第十八話
靄が地を這うなか、リクは魔王城の外堀を越え、黒々とそびえ立つ巨大な門に辿り着いた。
それは世界の終端のように立ちはだかり、圧倒的な存在感で少年の目に映る。
息を殺し、門の死角へと身を滑らせた瞬間、背後から魔獣の足音がこだまする。
振り返る暇もない。
靄が蛇のようにたゆたう中、黒い影が飛びかかる。
赤い眼が燃え、硫黄の臭いを漂わせる巨体――上級魔獣が迫る。
反射的に腰へ手を伸ばすが、武器はない。
王城に着いた瞬間、兵士に囲まれ短剣を奪われた記憶が脳裏をよぎる。
「武器なしで戦えってのかよ……!」
ヴォイドクロウの爪が少年の髪をそよぐ。
爪が石畳を砕き、破片が飛び散った。
鼻を突く硫黄の臭いに吐き気を催す。
こんな速さの敵は、ダンジョンでも見たことがない――どうやって倒せばいい?
泥に滑り込み、爪を寸でかわす。
息は乱れ、恐怖が全身を縛りつけた。
「くるな!」
叫びは霧に呑まれる。
再び巨体が飛びかかり、視界がぼやける。
かわさねば死は避けられない。
《警告:外部干渉を確認》
その瞬間、世界が止まった。
ヴォイドクロウが空中で凍りつき、牙を剥いたまま輪郭がカクつき、崩れていく。
不自然なフレーム落ち。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が頬を伝う。
まるで世界の歯車が止まったかのようだ。
ダンジョンで遭遇した、バグったダスクハウンドの記憶が蘇る。
「また……あの現象か?」
一歩後退する少年の視線の先で、ヴォイドクロウの赤い眼光が消え、巨体は石像のように固まった。
黒い門の輪郭が浮かび上がる。
息を整え、こわばる手で門の隙間を押し開けた。
重い金属音がこだまする中、冷たい風が頬を刺す。
門の向こうは静寂。
広大な廊下、埃が厚く積もり、ひび割れた壁には苔が這っていた。
長い年月の放置が、城そのものを息を潜めているかのようにしていた。
足音が石畳を叩くたび、コンソールにノイズが走った。
「この城……何か異常だ」
やがて廊下の奥に重厚な鉄扉が現れた。
奇妙な紋様が刻まれ、隙間から光が漏れる。
近づくと、扉はひとりでに開き、金属の軋む音と共に視界が白に染まった。
奥は広間のような空間。
中央ではゲートが青白く点滅し、魔法陣が歪んでいる。
空気は異様な重さで少年を押し潰し、頭の奥にノイズが走る。
コンソールが脈打ち、未知の文字が表示された――まるで別世界からの信号だ。
脈動が強まるたび、心臓が締めつけられる。
石柱の影がざわめくように動き、床の模様が歪んだように見えた。
ゲートは不規則に歪み、低い唸りで広間全体を震わせる。
その中心に、漆黒の王座。
黒い甲冑を纏い、魔王ヴァルスが座していた。
沈黙の中、ヴァルスの赤い双眸が魂を見透かす。
そして――機械のように正確な口調が広がる。
「リク=アーデン、コードエディットの適合者」
リクは名前を呼ばれた瞬間、背筋が冷えた。
「……どうして、俺をここに?」
ヴァルスの瞳が瞬き、唇が皮肉に歪む。
「私はずいぶん昔からお前のことを知っている」
その言葉には、機械的な正確さの奥に、奇妙な懐かしさが滲んでいた。
胸に不安がよぎる。
「ヴァルス……レオンはどこだ?」
王座から黒い影が立ち上がり、甲冑がきしむ。
ヴァルスが歩み出た。
「警戒するな。私はお前を欲している」
赤い目が真っ直ぐに少年を射抜く。
怒りがこみ上げた。
「なら、なぜ俺たちを襲った!」
ヴァルスは低く唸る。
ザラついたノイズが混じっていた。
「些事だ。お前のスキルがあれば、すべて元に戻せる」
手を翳すと、ゲートが脈打つ。
表面は液体の鏡のようにたゆたう中、映像が歪んだ。
――崩れ落ちる街。
――消えゆく人々。
――光と闇が交錯し、空間が裂ける。
頭にノイズがこだまし、胸に痛みが走った。
コンソールが勝手に起動する。
そのコードはゲートと共鳴し、視界を歪めた。
「これは……コードの力……?」
「ここは神の祭壇。過去と未来が交錯する地。こここそがその力の原点だ」
少年は顔をしかめ、頭を巡らせた。
「この世界は完璧だった。だが、転生者――お前のようなバグが秩序を乱した」
彼は目を細める。
「……バグだと? 転生者って……どこまで知っている?」
ヴァルスの赤い目が輝いた。
「綻びは繰り返す。だが……お前の力は、別の道を開くかもしれない」
ヴァルスの手が動くと、ゲートが弾け、青白く視界を焼きつけた。
世界そのものが彼の指先で操られているかのようだ。
空間が少年を呑み込んだ。
「お前が異端な力を持つことで、人々はお前をうらやむ。これからは特にそうだ。皆がお前になりたいと願い、それが新たな争いを呼ぶ。少し考えれば分かることだ」
リクは言葉を失った。
「コードエディットを渡せ」
ヴァルスの滑らかな語気が甘く誘う。
「私のもとで、それを無駄なく使えば……レオンを返し、クラリスも自由にしてやろう。彼らの未来も、記憶も、存在すら――効率的に再構築できる」
クラリスの笑顔が脳裏をよぎる。
リクの心がざわついた。
だが、彼はネックレスを握りしめた。
そのぬくもりが約束を呼び起こす。
決意を込める。
「仲間を売る気はない! レオンも……クラリスも、僕が取り戻す!」
ヴァルスの氷のような語気が返る。
「ならば、試してみるがいい」
ゲートの残滓が光を放つ。
靄が渦を巻き、舞い上がる。
――レオンが現れた。
感情を失い、虚ろなまま。
体がゲートのノイズに合わせて震え、人形のようだった。
まるで操られているかのよう。
無言でゆっくりと少年に近づく。
「レオン……そんなはずがない……」
そう思う一方で、剣を持つ姿勢も、歩き方も、それは紛れもなくレオンのものだった。
修練所で、剣を振るうレオンとの思い出がよみがえる。
「リク、強くなれよ」
その言葉は今も胸の奥で燃えている。
だが、感情を失った抜け殻。
かつての仲間が敵として立ちはだかり、その姿がリクの心を剣のように切り裂く。
ネックレスが熱を帯び、クラリスの柔らかな囁きが心にこだまする。
「リク、負けるな」
その約束が、リクの心に再び火を灯した。
「レオンっ! お前をこんな目に遭わせた奴を、絶対に許さない!」
靄の中で、ヴァルスの姿が闇に溶けた。
赤い双眸が輝く。
「お前の試練は、まだ続く」
その語気が靄に消え、世界そのものが少年を試すように鳴り響いた。
沈黙の中、レオンが無言で迫る。
リクは拳を固め、決意を込めた瞳で、かつての仲間を見据えた。




