第1章 西荒抗争の終決【3】
アリストは真剣な表情で、ただ、と続ける。
「さっきも言った通り、ヒロインは聖女として覚醒していない可能性が高いです。その確証を掴めれば、断罪イベントは引っ繰り返せるかもしれません」
マリーウェザーはこの世界のことを何も知らない。アリストの話をすべて理解することはできていないが、アリストの言うことに従ったほうがいいことだけはよくわかる。
「そのためにはどうしたらいいんや?」
「まずは周囲に味方を作りましょう。他の攻略対象についても調べてみます」
「御庭番っちゅーのは要はスパイやろ? 便利なもんやな」
いろははエセお嬢様であったが、マリーウェザーは正真正銘の貴族のお嬢様。何かと敵を作ることもあるだろう。そのとき、御庭番と呼ばれる者たちの出番になるのだ。その実、どんな組織なのかは知らないが、知る必要もないのだろう。
「ヒロインが転生者である以上、逆ハーレムエンドを狙っている可能性もあります」
「逆ハーレム? いいご身分やな」
聞き慣れない単語だが、それがどんなものであるかは想像に易い。マリーウェザーは呆れとともに息をついた。
「ええやろ。これでも、親父に西園寺組を任された身や。流れ弾で死ぬなんて下手こいちまったが、返り咲いたろうやないの」
腕を組み、不敵に微笑む。流れ弾に当たっていなければ、いろははいずれ西園寺組の頂点に立っていた。その矜持がマリーウェザーの心に刻み込まれている。例えあらゆるものがマリーウェザーの仇となっても、誇りを持ち続けることができるだろう。
「マリーウェザーはあくまで貴族のお嬢様です。聖百合女学園のいろはお嬢でお願いしますよ」
「わかってる。エセお嬢様は得意や」
ひとつ息をつき、マリーウェザーは背筋を伸ばす。手を体の前で揃えれば、どこからどう見ても貴族のお嬢様に相応しい風采であるはずだ。
「さて、筋をお通しいただきましょうか」
あの西荒抗争を目の当たりにしたいま、マリーウェザーに恐れるものは何もない。仁王を負った父の背は、いまでも瞼の裏に焼き付いている。西園寺いろはが、筋の通らない話に負けるはずがないのだ。
アリストを伴い廊下に出ると、クレイアがふたりを待っていた。その表情から、アリストから事情を聞いているらしいことがわかる。アリストはクレイアにマリーウェザーを任せ、登校の準備をして来ます、と離れて行った。クレイアによると、アリストもマリーウェザーとともに学校に通っているらしい。学校には使用人が入れないため、同じ学生という立場でアリストを同行させているのだ。
背筋を伸ばしたまま、ダイニングに入る。先にテーブルに着いていた面々は、もちろん西園寺家の人々ではない。上座で難しい表情をしている白髪混じりの茶髪の男が父親だろう。その左の斜交いに座っている女性がおそらく母親だ。その向かいに腰掛けている金髪の青年が、アリストが言っていた兄ハーヴィだろう。クレイアに促され、マリーウェザーは母親の左に腰を下ろした。
マリーウェザーが席に着くのと同時に、使用人たちが食事を運び始めた。マリーウェザーはアリストから話を聞いていたため、朝食の開始が遅くなったようだ。運び込まれたのはスープとパンにサラダだった。いずれ実家の朝食が恋しくなる頃が来るだろうという予感をさせる光景であった。
「マリーウェザー、妙な夢を見たそうだな」
父――セイヴクイン侯爵が低い声で言う。その声は心配より咎めるような色を湛えていた。
「ご心配をおかけいたしました」
マリーウェザーは粛々とスープを掬いながら答える。マリーウェザーには、父が娘に愛情を懐いていないことがすぐにわかった。愛情に溢れる父のもとで育った経験がそう直感する。
「お前にはこれ以上、面倒事を起こされるわけにはいかない。朝から騒ぎを起こしおって」
「そんな言い方はないでしょう」
遠慮がちながらも母――セイヴクイン侯爵夫人が言う。この母親はマリーウェザーを愛している。その声色からそれがよく伝わって来た。
「マリーは何も悪いことをしていないのよ?」
「どうだか」
冷ややかに兄――ハーヴィが言う。その目はマリーウェザーを捉えようともしない。
「王立魔道学院でのマリーの評判は最悪ですよ」
「……お兄様」
す、とスプーンを置き、マリーウェザーは兄を見つめる。ハーヴィがその視線に応えることはないが、それは目を逸らす理由にはならなかった。
「これからわたくしは、自分の身の潔白を証明いたしますわ」
「何を言っている」ハーヴィが鼻を鳴らす。「お前はドリーに散々、酷いことをして来ただろう」
「ほう……」
物憂いげに声を漏らしたマリーウェザーに、ハーヴィの眉がぴくりと震える。マリーウェザーと同じ紫色の瞳が彼女を捉えた。その視線は不信感に満ちている。
「では、わたくしはお兄様の目の前でドリー様に酷いことを?」
アリストから聞いた通りだ、とマリーウェザーは考える。マリーウェザーは学校でドリー・ハートナイト男爵令嬢に嫌がらせや虐めをして肩身が狭く、攻略対象である兄はドリーに心を奪われかけているのだ。
マリーウェザーの問いに、ハーヴィは少し面食らったように言葉に詰まる。気を取り直すためにひとつ咳払いし、またマリーウェザーから目を逸らした。
「目の前ではないが、ドリーがお前に酷い仕打ちを受けていると泣いていた」
「その証言はどこから得ましたの?」
「ドリー本人だ。それと、彼女の友人たち、全員がお前の仕業だと言っていた」
「では、物的証拠はない……ということですね?」
そこまで詰められるとは想像していなかった様子で、ハーヴィの手元のスプーンが皿にぶつかってカチャリと音を立てた。
「それでは筋が通りませんわ」
「いまさらなんの筋を通すと言うんだ。お前の罪は逃れようがない」
「物的証拠もないままわたくしを裁こうとおっしゃるのですか? 実の妹を」
マリーウェザーはあくまで淡々と言う。いろはであれば胸倉でも掴んでいただろうが、お嬢様ごっこには慣れている。感情を表に出さないことも、聖百合女学園で身に刻んだものだ。
ハーヴィは返す言葉がないようで、スープを口に運んだまま黙っている。その姿に、マリーウェザーはわざと小さい溜め息を落とした。
「では、わたくしはきちんと筋をお通しいたしますわ」
「マリー……」
父と兄がマリーウェザーの様子を窺う中、母が心配そうにマリーウェザーの手に触れる。この母親は、心からマリーウェザーを愛し、案じているのだ。マリーウェザーが微笑みかけるのは、きっと母ひとりになるだろう。
「大丈夫ですわ、お母様。わたくしには、わたくしのやり方がありますの」
悪役令嬢だかなんだか知らない、といろはは心の中で呟く。
(ウチは西園寺いろは。西園寺組組長……南郷会最強の極道、西園寺剛健の愛娘や)
この御伽噺のような最悪の世界で生き抜くためには、その誇りだけで充分であった。




