5 少しずつ近づく距離
美術準備室。美術史の本や有名作品のレプリカが並ぶが、道具や材料は少ない。教師たちの好意で、ここはほとんどエレオノーラ専用の作業場となっており、机の上には彼女の私物の道具が整然と置かれていた。
せっせと手を動かしていると、廊下から男子生徒たちの声が聞こえてくる。
「見ろよ、あの不気味な色」
「ニンジャなんじゃないかってさ。異国の暗殺者だってよ」
「暗殺者ぁ? じゃあ俺たち夜中に殺されてるかもな!」
「馬鹿言え、あんなの猿だ、猿」
下品な笑い声が響く。
不気味な色? 異国? 不思議に思ったエレオノーラは、彼らの声が遠ざかってからそっと扉を開け、廊下を覗いた。
そこに――白髪の少年とその付き人の歩く姿があった。
「あ……」
エレオノーラと視線が合うと、少年はぺこりと頭を下げる。付き人もそれに倣った。
「先日は、失礼した」
「あの……わたしはエレオノーラ・アルハイタム・フォン・リリエンタールと申します」
少年の凛々しい眉がわずかに動く。
「リリエンタール……侯爵様? あ……私は景綱・オートモ・フォルステン。リリエンタール侯爵様には会った。とても良い人、でした」
そのとき見せた優しい笑みに、エレオノーラは雷に打たれたような衝撃を受ける。
「か……可愛すぎる」
堪えきれず、その場にうずくまってしまった。
「お前……大丈夫か?」
景綱が少し腰を曲げ、手を差し伸べる。先日エミリアに「異性に安易に触れるな」と叱られたことが頭をよぎるが、「エスコートは良し」とも言われた気がする。意を決して、その手を取った。
彼の手は大きくて温かく、思ったよりも力強く引き上げられる。
「顔、赤いが……大丈夫か?」
顔が赤いと指摘され、さらに真っ赤になる。それでも気合を入れて口を開いた。
「明日、お昼を……一緒に中庭で食べませんか? 王太子とエミリアも一緒ですが、ご紹介させていただければ……!」
「え?」
景綱は付き人と何やら異国の言葉で相談を始める。意味はわからなかったが、嫌な響きではない。やがて大きく頷き、きちんと向き直った。
「招待を、受けます。明日、昼食時、中庭に伺う、します」
深々と頭を下げ、少年は去っていく。その背中を、エレオノーラは見えなくなるまで追い続けた。
◇◇◇
帰宅後、テラスでぼんやりお茶を飲んでいると、セレナとカミラが音もなく立った。
「お姉様」
「なぁに?」
「わたくし、カミラと」
「セレナは、お姉様を全面的に応援いたします」
「あら、ありがとう。ふふ」エレオノーラは笑った。双子は本当に可愛い。
「それでお姉様――挙式はいつにするご予定でしょうか?」
「私たちも、準備に励みたいと思います」
手にしたカップがカチャンと落ちた。
「な! な! な!」
「ご希望なら、私たちエレナお姉様の下僕が」
「景綱様とやらの身上を調べて差し上げます」
「あなたたちは下僕じゃなくて妹でしょう!? もう部屋に戻りなさい!」
「えー」
「あんまりです、お姉様」
わいわいと去っていく双子。その様子を遠くから眺めていた両親は、ひそかに会話を交わしていた。
「……もうお調べになったんでしょう?」
「当たり前だ」
娘たちが知らぬところで、親の目はすでに景綱の素性に届いていたのであった。




