第1章 西荒抗争の終決【1】
そこはまるで、戦場のようだった。
響き渡る怒号。飛び散る血。己の拳だけで前へ突き進む男たちの姿が見える。その中に、ひときわ大きな背中を見つけた。背負った仁王は、争いの中でただ冷静に戦局を見極めていた。
「親父ー!」
騒がしさの中に紛れないよう張り上げた声に、鬼の形相がこちらを振り向く。いつもは穏やかな父の顔が、見たこともないような表情を浮かべていた。
「いろは、お前は出て来るな!」
「お嬢、駄目です!」
いまにも飛び出して行きそうなその体を引き留められ、ただひたすら暴れた。この戦いの中、大人しく屋敷の中で黙っていることなどできない。
「お前ら、どこの組のモンや!」
「阿良々木組や。早かれ遅かれ、決着をつけねばならなかったんや」
父の声は冷静だったが、この緊迫した空気に神経を研ぎ澄ませている。西園寺組の組長として、仁王に相応しい風采を漂わせていた。
争いの向こう。砂埃が舞う中に、獲物を見つけた獣のような目が浮かんでいた。阿良々木組の波はそこから始まっている。いろはも何度か顔を合わせたことがある。西園寺組と対立する阿良々木組の組長、阿良々木旺醒だ。
「親父! ウチもっ――」
「いろは、お前は下がってろ」
いますぐ父の隣に立ちたい。そんないろはの意思を、力強い腕が引き留める。いくら暴れても、その手が離れることはない。
「離せ、たー坊!」
「駄目ですよ、お嬢!」
「ウチが女やからか! ウチかて――」
「いろは」
父の凛とした声がいろはの動きを止める。争いを見据えたままの父が、屋敷から飛び出せずにいるいろはを見つめているような感覚。
「お前が西園寺組を継ぐんや」
その覚悟に満ちた横顔を、いろははただ見つめていた。
「お前が、西園寺組の最後の――」
第1章 西荒抗争の終決
「親父ー‼」
そう叫ぶと同時に意識が覚醒した。あの争いの中で眠っていたのかと自分を疑った瞬間、今度は自分の目を疑った。
「な、なんや……このキラキラした部屋……」
横になっていたらしいベッドは少なくともクイーンサイズで、タッセルの付いた天蓋が垂れている。その向こうには小振りなシャンデリアが見えた。右を見ると、優美な細工の施されたタンスや、三面鏡になった鏡台がある窓側。左を見れば、分厚い本が並ぶ本棚に、これまた細やかな調度の机が置かれている。おおよそ自室とは思えない部屋の真ん中で、彼女はただ呆然としていた。
「ここはどこや……! 親父は……阿良々木組はどうなったんや……!」
荒ぶる気持ちを抑えられないまま立ち上がると、不意に窓の中の人物と目が合った。ウェーブのかかった金髪と紫色の瞳の西洋風の顔立ちをした少女。何やら慌てている様子で、顔が青褪めていた。
「なんや、この美人さんは……。嬢ちゃん、平気か? 顔色、悪いで」
軽く手を振ると、窓の中の美少女も手を振る。少しの間を置いてもう一度、手を振った。窓の中の美少女も同じように手を振る。その瞬間、彼女は鏡台に飛び付いた。自分を映すはずの鏡に、窓の中の美少女が映り込んでいた。
「う、ウチ⁉ どないなっとるんや!」
現状が呑み込めず、彼女は思わず部屋を飛び出した。想像していた住み慣れた屋敷の和風な廊下は姿を消し、あちらこちらがキラキラと輝く西洋風の廊下が広がっている。驚きの声に辺りを見回すと、メイド服の女性たちが彼女を見て目を丸くしていた。オタク男子たちが好むような萌え散らかしたメイドではない。確か「クラシカル」というタイプのメイド服だ。
「ここはどこや! なんや、このお貴族様のお屋敷みたいな……!」
「まっ、マリーウェザーお嬢様⁉ どうなさったのですか⁉」
数人のメイドが駆け寄って来る。面食らう彼女に、メイドたちは狼狽えている。息を整えるために荒く上下する肩に手を添え、彼女を落ち着かせようとしていた。
「お、お嬢様……? ウチのことか……⁉」
そのとき、パンパン、と手を叩く音が聞こえた。振り向くと、黒いジャケットを身に纏った金髪の若い青年が歩み寄って来ている。世の乙女な「お嬢様」たちが惚れ惚れする「執事」のような風采だ。
「みなさん、どうか落ち着いて。マリーウェザーお嬢様、悪い夢でもご覧になられたようですね」
青年は穏やかな笑みを浮かべる。状況が呑み込めず頭が混乱したままの彼女の前に腰を折り、優しい表情で彼女を見上げた。
「まずは朝のご支度を。……お嬢」
小さな声で囁くように言った青年に、彼女はハッとする。それでも言葉が出ず、ただ青年を見つめた。周囲にいたメイドたちは気を取り直した様子で、彼女を飛び出して来た室内へ誘導する。
「クレイア」青年が言う。「お嬢様の朝の支度を」
「かしこまりました」
冷静な表情で頷くのは、彼女と年齢がそう変わらなさそうな少女のメイド。切り揃えられた茶色の前髪が幼さを醸し出しているが、メイドたちの中で最も落ち着いていた。
彼女を部屋へ押し込み、クレイアと呼ばれたメイドだけが部屋に残った。クレイアは呆然としたままの彼女の寝間着をあっという間に着替えさせる。促されて鏡台の前の椅子に腰を下ろすと、学生服のような服装だった。
クレイアは彼女のウェーブのかかった金髪に、丁寧に優しくブラシをかける。そうしていると、彼女もなんとか落ち着きを取り戻していった。
(この嬢ちゃんはマリーウェザーゆうらしいな。こうやって鏡に映ってるからには、ウチがマリーウェザーっちゅーことや。お嬢様と呼ばれること、メイドがいっぱいいることを考えると、お貴族様のお屋敷で間違いないようや。けど……なんでウチがこの嬢ちゃんに……?)
クレイアは彼女――マリーウェザーの髪をハーフアップにし、浅葱色のリボンで纏める。人形のような娘だ、とマリーウェザーは心の中で独り言つ。漫画で見るような、まさに「お嬢様」と呼ばれるに相応しい風采だった。
コンコンコン、と軽快にドアがノックされる。マリーウェザーは反射的に、どうぞ、と応えていた。ノックに返事をするような習慣はなかったはずだが、口が勝手にそうしていた。この身体に染み付いているのだ。
マリーウェザーの返事を受けてドアを開けたのは、先ほどの執事らしき青年だった。それと入れ替わるように、クレイアは部屋をあとにする。マリーウェザーと青年をふたりきりの状況にするのが当然だったように。
その意図を汲めず身構えるマリーウェザーに対し、青年は膝を床につき、マリーウェザーを見上げた。その瞬間、この瞳に見覚えがあるような、そんな感覚になった。マリーウェザーを見つめるその瞳は、懐かしさを感じさせるような色を湛えている。
「いつかお会いできると思っていました、いろはお嬢」
マリーウェザーは息を呑んだ。この声色、この喋り方。間違いない。
「お前……もしかして、たー坊……⁉」
棚瀬琢磨、通称「たー坊」は西園寺組の若衆のひとりで、子どもの頃からいろはの面倒を見ていた。父からの信頼も厚く、あの抗争の中へ飛び込もうとしていたいろはを必死に止めていた男だ。
「いまはアリストです。マリーウェザーお嬢様付きの執事見習いですよ」
「どうなってるんや? なんでウチがこんなお嬢様に?」
たー坊――アリストは腰を持ち上げる。その身長差はちょうどいろはとたー坊と同じくらいだった。
「いわゆる異世界転生ってやつです。お嬢と俺はもとの世界で死んで、別の人間として異世界に生まれたんです」
「死んだ、って……親父は⁉ 西荒抗争はどうなったんや⁉」
掴みかかるマリーウェザーに、アリストは優しい笑みを浮かべる。
「組長は生きてます。阿良々木組が負けたんです」
「……そうか」
マリーウェザーは安堵の息をついた。あの抗争の瞬間はいまでも瞼の裏に張り付くように覚えている。仁王を負った父の背も。戦いに出られなかった自分の無力さも。
「で、ウチらはなんで死んだんや?」
「……お嬢は西荒抗争で流れ弾に当たって……。俺は、お嬢を守れませんでした」
アリストは悔恨を湛えた顔を歪める。マリーウェザーは自分が死んだ瞬間を覚えていないが、たー坊はおそらく、目の前で被弾するいろはを見ていたのだろう。なんとも情けない死に方だ、とマリーウェザーは自分に呆れた。
「気にしなや。勝手に表に出たんはウチや。銃ならしゃーないやろ」
「はい……」
「んで、たー坊はなんで死んだんや?」
「西荒抗争に負けた阿良々木組は、南郷会長の命令で解体されました。南郷会長は、もとから阿良々木組のことをよく思っていませんでしたから。その後、元阿良々木組の組員たちが西園寺組に仇討ちに来たんです。俺はそのカチコミで……」
「なるほどな」
阿良々木組は西園寺組と同じ南郷会直系の組であったが、何かと西園寺組に敵意を懐いていた。阿良々木組長が西園寺組長を恨んでいたとされ、いつ西荒抗争が巻き起こるかわからない状態が長く続いていた。西園寺組に阿良々木組を敵視する理由はなく、南郷会会長の南郷照彦は阿良々木組長に何度も注意勧告をしていたらしい。西荒抗争は、阿良々木組長がそれを無視して引き起こした。それで負けたのだから、解体されるのも当然だろう。
「なんでウチはこんなお人形みたいな嬢ちゃんになったんや?」
「お嬢は死んで、別の人間として転生したんです。その姿が、いまのいろはお嬢ってことです」
「たー坊もその手ってことかい」
「はい。こうして別世界でお嬢に再会できて嬉しいですよ。ただ、差し当たって問題があるとすれば……」
アリストは難しい表情になり、マリーウェザーを見つめる。お嬢様らしくないと思いつつも腕を組み、マリーウェザーは首を傾げて先を促した。
「マリーウェザー・セイヴクインは、いろはお嬢と正反対のお貴族様のお嬢様、というところですね」
「正反対とは言えへんで」マリーウェザーは肩をすくめる。「ウチもエセお嬢様やってたからな」
「ああ……。聖百合女学園、ガチガチのお嬢様校でしたね」
西園寺いろはは父の要望のもと、由緒ある「お嬢様校」と称される「聖百合女学園」に通っていた。中高一貫校で、西荒抗争が起きた時点でいろはは十六歳。高等部に上がったばかりの頃だった。父が言うには「極道の娘であるいろはが一般人として生きていくためにはお嬢様くらいの教育が必要」ということらしい。「極道の娘」と「お嬢様」の平均が「一般人女性」という発想だ、とあとからたー坊に説明された。三年ほどお嬢様をやっていたが、自分が一般人として組の外で生きていけるとは到底、思えなかった。




