を手に、新たな冒険者を導き、空を見上げる。
「リク、お前なら大丈夫だ」
星空の下、風がそよぐ。
リクの残した希望が、そこに息づいていた。




