第三十話
空は深く澄み渡っていた。
リクの傍らには、レオンがいた。
彼の体は淡く光を帯びているが、どこか自然で、誰もその違和感を口にしなかった。
当たり前のように、そこに立っている。
その眼差しは静かで、ただ空を見ていた。
「お前の番だ。この世界の構造を書き換えろ。そして元の世界へ帰るんだ。その権利がある」
少年は頷いた。
その瞳に迷いはなかった。
だがそのとき――
「待って!」
リリィが叫んだ。
潤んだ瞳で少年を見つめる。
「私……嫌だよ。あなたと一緒にいる。この世界でも、あなたとなら……!」
レオンが一歩前へ出て、口を開いた。
「リリィ。お前の気持ちはわかる。でも……あのとき、俺たちは止めなかった。リクが一人で戦うと決めたとき、お前は見送った。その選択の結果が、今なんだ」
少年の肩がわずかに揺れた。
しかし、続けようとした彼の言葉を、別の叫びが遮った。
「でも――あたしは、賛成よ」
少女が前に出て、言った。
「クラリス……?」
「リクがこの世界で力を使い切ったら――彼はただの人になる。スキルもすべて失う」
彼女はリクを見つめた。
「今ここで、自分の世界に戻れるなら――あたしは、リクの幸せを応援したい。あたしは、もう十分幸せにしてもらったから」
リリィが声を絞り出すように言った。
「でも……あなたも、リクのこと……」
クラリスは手で遮った。
「言わないで。それでもいいの。だって――あたしたちは、この世界を守るために出会った。見送るのも、あたしの役目だと思うから」
誰かの涙が零れ、夜空に溶けていく。
少年はコンソールを見据える。
「……ありがとう。みんな。俺――行ってくる」
そして、彼はコードを展開した。
「もう誰にも縛らせない……この世界を、解き放つ!」
レオンがリクの肩に触れ、神力を送り込む。
少年は精神力の全てを注ぎ、スキル「コードエディット」を展開する。
無数の文字列が溢れ、神域の空を埋め尽くす。
星々が光に溶け、夜空が虹色にきらめく。
リリィが息を呑む。
「これが、コードエディット……」
クラリスがそっと顔を和らげた。
「……きれいね」
《スキル:コードエディット》
《対象:世界システム》
《神域アクセス:成功》
《世界修正プロトコル:演算処理》
世界そのものが、今、書き換えられようとしている。
だが、完了にはまだ時間がかかる――
その猶予が、最後の言葉を紡ぐために与えられたようだった。
リクは肩越しに、クラリスとリリィを振り返る。
そして、いつもと変わらぬ声で、言った。
「……ここまで、一緒にいてくれて。クラリス、君がいてくれたから、何度も立ち上がれた。リリィ、君に何度も救われた。俺は、本当に幸運だった」
リリィが何か言いかけて、唇を噛んで俯く。
クラリスが小さく首を横に振った。
レオンが後ろで腕を組みながら、ぽつりと呟く。
「……俺には、何もないのか?」
少年はふっと口元を緩める。
「レオンに認めてもらえるような男になりたかったな」
「十分頑張ったよ。お前は。……すまなかった。そして、ありがとう」
少年はもう一度、空を見上げた。
そこには、何の装飾もない夜空。
ただ、戻るべき場所へと続く道が、広がっていた。
「……俺、向こうでちゃんと生きてみるよ。コードもスキルもない普通の人生。あ、でも向こうでもコードは弄ってたな」
少年は穏やかにうなずいた。
クラリスが一歩前に出た。
「リク」
その語気は穏やかで、少しだけ寂しそうだった。
「もし、向こうの世界でつらくなったら……」
そこで一拍、間を置いて。
「あたしたちの事を思い出して。リクは魔王を倒して世界を救ったんだって」
少年は、ただ深く頷いた。
《演算進行状況:2%》
コンソールのパネルが、断続的に警告を返す。
少年が眉をひそめた。
「……なかなか終わらないな」
クラリスが肩をすくめて言った。
「世界一個、丸ごと書き換えるんだもの。そりゃ時間かかるでしょ」
リリィが心配そうに言った。
「このまま、ちゃんと動かなかったら……?」
するとレオンが、ぽんっと手を叩く。
「ちょっと神に聞いてくるわ」
「は?」
皆が一斉に彼を見る中、レオンは気軽に手を振って、ひとこと。
「戻るから安心しとけ」
次の瞬間、彼の体がふっと消えた。
沈黙。
誰も何も言わず、空を見る。
リクがぽつりと呟く。
「……なんか、あいつ、馴染んでたな。使徒っぽく」
「使徒だったら、気軽に神に相談しに行かないわよ」とクラリス。
しばらくして、天から光が差す。
何事もなかったような顔で、レオンが立っていた。
「どうだった?」とリリィが尋ねる。
「んー、やっぱ世界改変は一か月くらいないと無理だってさ。演算重すぎるって」
「はあ!?」
少年が思わず叫んだ。
レオンが少年の肩に手を置いた。
「お前、向こうでコード弄るって言ったな。なら、俺もこの世界で新しいコード書いてやるよ。神格持ちの仕事、楽しくなってきたわ」
クラリスが歓声を上げ、リリィがそれにつられて顔をほころばせ、少年も最後には肩を落として口元を緩めた。
レオンだけが、少しだけ得意げな顔をしていた。
夜空は変わらず、静かにまたたいていた。
旅は終わった。
でも、まだ少しだけ、この世界にいられるらしい。
それなら――もう少しだけ、みんなで。
その夜、久しぶりに眺めた空は、ただの空だった。
けれど、今までで一番、綺麗だった。




