オッサン、小学生に学ぶ
前回からのあらすじ
俺の名前は田中幸司。45歳。
目が覚めたら俺は......女子小学生になっていた!?
午前中の授業をみんなと楽しく過ごした俺。
ふぅー腹減ったなー
......と。次は?お!給食の時間だ!
「今日の給食、なんだろうねー!」
そんな声を弾ませながら、先生と一緒に給食室へ向かう。
アルミのワゴンに大きな鍋、ステンレスのバット、牛乳瓶。
ガチャガチャと音を立てながら、みんなで押したり持ち上げたり。
(……慣れてるというより一生懸命だな。なんかかわいいな)
「きゃー! カレーの匂いだー!」「わーい!」
「ちょっとちょっと、こぼさないようにね〜」
先生が笑いながら声をかける。
「はーい、もうちょっと静かにねー。お話しながらだとこぼしちゃうわよ〜」
それでも子どもたちは止まらない。にぎやかな笑い声と、鍋のふたのカタカタという音が重なった。
教室に戻って、机を動かして班を作る。
俺の班は六人。
ちょっぴり照れ屋でやさしい雰囲気の春日やよい。体育が得意そうな風間なお。ゆったりと話す水瀬れいか。いつも笑顔でみんなを和ませる坂下あゆみ。そしてあかねちゃんと俺。
あかねちゃんの仲良しグループに、俺もなんとなく混ぜてもらったような感じで。
休み時間なんかも一緒に過ごすことが多くなった。
(こうして見ると、ほんとにみんな“子どもらしくて”かわいいな)
「はい、みゆきちゃん!」
あかねちゃんがにっこり笑ってカレー皿を手渡してくれる。
両手で受け取ると、自然と笑みがこぼれた。
スプーンを握る指が少し震えているのを、あかねが見てクスクス笑う。
「そんな緊張しなくていいよ〜」
「う、うん……」と小さく頷く。
机を向かい合わせにしてカレーとサラダと牛乳が並ぶ。
「じゃあ、みんな〜手を合わせてー!」
先生の明るい声に続いて、
「いただきます!」
その声が響いた瞬間教室がふんわりと明るくなった。
スプーンを入れると、ふわっと甘い香りが立ちのぼる。
(……お、甘い!)
カレーなのにまったく辛くない。だけど確かにカレーの味がする。
(そうか。子どもの頃は、これが“普通”だったんだよな)
最近の俺なら絶対「辛口」しか選ばなかった。
でも――不思議とこのやさしい味が心にしみる。
(……甘口って、こんなに穏やかな味だったのか)
スプーンを口に運びながら向かいのあかねちゃんが話しかけてくる。
「ねぇねぇ、みゆきちゃんはおうちで何してるの?」
考えながら、スプーンを止めた。
「えっと……テレビ見たり?」
「どんなの見るの? 昨日のアニメ見た?」
「昨日は……お父さんがニュース見てたから、それを一緒に見てたかな」
「えーー!? ニュース!?」
「まじめ〜!」
「昨日の“魔法使いのやつ”見なかったの!? すっごくおもしろかったのに〜!」
あかねちゃんが両手をばたばたさせる。
なおがすかさず「そうそう! あの“キラキラ〜”って変身するとこ!」と身振りで再現。
れいかがくすっと笑いながら「“まほうのステッキ〜!”って言うとこ、かわいかったよね」
あゆみまで立ち上がってマネしはじめる。
みんなで笑いながら盛り上がる。
(え、そんなに人気なの? 見てないの俺だけ?)
小さく肩をすくめて「見てないや」とつぶやくと、
「えぇぇ!? ありえなーい!」
「今度一緒に見よっ!」
「本貸してあげよっか?」
次々に声が飛んでくる。
(……そっか、今どきの“常識”が違うんだな)
ニュース見てたらツッコまれる世界か。
そういえば俺も昔、親がチャンネル変えようとしたら「ニュースいやだ!」って駄々こねてたっけ。
(ご飯食べながらニュースって……普通じゃなかったんだな)
懐かしさに思わず笑ってしまう。
話題は晩ごはんへ。
「うちはオムライスー!」「カレー!」「焼きそば!」
それぞれが口々に言う中で、
「うちは……ハンバーグだった」と答えると「いいなー!」「お母さんの手作り?」と目を輝かせる子たち。
あかねが「おいしそう〜」と手を合わせてうっとりしてみせる。
その仕草が妙にかわいくて、思わず笑った。
と、やよいがふと思い出したように言う。
「ごはんの前は何をしてたの?」
スプーンを止めて少し考える。
「えっと……お父さんとお風呂、入ってたかな」
一瞬、静まり返る。
その後――
「えぇぇ!? お父さんと!?」「やだー! はずかしい〜!」
「ママとならわかるけど〜」「わたしもう一人で入れるもん!」
6人の班が一気にざわざわする。
(うわっ……やばい。完全にやらかしたかも)
慌てて手を振りながら「え、えっと……恥ずかしいとか……別に......お父さんだし」と言うと、
「えー! やだー!」
「そんなの恥ずかしいー!」
みんな顔を寄せ合ってキャッキャと笑う。
(いやいや、俺の中身おじさんだし……! お母さんと入るほうがよっぽど目のやり場に困るんだって!)
「はーい、そこ〜。お話しするのはいいけど、ごはん中はもう少し静かにね〜」
先生が歩いてきて、優しく声をかける。
「で? どうかしたの?」
「みゆきちゃんがね、パパとお風呂入ってるんだって〜」
「え、そ、そんなに変かな?」
そう言うと、先生は少し笑って、みゆきの頭にそっと手を置いた。
「別に変じゃないわよ。先生だって、もう少しお姉さんになるまではお父さんと一緒だったもの」
「えー! そうなんだー!」
キラキラした注目が先生に移る。その視線から解放されて俺は少しほっとした。
「それにね、みんなのお父さんも、きっと少し寂しいって思ってるかもしれないわよ」
「そういえばパパ、ちょっとしょんぼりしてたかも」
「でしょ? だから、たまには一緒に入ってあげるのもいいんじゃないかしら」
先生がやさしく笑いながら、みゆきの頭をぽんぽんと撫でた。
「だから、みゆきさんも気にしなくていいのよ」
その笑顔に胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……なんだろう、さっきまで恥ずかしかったのに、不思議と心が軽い)
スプーンを口に運びながら小さく頷いた。
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「ごちそうさまでしたー!」
全員で声をそろえて手を合わせると、まだカレーの香りが教室の中にふんわり残っていた。
スプーンや食器がカチャカチャと音を立て、みんなが立ち上がる。
「はい、じゃあお片づけしましょうねー」
先生の声に、子どもたちが一斉に動き出す。
アルミのワゴンがきぃきぃ鳴り、大きな鍋のふたがカタカタ揺れる。
「わたし押すー!」「だめだめ、こぼれるってー!」
「ちょっと、だいすけくん!それ重いのに無理しない!」
ワゴンの向こうで、ムードメーカーのだいすけが得意げに笑っていた。
(……真剣にやってるのに、なぜか見てて和むな)
教室から給食室までは短い距離だがその間もずっと賑やかだ。
鍋の中でルウがちゃぷちゃぷ揺れてこぼれないか心配になる。
みんなでワゴンを戻して教室に戻ると白い給食エプロンをたたむ時間。
やよいがポケットからスプーンを落として「あー!」と声を上げると先生がすかさず笑顔でフォローする。
「もう、あわてなくていいのよ〜」
(こういう何でもないやり取りが、なんかいいな)
エプロンをロッカーにしまい終えると教室がすこし静かになった――
のも束の間――。
「みゆきちゃーん! なにして遊ぶー!?」
あかねちゃんがキラキラした笑顔で走ってくる。
続いて仲良しグループメンバーも集まってきて俺のまわりは一瞬でにぎやかになった。
(昼飯食ったら……そうだな。まずはコーヒー飲んでから一服して......それからゴロンと横になって……)
目の前でバタバタ走り回るクラスメイトたち。
(……そんな感じじゃないよなぁ)
「なにしよっか!」「ドッジボール?」「なわとび?」
みんなが口々に言い合っているそのとき――。
廊下の向こうから元気な声が響いた。
「鬼ごっこやる人、この指とーまれー!!」
だいすけの大声に教室の空気がさらに一段明るくなる。
「おれもやるー!」
リーダータイプのせいじが笑いながら後ろを走っていった。
「わたしたちも行こっ!ねっ!みゆきちゃん!」
あかねが勢いよく手をつかむ。
「うわっ、ちょ、まって!」
言い終わるよりも早く、ぐいっと引っ張られる。
「ちょっ……そんな!ご飯食べてすぐに走ったら気持ち悪くなっ……!」
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「……ならないな」
ぼそっとつぶやく。
おなかいっぱい食べて。そのあとすぐに走らされたにもかかわらずまったく苦しくない。
(大人の俺だったらリバースしててもおかしくないぞ……)
子供のからだって大人より未成熟のはずなのにな。こういうとこはハイスペックだな。
手を引かれるまま校庭へ飛び出した。
グラウンドに出ると春風がふわりと頬を撫でた。
空はまっすぐで吸い込まれるように青く、心地よい風が体を包み込む。
砂の上に丸を描き、その輪の中でだいすけが声を張り上げた。
「じゃあ、最初の鬼はおれなー!」
あかねが両手を腰に当てて「いいよー!」と答える。
せいじが「ルールは一回タッチしたら交代な!」と号令をかけ、
あゆみとやよいは捕まらないようにすでにだいぶん離れたところから様子をうかがっている。
(……なんだろう、この自然な一体感。社会人になってからこんな瞬間、あったか?)
空の下でみんなが笑っている。
その真ん中に立つと胸の奥がすこし熱くなった。
(たぶん今、俺……めちゃくちゃ幸せなんだろうな)
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「みゆきー! こっちこっち!」
あかねちゃんが笑いながら手を振る。
その声に導かれるように、俺は砂を蹴って走り出した。
……そのとき。
進行方向の先にだいすけが立ちはだかった。
両手を大きく広げ、にやっと笑う。
「そうはさせねぇぜ!」
「うわっ!?」「みゆきちゃん逃げてー!」
あかねちゃんの叫びが飛ぶ。
だいすけがまっすぐ俺に向かって突っ込んできた。
砂煙が舞う。
(おいおい……プレゼンよりプレッシャー高いじゃないか、これ!)
ギリギリで方向転換。
だいすけの腕が空を切る。
「くそっ、速ぇな!」
息を切らしながら笑うだいすけの声を背に、
俺はあかねちゃんのもとへ全力で走った。
だいすけが鬼を降り、次の鬼に名乗りを上げたのはなおだった。
運動神経抜群のなおは、最初から本気モードだ。
地面を蹴る音がまっすぐ近づいてくる。
「まてまて〜!」
「やだー! なおちゃん速いー!」
あかねと手をつなぎながら笑って逃げる。
スカートの裾がひらひら舞って砂が足もとで跳ねた。
れいかが木の陰からのんびり手を振る。
「なおー、こっちですよ〜」
マイペースに笑っていてぜんぜん逃げる気はなさそうだ。
なおは笑いながら方向を変える。
その瞬間、少し油断していたあかねをターゲットに定めた。
「え? え?」
どっちに逃げようか迷っているあかねに、なおが一気に距離を詰める。
「つかまーえた!」
あかねが肩を軽くタッチされ、「やられた〜!」と両手を上げた。
笑いながらそのままあかねが鬼になった。
その瞬間あかねちゃんの空気が一変する。
笑顔だけは先ほどのまま目だけがきらりと光った。
「つ〜かま〜え〜ちゃ〜うぞ〜! み〜ゆきちゃ〜ん!」
「うわっ!なんで私ばっかり!」
「だって〜みゆきちゃん捕まえたら楽しそうなんだもん!」
(理由が理不尽すぎる!)
あかねが一直線に突っ込んでくる。
その勢いはもはやスポーツ選手のダッシュだ。
「ま、待てって! 話せばわかる!」
叫びながら俺は砂の上を滑るように走った。
あかねのスカートがひらりと舞う。
後ろから「きゃー!」「がんばれー!」と声援が飛ぶ。
れいかが木の陰で手を振り、やよいが笑いながら息を弾ませている。
なおは両手を膝につきながら「みゆき速っ!」と笑っていた。
(なんだよこれ……全員笑ってるだけなのに、こんなに楽しいなんて)
校庭じゅうに響く笑い声。
頬にあたる風、跳ねる砂、汗の匂い。
どれもが懐かしくて、まぶしい。
「み〜ゆ〜き〜!」
「ひゃー! 来たーっ!」
あかねの手があと少しで届きそうになって――
キーンコーンカーンコーン。
チャイムの音が校庭に響いた。
「えー!もう終わりー!?」
「あとちょっとだったのにー!」
あかねが砂の上に座り込み、なおが隣で笑い転げる。
だいすけは「次こそ勝つ!」と拳を突き上げ、
あゆみも「もう手が砂だらけ〜!」と泣き笑いしていた。
俺も膝に手をついて、空を見上げる。
……あれ?三十分も走ったのに、全然息が上がってない)
(改めて子どものスペックって……すげぇな)
春の風が髪をくすぐる。
太陽は高く、空は透き通るように青い。
あかねが横で笑って、みんなが笑って――その光景を見ていたら、
胸の奥がふわりと温かくなった。
(仕事でも、こんなふうに笑えたらよかったのにな)
(あの頃は、笑う余裕すらなかったんだ)
でも今は違う。
こんなふうに誰かと笑いあえることがこんなにも心地いいなんて。
あかねが隣で息を整えながら笑いかけてきた。
「みゆきちゃん速かったね〜!」
「え?あ、うん……ありがと」
思わず笑い返す。
手のひらにはさっきまで繋いでいたあかねの温もりが残っていた。
それを確かめるようにそっと指を握る。
ほんのりとした温かさが胸の奥に広がった。
(……こういう時間が、いちばん幸せなんだろうな)
チャイムの余韻の中、小さく息をついて立ち上がった。
「は~い掃除の時間ですよー!」
先生の明るい声が校庭に響く。
子どもたちは「はーい!」と返事をして、
名残惜しそうに砂まみれの足をぱたぱた払いながら校舎へ戻っていった。
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チャイムが鳴り終わるころ。
みんなは砂まみれのスカートやズボンをパンパンはたきながら教室に戻ってきた。
「つかれたー!」「でも楽しかったねー!」
あかねちゃんが笑いながらほうきを取り出す。
(……掃除、か)
サラリーマン時代は“誰かがやってくれて当たり前”だった。
オフィスの床も、デスクの上も、いつのまにかきれいになっていて、
それを「仕事のうち」だと思ったことなんて一度もなかった。
でも、いま——子どもたちが小さな体で一生懸命に机を動かし、
ほうきで床を掃いている姿を見ていると、
(なんか、いいな……)と自然に思えた。
「みゆきちゃん、こっち手伝ってー!」
「うん!」と返事をしてちりとりを手に取る。
みんながはしゃぎながら動き回る。
「ちょっとー! そこまだ残ってるよ!」「ちょっと男子ー!」
笑い声と机の脚を引きずる音が重なる。
ただ床を掃いてるだけなのになんだか文化祭の準備みたいに賑やかだった。
(掃除なんてただ面倒くさいだけだと思ってたのにな)
(みんなと一緒にやるだけでこんなに楽しく感じるなんて……)
雑巾を手にとって床を拭く。
冷たい感触とともに、木の香りがふわっと立ち上がる。
(うわ……懐かしい。昔もこうやってやってたっけ)
「みゆきちゃん、黒板お願いしていい?」
あかねちゃんがモップを抱えながら声をかけてくる。
「うん、わかった!」
背伸びをして、黒板の上のほうまで手を伸ばす。
雑巾の端から水がぽたぽた落ちるけれどそれが妙に心地いい。
「高いとこ届かないでしょ、みゆきさん」
後ろから先生が笑いながら近づいてきて黒板の上部を拭いてくれる。
ふと目が合って——先生がふわりと微笑んだ。
(……やばい。照れる)
顔が熱くなるのを感じてあわてて視線をそらす。
(ち、違う!そういう意味じゃなくて!)
あかねちゃんがすぐ横で笑っていた。
「あ、みゆきちゃんまた照れてる~」
「そ、 そんなことないもん!」
ごまかし笑いをしながら、雑巾をもう一度ぎゅっと絞った。
掃除が終わって、机を並べなおす。
窓の外から光が差し込んで、床の木目がつやつやと光っていた。
きれいになった教室を見回すと、
心の中まで少しすっきりしたような気がした。
みんなとやるなら掃除も悪くないなと思った。
具を片付けていると「帰りの会はじめますよ~」という声が聞こえてくる。
教室中がぱっと明るくなって新しい午後の時間がゆっくりと動き出した。
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「は~いみなさん、今日も一日よくがんばりましたね~」
先生の明るい声に、教室のあちこちから拍手が起こる。
平和だ。
「みんな忘れ物ないようにね〜! 明日は体育があるから体操服持ってきてね」
「はーい!」と元気な返事が弾む。
机の中からランドセルを引っ張り出す音、椅子を引く音、笑い声。
この雑多なざわめきがなんだか心地よい。
俺は手帳代わりの“連絡帳”を閉じてランドセルに入れた。
(昔は仕事のメールと会議や仕事のスケジュールばっかり書いてたのにな……)
もちものの欄に“体操服”と書かれたメモを見ながら、ふふっと微笑んだ。
黒板の端に書かれた「今日のひとこと」には、先生のやさしい字でこうあった。
“今日も笑顔でありがとう”
それを見ているだけで胸の奥がほっとあたたかくなった。
教室を出ると廊下には下校のざわめきが満ちていた。
ランドセルを背負った子たちが列をつくって外へ出ていく。
あかねちゃんが軽い足取りで隣に並ぶ。
「みゆきちゃん、今日も楽しかったねー!」
こくりとうなずくとあかねちゃんがにっこり笑った。
「ねぇねぇ明日も鬼ごっこしようね! なおちゃんも言ってたんだ〜!」
「うん、そうだね」と自然に言葉が出た。
少し前まで子どもたちと走り回るなんて考えもしなかったのに。
校門を出るとまぶしい太陽の光が地面を金色に染めていた。
砂ぼこりもその光を反射して空気まできらきらして見える。
あかねちゃんがスキップ気味に前を歩いては、くるっと振り向く。
「ねぇ、みゆきちゃん!」
「ん?」
あかねちゃんはランドセルを揺らしながら、ちょっと顔を近づけてくる。
「今日さ、何か予定ある?」
「え? えっと……帰って宿題くらいかな?」
少し考えるふりをして、空を見上げる。春の雲がゆっくり流れていく。
その間も、あかねちゃんはじっとこっちを見て、口をむにっと結んでいた。
「じゃあさ!」
思い切ったように、ぴょんと一歩前に出て言う。
「うち、来て遊ぼ! いいでしょ?」
「えっ?」
一瞬、脳が止まった。
(お、おい……女の子の家に遊びに行くって……あれだろ? あの、恋人の部屋に行く感じ……?)
(いやいやいや! 違う! 今は小学生だし!)
「いいの? ほんとに?」
声が少し上ずる。あかねちゃんは笑って両手を腰に当てた。
「もちろん! だって、もうお友達でしょ?」
その一言に、胸がどくんと鳴る。
(“お友達”……そうか。そうだよな。これ、恋愛とかじゃなくて……)
(でも、なんだこの胸の高鳴り……? 混乱する……)
あかねちゃんは通学路の角を指さして言う。
「じゃあさ。朝会ったとこの分かれ道!あそこで待ち合わせしよ!いい?」
ランドセルと一緒に髪のリボンも楽しそうに弾む。
ちょっと遠慮気味にこくりとうなづく。
「やったー!」
あかねちゃんは小さくジャンプしてランドセルを揺らした。
その動きがあまりに自然で、俺はなぜか目をそらしてしまった。
(いやなに照れてんだ俺は。相手は小学生だぞ!?)
わかっていても口元がゆるむのを止められない。
胸の奥がふわっと温かくなった。
「またあとでね!」
手を振るあかねちゃんの背中が、角を曲がって見えなくなる。
その姿を見送りながら俺はぽつりとつぶやいた。
「女の子の家に遊びに行く……か」
なんか変な感じだ。
”女の家に行く”って……恋人っぽいっていうか......いやそうじゃないだろ。
俺たちは子ども同士だぞ?そんなことあるわけないだろ。
......たぶん、な
胸が少しだけ高鳴る。
懐かしさと新鮮さが入り混じったような不思議な感覚。
経験があるのかないのか、自分でもよくわからない。
でも悪くない。それだけははっきりしていた。
マンションの階段を上ると、春の日差しがまだ窓の奥に残っていた。
時計の針は二時を少し過ぎたところ。
ランドセルの重みが、今日一日の余韻みたいに肩にのしかかっている。
玄関のドアを開けると、炒め物の匂いがふわりと漂った。
靴を脱ぎながら声をかける。
「……ただいま」
台所の方から軽い調子で返ってくる。
「おかえり、早かったじゃない」
まな板の上で包丁の音がトントンと響いていた。
少しだけ言いにくそうに廊下に立ったまま口を開く。
「あ、あの……このあと、ちょっと出かけてきてもいい?」
包丁の音が止まる。
「いいわよ。ひとり? どこか行きたいとこあるの?」
「ううん……お友達のうち」
「まぁ!」と小さな感嘆と一緒に母親の顔がぱっと明るくなる。
「もうそんなお友達ができたのねぇ」
それだけ言うとまたまな板に向き直り、
「気をつけて行ってきなさいね」と軽く付け足した。
俺は「うん」とだけ返して部屋に戻りランドセルを下ろす。
制服のボタンを外してハンガーにかけると、窓の外から鳥の声が聞こえた。
(……ほんとに行くんだな、友達の家)
なんだか胸の奥がそわそわする。
嬉しいような。落ち着かないような。
視線を横に向けると鏡の中の俺がこっちを見ていた。
そこにはショートカットの小さな女の子が自信なさそうに笑っている。
でもその女の子の後ろでネクタイを締めた中年のオッサンが腕組みして立っていた。
そういえば――
クローゼットを開く。
「女友達の家ってどんなの着ていけばいいんだ?」
鏡の中の俺が首をかしげる。
その後ろでネクタイを締めた中年のオッサンも一緒に首をかしげていた。
つづく
3話は小学生「を」学ぶ。小学生として学校の授業を受ける中でいろんな発見をする。
4話は小学生「に」学ぶ。小学生の友だちと喋ったり遊んだりする中でいろんな発見をする。
そんな対比を描きたかった(技量不足は認める)
次回。5話 オッサン、おしゃれになる




