16 東の海を越えて
舞踏会の熱気がまだ醒めやらぬ数日後。
図書館の特別閲覧室で、エレオノーラは景綱と向かい合っていた。
赤い瞳はいつになく真剣で、付き人三人も背後に控えている。
「……話さねばならぬことがある」
景綱は低い声で切り出した。
「私の国……君には名を告げても意味がない。東の海を越えた小さな国だ。
父はその地の藩主だった。私は、後継として育てられていた。
だが……父は異国の宗教に入れ込み、迫害を受け、家は追われた。
父は、私を生かすために、海に逃した」
短く途切れ途切れの言葉。けれど一つ一つが重かった。
「……だから、私は戻れぬ。
父の死も、国の行く末も……遠い異国で知らずに生きるしかない」
沈黙を破ったのは、背後の男だった。
年嵩の護衛、久蔵。これまでほとんど声を発したことのない男が、今は肩を震わせていた。
「若……申し訳……ございません……」
その声は嗚咽に濡れていた。
無念、悔恨、忠義――すべてが込められた涙だった。
景綱は静かに振り返り、「久蔵」と名を呼んだ。
「泣くな。お前たちを連れてきたのは父の命だ。……私の、誇りだ」
その言葉に久蔵は深く頭を垂れた。
◇◇◇
エレオノーラは胸を突かれる思いで二人を見ていた。
婚約破棄だの、新聞だの、評価されるかどうか――
自分が悩んでいたものが、いかに小さなことかを痛感した。
「……わたし、何を泣き言ばかり言っていたのかしら」
思わず口から漏れる。
景綱の赤い瞳が、彼女をまっすぐに射抜いた。
「貴女にだけは私がどこから来たのか……伝えておきたかった。
貴女は弱くない。描いてきた。その心は……強い」
エレオノーラは唇を噛み、スケッチブックを抱きしめた。
「わたし……もう“描きたいから”だけじゃなく、自分の足で立つために描くわ」
その言葉に景綱は静かに頷き、久蔵の嗚咽はなおも背後で続いていた。