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ゼロを超えて、君へ

特別医療棟の最奥。魔力隔離結界に包まれた部屋の扉を、レン=アルクライトは音もなく開いた。

眠るのは、副会長・カイル=ゼルクレイ。

あの圧倒的な威圧感も、鋭い言葉も今はなく、彼はただ静かに呼吸を繰り返している。

白く冷たい空気の中、レンはひとつ息を吐いた。

その視線の先にあるのは、ベッドに横たわる“シエラ=アルフィネの隣に立っていた存在”。


「……会長の、隣にいるのが……貴方である理由は、知っていました」


呟く声に、わずかな棘と寂しさが混じる。


「即効性に優れた言霊術。咄嗟の判断。洗練された戦術思考。会長にとって、貴方の力が必要だったことも……理解は、していました」


でも、と言葉が震える。


「同じく“言葉”に宿る力を扱うこの身でも、貴方の代わりにはなれないと、ずっと……わかっていたから」


魔導書《文刻録》を握る手に力が入る。


「それでも、わたしは会長に救われた。この力を受け入れ、“意味あるもの”にしてくださった。だから、誰よりも強く、誰よりも近くにいたいと……そう願った」


揺れる睫毛の奥に、静かに光が宿る。


「なのに、貴方は……彼に、リオ=バーンレッドに負けた」


言葉にした瞬間、胸の奥から冷たい火が灯る。


「“普通の少年”に敗れ、会長の期待を……傍を、明け渡すような真似を」


ぎゅっと魔導書を抱きしめるようにして、レンは目を伏せた。


「……もういいんです。貴方がどうであれ、わたしの想いは消えません」


静かに前を向く。


「リオ=バーンレッドは、きっとこれから会長の世界に踏み込んでくる。ならば……わたしが会長のために、あの男を討ちます。この身、この魔導書、すべてを賭けてでも――」


その瞳には燃えるような意志と、

たった一人の少女への絶対の忠誠、そして……恋慕があった。

無言で背を向け、扉へと向かうレン。

彼の中で、崇拝と恋が重なる少女《会長・シエラ》への想いは、今や戦いへの誓いとなった。

扉が閉まり、再び沈黙が戻る。

特別医療室にはただ、淡く脈動する魔力の光と、過ぎ去った少年の決意だけが残っていた。


人気のない夜の学園。

その静寂の中、生徒会室の扉を静かに開いたのは、書記・レン=アルクライトだった。

彼の手には、整えられた制服。顔には決意の色。

机に書類を並べ、月明かりの差す窓辺に立つ会長──シエラ=アルフィネが静かに振り向く。


「……レン?」


「会長。今宵、お時間をいただきたくて、まいりました」


シエラは目を細め、微かに頷く。

その双眸に宿るのは、圧倒的な威厳と静かな包容力。レンは一歩踏み出し、深く頭を下げた。


「まずは、会長の試合……素晴らしき勝利でした。やはり、会長こそがこの学園の象徴にして――我が理想です」


「……ありがとう。君の試合も見ていた。君らしい戦いだった」


その言葉にレンは一瞬、瞳を揺らす。そして、ほんの少し、口元を歪ませた。

レンは少し目を伏せた。

その胸の奥に沸き立つのは、愛情と、焦燥と、そして覚悟。


(……本来なら、このような形でお会いするべきではない。けれど……)


レンの拳が、微かに震えた。

言いたいことは喉まで出かけていた。

“あの男は、会長の隣に立つべき人間ではない”と。

“討ちます”と。


けれど、言葉にはしなかった。

それは、きっと会長が望む道ではないから。

だからこそ、レンは胸の内で――謝罪した。


(……ごめんなさい、会長。私は、生徒会の一員としてあるまじき行動をとります)

(でも……それでも私は、あなたの隣に立ちたい。そのためには、あの男を――)


「会長。どうか、私の勝利を……祈っていてください」


「もちろんよ、レン。君は君のやり方で戦えばいい。それでこそ、私が信じた書記だから」


(……信じてくださるなら、せめて……)


「ありがとうございます。……それでは、これで失礼いたします」


深く頭を下げ、会長に背を向けるレン。

その瞳は見えない。だが、その背は――たしかに、戦場へと向かっていた。


(あの男を討つことで、私はあなたの隣に立てるかもしれない)

(たとえ罰されても、蔑まれても……この想いは、きっと、曲げられない)


そう静かに誓いながら、レンは生徒会室を後にした。

月の光に照らされながら、密やかに、そして確かな決意と共に。


今日の激戦が終わり、夕暮れが学園を淡く染めていた。

石畳を照らす橙色の光の中、リオ=バーンレッドは片手を振りながら、意気揚々と隣を歩く少年に声をかける。


「ユエ! せっかく準決勝に進めたんだ、今日は祝勝会でもしようぜ!」


「え、でも、僕は何もしてないし……でも、そうだね…お祝いしよう」


うつむき気味のユエ=クレストは戸惑いながらも、頬にうっすらと笑みを浮かべた。

以前なら決して見せなかった表情だった。彼の心にも少しずつ変化が芽生えていた。

その時、不意に目の前から歩いてきたのは、氷のような雰囲気を纏った少女――レイナ=シュトルツ。


「おい、レイナ。ちょうどいいところに。今からユエと祝勝会やるんだけど、お前も来ないか?」


「はぁ? 次の対戦相手と一緒に祝えるわけないでしょ。なに考えてるのよ、アンタ……」


眉をひそめ、冷たい口調で返すレイナ。

そんな中、ひょいっと間に割って入ってきたのは、鮮やかな髪を揺らし、アイドルのような笑顔を浮かべる少女――ミア=シェリル=フォン・ステラミューズ。


「えーっ! レイナも来るなら私も行きたいなーっ☆」


「は? 私は行かないって……」


「ええ〜? でも今日のバトル、すっごく楽しかったじゃない! もう、レイナの氷、最高にクールだったし! ね、ね? 私たち、友達になろうよ♪」


「……誰があんたなんかと……」


呆れたように視線をそらしつつも、レイナの頬はかすかに赤く染まっていた。

それを見逃さなかったリオが、ニヤリと笑う。


「ま、決勝前にもう少し互いを知っておくのも悪くないだろ?」


「……別に、どうでもいいけど。あくまで、情報収集のためよ」


レイナはあくまで冷静を装ったが、その声はいつもより少しだけ柔らかかった。


「じゃあ決まりだな。祝勝会、メンバーは俺とユエ、それに……ツンとアイドルのお二人さん!」


「誰がツンよ!!」


レイナの怒声が夕暮れの中庭に響き、ミアの無邪気な笑いがそれに重なる。


「よし、乾杯だ!」


「……まだ未成年なのに何に乾杯する気なのよ、バカ」


レイナの冷たいツッコミが飛ぶ中、リオが掲げたのは学園自販機で買った炭酸ジュースだった。


「準決勝進出に、だよ! それと、今日一日死ぬほど頑張った俺たちに!」


「……ぼ、僕は別に、そんな……」


「ユエ、今日は一発ぶちかましてただろ! もっと胸張っていいって!」


「……う、うん……ありがとう……」


少し照れたようにジュースを掲げるユエ。その隣では、ミアが満面の笑みで、ぴょんと跳ねるように声をあげた。


「はーい! ミアちゃんも今日という奇跡の日に乾杯っ☆」


「うるさっ……」


思わず眉をひそめるレイナだったが、その声はどこかほんの少し、笑っていた。

テーブルの上には簡単なお菓子やジュースが並び、ミアが持ち込んだスピーカーからは軽快な音楽が流れていた。

学園の一角とは思えない、まるでパーティのような雰囲気だった。


「ねえねえ、レイナってさ、ふだんはクールだけど、意外とノリいいよね! 今日の試合の時とか、めっちゃリズム乗ってたじゃん?」


「……あれはあなたのせいよ。変なテンポで攻めてきたから、合わせざるを得なかっただけ」


「えーっ、でも、めっちゃノってたよ? ていうか、ちょっと楽しそうだったよね?」


「た、楽しくなんか……あるわけないでしょ、バカっ!」


レイナがぷいっとそっぽを向く。ミアはいたずらっぽく笑い、ユエは微笑ましそうにそれを見つめていた。


「でも……なんか、こういうの、いいね」


ぽつりとユエがつぶやく。リオがそれに反応して、肘で軽くつついた。


「だろ? 戦いばっかじゃつまんねーからな。たまにはこういうのもいいんだよ」


「……うん、なんか、少しずつだけど……僕も、変われるかもって、思った」


「お、成長中のユエ君に、乾杯!」


「なっ……や、やめてよ、そういうの……!」


笑いがこぼれ、ジュースの缶がカチンとぶつかる。

そんな光景を、レイナはどこか不思議そうに見つめていた。


(……変わる、か)


口には出さなかったが、レイナの胸にもほんの少しだけ、なにかが灯った気がしていた。


ミアが歌うように言う。


「ねえレイナ、これからもいっぱい戦って、いっぱいおしゃべりして、仲良くなろ?」


「……別に、なりたくないとは言ってないけど……しつこいわよ、ほんとに」


「うんうん、それでいいの! 友達ってそういうもんだし♪」


賑やかな笑い声とジュース缶の音が飛び交う祝勝会。

ミアがユエにポテトスナックを押しつけてはしゃぎ、ユエが慌てて応じる中で、リオはふと手を止め、テーブルに肘をついて、ぽかんと空を見上げるように天井を見ていた。


「……」


そんな沈黙に、すかさず気づいたのはレイナだった。


「……なによ、あんた。いきなり静かになって。ジュース足りなかった?」


リオは顔だけ向けて、ぽつりと答える。


「いや……ちげーよ。なんかさ……すげぇ、幸せだなって思ってな」


「……はあ?」


「だってよ。本来なら俺たち、敵同士として出会ったわけじゃん? だけどこうして、戦ったあとにメシ食って、語り合って、笑いあってさ……」


「……」


「こいつらと、これからもこうして一緒にバカやったり、悩んだり、成長してくんだなって思ったら……なんかさ、じんわりきちまったってだけだよ」


レイナは呆れたようにため息をひとつ。


「……なにセンチメンタルになってるのよ。まだトーナメントは途中よ。私はまだ――あなたの敵なんだから」


「……ああ、ちがいねーや」


リオは、苦笑いを浮かべた。

だけどその横顔には、敵と呼ばれようが、拳を交わした相手とこうして肩を並べられる喜びが確かに滲んでいた。

それを見たレイナは、ふいに少しだけ、視線を外すようにして言った。


「……まあ、そういうのも、悪くないわね」


祝勝会は終わり、騒がしかった会場に残るのは飲み残しのカップと、まだ熱の余韻を残した空気だけ。


「……さて、そろそろ帰るか」


リオ=バーンレッドは、肩にかけた上着を軽く直しながら、一人人気のない通りを歩いていた。街灯の明かりが、夜風にそよぐ彼の髪を照らす。

歩きながら、ふとさっきまでの光景を思い出す。

ミアの無邪気な笑顔、ユエのぎこちないながらも嬉しそうな表情、レイナの照れ隠しのツッコミ。

――ああ、なんかいい時間だったな。

誰にも言わずに、胸の奥で静かにそう思う。

そして、ゆっくりと拳を握った。


「明日も……負けらんねぇな」


その瞬間――。


「静かな夜ですね、リオ=バーンレッド」


不意に、背後から声がかけられた。


「……誰だ?」


振り返ると、そこに立っていたのは、落ち着いた雰囲気の銀髪の少年。整った顔立ちと淡々とした目元。だがその奥には、燃えるような何かを宿しているのをリオは直感する。


「レン=アルクライト。生徒会書記です」


「生徒会……? お前が?」


リオは一歩だけ警戒するように間合いをとる。レンはその動きに何の反応も示さず、ただ静かに言葉を続けた。


「突然すみません。ですが、あなたと……少し話をしたいのです。場所を変えましょう。ここでは少々、話しづらい」


その表情はあくまで冷静。だがその瞳は、どこか決意を宿した光を湛えていた。


「……なんなんだ、一体」


警戒しながらも、リオはその提案を受けようとしていた。

何かを――感じ取っていたのだ。こいつが、ただの話のためだけに現れたわけじゃないということを。




学園の空が夕焼けに染まり、祝勝会の賑やかな声が遠くから響いていた頃——レン=アルクライトは一人、静かに目的のために歩み初めていた。

その背に声がかかる。


「……レン。どこへ行くつもりですの?」


通路の影から現れたのは、ディア=クローデリア=ヴァン・エルツフェイン。金色の髪を揺らしながら、真剣な瞳でレンを見据えていた。


レンは立ち止まり、わずかに振り返る。


「貴女なら、もうわかっているはずです」


「……まさか、リオ=バーンレッドのもとへ?」


ディアの口調はあくまで優雅なものだったが、その奥には明確な咎めの気配があった。


「それがどれだけの影響を及ぼすか……生徒会に、いえ、シエラに。あなた、わかっていて?」


レンは静かにうなずく。


「……わかっています。それでも、やります。彼を倒すことが……会長のためだと信じているから」


「信じている? 愚かですこと。彼女が何よりも嫌うのは、あなたのように背中で語る“独善”ですわ」


ディアは一歩前に出て、声を強める。


「わたくしは、シエラの幼馴染で、彼女の唯一の友人として言います。彼女があなたに求めているのは“力”じゃない。“忠誠”でもありません。“信頼”ですのよ」


沈黙の中、レンはただ一点を見つめていた。


「それでも……僕は、彼を放っておけない。だからこそ……僕が止めなきゃいけないんです。罰なら、受けます。それでも……会長のために、僕は」


「……いいえ、あなたがそうするのは“会長のため”なんかではありませんわ」


ディアは目を伏せ、ふっとため息をついた。


「あなた自身のため……自分の信仰が壊されないために彼を討つ。そうなのでしょう?」


レンは何も言わなかった。ただ、わずかに黒髪が揺れた。

そして静かに、ディアの前を通り過ぎていく。


「……止めはしませんわ。でも、せめて……終わったら、彼女の目を見て、話しなさいな。それがあなたの、唯一の救いになりますわよ」


その背に、レンは返事をしなかった。

ただ一度、手を軽く上げて——夜の帳の中へと消えていった。




夜のトーナメント会場。照明は落ち、観客のざわめきもなく、ただ静けさと月明かりだけが残っていた。そんな中、リオ=バーンレッドとレン=アルクライトは、向かい合って立っていた。


「……ここを選んだのか」


静かに問いかけるリオに、レンはゆっくりとうなずく。


「はい。誰にも邪魔されず、真に向き合うには最適の場所です」


レンの黒髪が風に揺れ、その瞳には覚悟の光が宿っていた。彼は右手にそっと魔導書を広げる。そこには、すでにいくつもの詩文が綴られている。


「リオ=バーンレッド。あなたを討つことが、このトーナメントにおける私の目的です」


「……なんだと?」


リオが眉をひそめると、レンは一歩前に進みながら言葉を重ねた。


「あなたは副会長を打ち破った。そしてその拳は、敬愛する会長にすら届こうとしている。その存在は——生徒会、いや、この学園の秩序すら揺るがしかねない」


「秩序? ルール? そんなもんのために俺を消そうってのか」


「違います。私は会長を守りたいのです」


レンの声は静かだった。しかし、芯の通ったその語調には、一片の揺らぎもなかった。


「会長の隣に立つには、力がいる。私はあなたを超え、この手でそれを証明します。そして——あの方を守るために、あなたをここで排除する」


魔導書に書かれた文字が淡く輝き、レンの契約精霊インクルードが応えるように姿を現す。詩と文字の魔術、その陣がリオの前に展開されていく。

リオは拳を握りしめ、口元をゆがめて言った。


「やれやれ……本気で俺を潰しにきたってわけか」


「はい。全力で」


レンは物語を紡ぎ始める。静かに、詩を詠うように。


「神々の記した世界のはじまり。いま一度ここに綴ろう。栄光と滅び、そして“選別”の物語を──」


紡いだ物語が魔導書に記され、その言葉が光を帯びて空間に具現化する。炎が、剣が、獣が、レンの言葉と共に現実となって主人公・リオに襲いかかる。


「っ……!」


拳で弾き、跳ね、斬撃をかいくぐるリオだったが、その戦い方、その文脈に既視感を覚える。


「なんだこの力……こいつ、副会長の力と同じだな……!」


「いいえ」レンは静かに首を振る。


「“似て非なるもの”です。カイル=ゼルクレイ先輩の《言霊術》は、声と意志で言葉に力を宿すもの。でも、私の《文刻魔道アーク・インクルージョン》は――世界に物語を記し、因果を紡ぐ魔法です。彼のように即効性はありません。けれど、私は物語として、あらゆる運命を上書きできる」


「……そんなの、ただの言葉遊びだろ!」

リオが吼える。しかし、レンはどこまでも冷静だった。


「これは物語です。あなたが生徒会に混ざる結末など、私の描く世界には存在しない」

「あなたの拳が、会長に届くなどという未来――私は認めません」


魔導書が、再び光り始めた。次なる一節が、この戦いの“続きを”告げようとしていた。

レンは止まらなかった。

魔導書のページをめくり、指先で物語を綴る。


「――黒き狼が吠える時、嵐は咆哮し、刃は空を裂く」


詩のような言葉が魔導書の頁に刻まれると同時に、虚空から無数の風刃が生まれ、リオに襲いかかる。


「遅えよ」


リオ=バーンレッドは拳を振るい、正面からそれを砕いた。

風が爆ぜ、魔導の構文が霧散する。

破れたページがレンの足元に落ちる。

それでも彼は表情を変えず、次の魔法を紡ぐ。


「――雷鳴と共に羽ばたけ、空の覇者よ」


雷光を纏った幻獣が虚空に姿を現し、咆哮と共にリオへと突撃する。

だが、それさえも――


「拳にゃ、通じねえんだよ!」


一閃。リオの拳が雷の幻を打ち砕いた。

また一頁、魔導書が焼け、空に舞う。

レンの眉がわずかに動いた。

それでも彼は諦めない。魔導書を握りしめ、奥歯を噛みしめながら、心の中で呟いた。


(……わかっている。このまま戦っても、僕じゃ勝てない)


リオの拳は、言葉では届かない“真っすぐさ”を持っていた。

どんな物語も幻想も、彼の拳が現実でねじ伏せてくる。

それは言霊の主ウィゼリアと契約するカイル=ゼルクレイ、副会長すらも凌駕した力――

レンの指が一瞬止まり、焦げかけた魔導書の残りページを見下ろす。

もう多くは残っていない。


(僕が……会長の隣に立ち続けるためには……ここで、倒れてはいけない)


彼は顔を上げた。そこに迷いはない。


「まだだ……!」


リオに向き直り、声を張る。


「“英雄は最後に勝利する”。物語ってのは、そういう風にできてるんだ……!」


傷ついた身体でもう一度構える。

傷ついた身体を支えながら、彼はふと目を伏せた。

だが次の瞬間、指先が別の印を描く。


「《インクルード》……力を貸してくれ。次は“読む”番だ」


淡い光がレンの背後に浮かび上がる。

それは彼と契約した精霊、記述と具現の力を持つ《インクルード》がその真価を解き放つ兆し。


「俺のもう一つの力。これは“読む”魔法だ――お前の過去を、記憶を、魂ごと、すべて」


リオの動きが一瞬止まる。


「……なんだと?」


レンの魔導書が幽かに震え、ページが一枚、静かにめくられた。


「《読み解きの章――記憶解凍メモワール・リコール》」


その瞬間、空間が歪む。


リオの視界が、音も色もすべてを失ったかのように白く染まっていく。

身体が宙に浮くような感覚。足場がない、空気がない、感覚すら希薄になっていく。


――気づけば、そこは“何もない”場所だった。


真っ白な部屋。床も天井も壁もない。

ただ、果てしなく広がる無機質な白の空間。


リオの目の前に、幼き日の自分がいた。


まだ力もなく、小さな手で何かを掴もうと伸ばしている――

だがそこにあるのは何もない空虚。

そしてその虚無を取り巻くように現れる、白衣の男女。


「リオ、おはよう」「今日も元気ね、リオ」


優しく、どこか歪な笑顔。

しかし、彼らの声には温度がなかった。


「……これは、俺の……?」


目を見開いたリオがつぶやく。


「お前の過去。お前の心が隠してきた“原点”だ」


背後から声をかけるレン。

リオは振り返るが、そこにいるレンは現実ではなく、記録の語り部として立っていた。


「お前は、研究体だった。最初から、人として生まれたわけじゃない。

この力――今契約している精霊を宿す“器”として造られたんだ」


レンの声が静かに響く。


視界に映る幼いリオは、ただただ“幸福”だった。

何もない空間に、何も知らないまま育てられ、

笑顔を向ける“父”と“母”に微笑み返していた。


「この部屋の外を知らなかった。空も、風も、太陽も。朝も夜も、痛みも怒りも、全部……与えられなかった。“理想の家庭”を演じる彼らが与えたのは、ただの舞台。お前の心が、現実を直視しないように創られた夢の世界だったんだ」


リオは目をそらそうとする。


「やめろ……そんなもん、もう必要ない……!」


――それは、偶然だった。


ある日、ただの遊び心だった。

何かを壊してみたかったわけでも、外に出たかったわけでもない。

ただ、手のひらに集まった「ちから」を、試してみたくなっただけだった。


「えいっ」


幼きリオの掌から、目に見えぬ衝撃が走った。

次の瞬間、白い空間の一角が崩れ去った。

壁に穴が空いた――それは、たった一撃で幾百もの防壁を穿つ、絶対の破壊。

白く塗り固められた空間がひび割れ、光が差し込んだ。

初めて見る“光”だった。

暖かく、柔らかく、そして――本物だった。


「……外?」


その向こうにあったのは、青い空、風の音、草の匂い。

全てが“知らなかったもの”だった。

だが、それと同時に、全てを悟った。

部屋の外は……無人だった。

静まり返る研究所。

すべての機器は停止し、電源も落ちている。

そこに“パパ”も“ママ”もいなかった。


「……なんで?」


部屋に戻る。

だが、そこにも誰もいない。


「……さっきまで、一緒にいたのに……?」


辺りは静寂に包まれていた。

そして現れる、リオの中の声。

低く、囁くように。


「人は欺く生き物だ。真実など重すぎて、誰も見たがらない。だから仮面を被る。嘘の中で生きる。お前は、選べ。偽りを受け入れるか、孤独に耐えるか。」


リオが宿していたのは、最強の火の精霊――《イグニス》。

だがその力は、あまりにも苛烈で、あまりにも真っ直ぐで。


「……俺は……」


幼いリオは、拳を握りしめた。


「正直に、生きたいだけなんだ……!」


人の嘘が怖かった。愛されることが怖かった。

それでも信じたいと思った。誰かと繋がれる未来を、心から求めた。


「もし“本当”があるなら、俺は……それを掴みたいんだ!」


その想いが、今のリオ=バーンレッドを形作った。

孤独の中で、それでも信じることを選んだ少年。

それが、今、レンの前に立つ「リオ」の本質だった。


トーナメント会場の中央、夜風が吹き抜ける静寂の中。


「……これがお前の過去か」


レン=アルクライトはそう呟いた。黒髪が風に揺れ、その眼差しはどこか哀しみを湛えている。


「人の過去を……盗み見てんじゃねぇよ。陰険な野郎だな……」


リオ=バーンレッドの声は震えていた。怒りなのか、羞恥なのか、それとも心の奥に渦巻く何かに引き裂かれそうなのか――。


「……そうだな」


レンは微かに笑った。決して嘲笑ではなく、ただ静かに、事実を受け入れるように。


「だが――俺の精霊インクルードの力は、“物語”を読み、そして紡ぐ。お前の魂の奥底……記されるその物語を見ずして、俺は、お前に届かないとわかっていた」


リオの拳が震える。

その過去を知られたという事実。

己のすべてを曝け出されたという屈辱。

それよりも――あの白い部屋と、偽りの家族を思い出してしまった心の動揺。


「……クソッ」


苦しげに呟いたリオに対し、レンは静かに魔導書を広げる。

焦げ跡のついたページの間に、まばゆい光が差し込んでいく。


「お前は、“本当”を求めた。ならば俺は――その願いに、別の“結末”を与えるために、物語を綴ろう」


黒き羽のようにページが宙を舞い、空間がねじれる。


「……《アーク・インクルージョン》第八章――『願い、白き虚構の檻に還る』」


レン=アルクライトが口にした瞬間、空間に奔る魔力の波動。

リオ=バーンレッドの身体がぴくりと震えた。胸の奥――いや、魂の核に、何かが入り込んでくる。


「……ぐ、ああっ……! な、んだ……これ……!」


足元が揺れる感覚。

視界が、音が、感情が、まるで自分のものではなくなっていく。

焼け付くような違和感と同時に、心の奥から優しい風が吹いた。


――「おかえりなさい、リオ。夕食ができてるわよ」

――「今日はね、お父さんが一緒に本を読んでくれるんだ」


幻のように浮かび上がる、偽りの“家族”。

だが、それはたしかにあった“記憶”でもあった。

レンが見つけた、ほんの小さな――しかし確かに存在した“想い”。


「……“あの時間が続けばいいのに”。お前の中にあった小さな願い。偽りと知りながらも、幸福にすがりたかったお前の本音」


「やめろ……っ、やめろぉ……!!」


リオの身体が震える。

《イグニス》の炎が暴れ、抗おうとする。

だが、魂そのものが――“物語”として書き換えられつつあった。


「その願いに応えるのが、俺の“真の力”……物語の書き換え。お前の魂に宿る過去をなぞり、可能性を描き、今という存在に干渉する――」


ページの文字が赤く輝き、リオの体が熱を帯びていく。

痛みではない。

ただ、懐かしい温もり。

“嘘”だと知っていても、心を縛る温もり。


「リオ=バーンレッド。お前の拳は正直だ。誰よりも真っすぐだ。だが――“正直さ”だけでは守れないものもある。この世界には、“嘘”が優しさになることもあるんだ」


「っ……あ、ぐ……ああああああっ!!」


リオ=バーンレッドの体が、引き裂かれるように軋んだ。

肩から腰にかけて、まるで別人のようにその肌が変色していく。

肉体だけではない。魂の根幹が――“存在”そのものが、上書きされていた。


「望んだだろう、あの幸せを。偽りでも、お前が欲した光景だ……ならば戻れ、永遠に――過去へ!」


魔導書を開きながら、レンが詠唱を続ける。

空に文字が浮かぶ。流麗な詩文が魂を削る鎖となって、リオを絡めとる。


「やめろぉおおっ!!」


リオは叫ぶ。だが、意識がもう自分のものでなくなっていた。

心に蘇る、柔らかな笑顔。あたたかい家庭。母の手、父の声。

すべてが偽り――それでも、確かに“幸せ”だった時間。


「……ちがう、オレは……オレはッ!」


そのとき。


《――立て、リオ》


脳裏に響いたのは、燃えるような声だった。


「イグ……ニス……!」


リオの体から、紅蓮の炎が立ち上がる。

その中心に立つのは、彼と契約した最強の火の精霊――《イグニス》。


「過去は変えられぬ。だが、お前は進む中で確かに掴んできただろう。一時の幻ではない、本物の絆を。真の温もりを!」


その言葉に、リオの瞳が震えた。

脳裏に蘇るのは――ユエの笑顔。ミアの歌声。レイナの皮肉交じりの言葉。

皆で囲んだ食卓、笑い合った祝勝会。仲間と呼べる人たちとの時間。


「……ああ……そうだ、オレは、手に入れたんだ……。偽りじゃねえ、全部……本物だ!」


その瞬間、リオの全身に赤き魔炎が走った。

書き換えられていた体の半分が、一気に元の自分へと戻っていく。


「なっ――なぜだ! なぜ拒める!? 魂はお前が望んだ真実を受け入れていたはずだッ!」


動揺するレンが、ページをめくる手を止める。

だが、リオは静かに一歩を踏み出した。


「……ありがとうよ、レン。

 おかげで、ちゃんと思い出せた。オレが……どう生きたいかを」


その拳に、紅蓮の火が宿る。

魂を燃やすような焔――それはもう、過去の囚人ではない男の、未来への決意だった。

——たしかにあった、偽りの幸せ。

けれど、今の自分が歩いてきた日々も、出会った仲間たちとの時間も


 「……全部、本物だって、俺は信じてる!」


拳に想いを込めると、契約精霊イグニスが赤々と燃え盛る。

その輝きは、決して過去に囚われず、未来を掴もうとする意志そのもの。

一方、レン=アルクライトは唇を噛み締める。


「くっ……! なぜ……抗える……!? 魂を、存在ごと書き換えたはず……!」


だが、怯んではいられない。

彼もまた、己が信じる正義と敬愛する“あの人”のために、ここに立っているのだ。


「僕には……譲れない理由がある……!」


魔導書インクルードが悲鳴を上げる。

力の代償として、紙片が燃え、黒灰と化して散る。

レンはそれでも最後の一撃を紡ぎ出した。


「《終章幻想・ラストテイル》——!」


物語の結末を叩きつけるような一撃が放たれる。

それを、リオは紙一重で回避した。


「これが……俺の!未来だああああああッ!!」


灼熱を帯びた拳が、レンの懐に突き刺さる。

瞬間、時間が止まったかのような静寂が訪れ、次いで——轟音と共にレンの身体は後方の壁へと吹き飛ばされた。

壁に激突し、崩れ落ちるように倒れるレン。

視界が暗転する中、彼の脳裏に浮かんだのは、たったひとつの面影。


——あの凛とした横顔。

——誰よりも気高く、誰よりも遠かった存在。


「……会…長……」


小さく呟いたその言葉を最後に、意識は闇へと沈んでいった。

トーナメント会場に、決着の静寂が広がる。

激闘の果てに訪れたのは、深く重い静寂だった。砕けた床に、散った魔力の残滓がほのかに揺れる中、リオは荒く息を吐きながら拳を下ろした。その時——静かに足音が響く。

現れたのは、月光のように気高く、氷のごとく静謐な少女。生徒会長にして、学園最強のゼロ——シエラ=アルフィネだった。


「……あんたは……?」


リオは驚きに目を見開き、咄嗟に身を起こす。だが、彼女は一瞥もくれず、静かに倒れたレンに歩み寄ると、その細い腕で彼を抱き起こした。


「ちょっと待ってくれ!」


思わず叫ぶリオ。その声に足を止めたシエラの背は、まるで月に背を向けた女神のように、冷ややかだった。


「今回のこと、謝罪するわ。レンの行動は、生徒会として許されるものではない……」


「そんなのどうでもいい!」


リオの声は怒りでも咎めでもなかった。揺れる瞳の奥には、ただ——届かぬ想いだけがあった。


「俺は、あんたに伝えたいことがあるんだ!」


だが、シエラはその言葉に振り返ることなく、静かに言う。


「……あなたは、まだ“私の前”には立っていない。」


「私に伝えたいことがあるというのなら、勝ち上がること。強さを証明して、正面から私に届かせて。」


そして、


「——私は、その先で待ってる。」


その言葉だけを残して、彼女はレンを抱えたまま静かにその場を後にした。

去っていく背中を、リオは拳を握ったまま見つめていた。

——必ず、あの背中に追いついてみせる。真正面から向き合い、想いをぶつけてみせる。

心の中で、炎が再び燃え上がった。リオ=バーンレッドは、静かに、しかし確かに、決意を固めた。


翌日。トーナメント会場は朝早くから多くの生徒たちで埋め尽くされていた。昨日の激戦の記憶が、まだ熱を帯びたまま学園中に残っているようだった。ざわつく空気、熱気に満ちた歓声、開戦前だというのに観客席はすでに満席に近い。

そんな中、ユエ=クレストはひとり観客席の端に座っていた。今日はリオ=バーンレッドの応援に来た。けれど、その表情はどこか晴れない。胸の奥に、もやもやとした感情が渦巻いている。

──それは、今朝のことだった。

会場に向かう道中、リオとユエはばったりレイナ=シュトルツとすれ違った。リオが「よお」と軽く声をかけたとき、レイナはほんの一瞬、立ち止まった。けれど視線を向けることなく、そのまま歩き去っていった。冷たい横顔、凍てつくような表情。昨日の祝勝会で笑い合った、あのレイナの姿はどこにもなかった。


──そうだ。レイナは、今日の対戦相手だ。


「……あのときは、あんなに楽しそうだったのに」


ユエは膝の上でぎゅっと手を握る。トーナメントという舞台が、友情に割り込んでくる現実を、痛いほど感じていた。

そんなときだった。


「やっほー♪」


突然、背後から明るい声が飛び込んできた。驚いて振り返ると、そこにはキラキラした笑顔のミア=シェリル=フォン・ステラミューズがいた。その背後には、副会長のカイル=ゼルクレイ、そして金髪を優雅に揺らす会計のディア=クローデリア=ヴァン・エルツフェイン。


「えっ、生徒会の皆さん……!?」


ユエは思わず立ち上がり、そわそわと居住まいを正す。学園の中でもトップクラスの存在である生徒会幹部が、まさか自分の近くに来るとは思ってもいなかったのだ。


「今日はね、会長──シエラの応援で来たんだよ♪ どうせなら一緒に見ようよ!」


にっこりとミアが誘う。天然混じりの無邪気な笑顔が、張り詰めたユエの緊張を少しほぐした。


「そ、そんな、ボクなんかが……」


「別に、身分で席が決まってるわけじゃありませんわ。いまはただの観客ですもの。それに……」


ディアが口元を扇子で隠しながら優雅に言う。


「あなた、リオの応援に来たのでしょう? ならば敵味方、揃って観戦するのも、乙なものですわ」


「……!」


その言葉に驚きながらも、ユエは小さく頷いた。

こうして、ひとりぼっちだった観客席に、特別な空間ができあがった。生徒会幹部たちに囲まれながら、ユエは戦いの幕開けを静かに見つめる──その胸の中に、複雑な想いを抱えながら。


「おっはよーございますっ!!」


朝の空に響き渡るほどの、朗々とした声が会場に轟いた。明るく、快活に。そして何より、観客の心を掴むように。


「さあさあ皆さまっ、昨日の熱戦の余韻、まだ身体に残ってますよね!? わたくし司会進行、リリィ=グリモアが本日も全力で盛り上げてまいりますっ☆」


ステージ上に立つ小柄な少女が、満面の笑顔と共に声を張り上げる。その姿は、まさに学園のムードメーカー。


「まずは、昨日の素晴らしい激闘に拍手をっ!! どの試合も、手に汗握るバトルばかりでしたね! 勝った者も、負けた者も、それぞれが確かに輝いておりましたっ!」


観客席から拍手が湧き上がる。ひときわ熱かったバトルの記憶が、思い出される。中でも昨日の最終試合──生徒会長と会計による圧巻の一戦は、多くの者の心に刻まれていた。


「でも! まだまだこれで終わりじゃありませんっ! 激戦はまだ続いているのですっ!」


リリィがぐっと手を掲げ、会場の視線を一点に集める。


「ではっ! 本日、トーナメント二日目──開幕いたしますっ!!」


歓声がどっと沸く。会場の空気が一気に熱を帯びていくのが分かる。


「それでは、第一試合の選手をお呼びしましょうっ!!」


観客の視線が、闘技場中央へと向かう。


「まず一人目っ! 昨日、生徒会副会長を撃破し準決勝へと進んだ、豪快無比な拳の使い手! 燃え上がる炎を背負いし男! リオ=バーンレッドーッ!!」


ドオオオオオッ!!


炎を模した演出がステージ脇に走り、歓声が巻き起こる。その中を、まっすぐな眼差しを持った少年が歩く。迷いもためらいもないその足取りに、観客の視線が釘付けになる。


「そして対するは──昨日、ショーのような戦いで観客を魅了し、勝利を掴んだクールビューティー! 氷を操り、鋭き視線で敵を凍てつかせる──レイナ=シュトルツ!!」


舞う氷片のエフェクト、静かなる光の演出。その中から姿を見せるのは、冷たい瞳を宿す少女。昨日とはまるで違う、敵を見るような厳しい表情で現れた。


「熱さが勝つか、冷たさが貫くか──対照的な二人が織りなす、究極の属性対決!! みなさん、最後まで目を離さないでくださいねぇぇっ!!!」


リリィの実況に、観客席からどよめきが起こる。


「さあ、準備は整いましたっ! トーナメント二日目・第1試合──開始ですっ!!」


轟く鐘の音と共に、再び火花が散る。


観客席──


「俺を倒したのだから、リオ=バーンレッドに負けはないだろう」


副会長カイル=ゼルクレイは腕を組みながら静かに言い放つ。

すぐさま隣のミア=シェリル=フォン・ステラミューズが口を尖らせて割り込んだ。


「ちょっとぉ、カイル副会長。レイナちゃんの強さも侮れないよー?」


その視線が交わった瞬間、ふたりの目の間には火花が散るような緊張が走る。


「あ、あの……えと……」


圧に押されてユエ=クレストがあわあわと間に立つが、何も言えず目を泳がせる。


「まあ、どちらが上かは──終わったときにわかるでしょう」


ディア=クローデリア=ヴァン・エルツフェインが落ち着いた声で静かに呟いた。

その頃、舞台では──


「言ったでしょう? 私の強さ、あんたの身体に──刻みつけてあげるわ!」


レイナ=シュトルツが氷のように冷たくも熱を帯びた視線でリオを睨みつける。


「昨日はずいぶん楽しそうにしてたのにな。今日はえらく気合い入ってるな?」


リオ=バーンレッドがニヤリと笑って煽る。

レイナは少し俯いたあと、きっぱりと顔を上げた。


「……楽しかったわよ。でも、それとこれとは別。私は、全力で勝ちにいくから」


「そうかい」


リオはゆっくりと拳を握った。


「だが、俺は負けるわけにはいかないんでね──悪いが、勝たせてもらうぜ!」


その言葉に、レイナの眉がぴくりとわずかに動く。氷のような沈黙の中に燃える闘志。

──そして、鳴り響くリリィ=グリモアの声が、戦いの幕を開けた。


「準決勝第一試合ッ! リオ=バーンレッド VS レイナ=シュトルツ! バトル、スタートぉおおっ!!」


リリィ=グリモアの合図と同時に、レイナ=シュトルツが冷気を纏った指を振る。


「シルフィア=フロストルーン、お願い」


氷の精霊がレイナの周囲に淡い霜を撒き散らし、凍てつく紋章が空間を染める。

主人公リオ=バーンレッドの身体にわずかに重さがのしかかる。動きが鈍る──。


「……へへっ」


リオはそんな鈍化すらものともせず、口元を吊り上げた。


「こんなんじゃ、俺は止められねぇぜ!!」


全身を紅蓮の炎が包み、床を焦がしながら一気に突っ込む!


「来るっ!」


レイナは氷で錬成した剣を構え、真正面からその炎の一撃を受け止めた。

激しい衝突の衝撃が会場全体に響き渡り、レイナの身体がぐらりと横に押し流される。


「くっ……っ!」


吹き飛ばされまいと踏みとどまり、レイナはすかさず氷刃を幾つも展開し、鋭く撃ち出す。


「遅ぇよ!!」


リオの炎がそれらを包み込み、すべてを溶かし、かき消す。

氷の刃は溶け、水滴となって蒸気に変わるだけ──。


「防がれた……!」


レイナは眉をひそめる。攻撃が通じない。


「なっ、なんてパワー……! こ、これはすごい戦いになってきましたっ!」


司会のリリィ=グリモアがテンション高く叫ぶ!


「会場の皆さんも感じてますよね!? これはもう──準決勝じゃなくて、決勝戦クラスの熱さですよぉおおっ!!」


観客席からもどよめきと歓声が上がる。火と氷、ふたりの戦いにボルテージは急上昇していく──!

観客席にて、腕を組んだまま試合を見下ろしていた副会長カイル=ゼルクレイが、静かに口を開く。


「単純な話だ。氷の力で、今のアイツの炎を止めることなどできはしない」


その言葉に、隣で聞いていたミア=シェリル=フォン・ステラミューズが、ぷいっと横を向きながら頬を膨らませる。


「なによ、その言い方。レイナちゃんだって、簡単にはやられないよ」


「冷静な分析をしたまでだ」


「冷静すぎて感じ悪いのよ!」


ミアの抗議にも動じず、副会長は視線を前に向けたまま淡々と言い放つ。


ユエ=クレストは二人のやりとりに目もくれず、手を胸の前で組んだまま心配そうに試合を見つめていた。


「レイナさん……頑張って……」


そんな中、ディア=クローデリア=ヴァン・エルツフェインが優雅に髪をかき上げ、落ち着いた口調で言葉を差し挟む。


「確かに、相性を考えるならこの上なく最悪な相手ですわ。でも――それだけが勝敗を決するわけではありません」


その声は、まるで静かに試合の行く末を見守るような、深い信頼に満ちていた。

主人公の拳が火花を散らしながらレイナに迫る。凄まじい熱気が周囲を焼き、見る者すら息をのむ。レイナはその攻撃を氷剣で受け止めるも、激しい衝撃で体が横に弾かれ、何度も体勢を崩す。防戦一方のまま、氷で作った防壁は次々と砕け、地面にはひびが走り、観客の歓声が高まっていく。


しかし、そんな状況の中でも、レイナの瞳は光を失っていなかった。肩で息をしながらも、彼女の眼差しにはなおも闘志が宿っている。


「……あと、もう少し」


かすかに、だがはっきりと彼女はそうつぶやいた。


氷の力の真骨頂――それはただの冷気ではない。レイナは戦いの最中、主人公の動きに合わせるように精霊紋を刻んでいた。攻撃を凌ぎ、反撃のふりをしながら、わずかな隙に氷の印をフィールドに設置していく。その布石はすでに十二分に揃っていた。


「――フロストルーン・エンブレイス」


その言葉とともに、レイナの全身から冷気が一気に放出される。瞬間、会場の空気が凍りつき、地面が白く染まっていく。次々に氷の柱が競り上がり、観客席の外縁すらも凍気に包まれる。まるで一夜にして氷河期が訪れたかのように、トーナメント会場全体がレイナの空間へと塗り替えられていく。


その中心に立つレイナの銀髪が、冷気の中で舞い、精霊《シルフィア=フロストルーン》の紋章が淡く輝く。これは彼女だけの、絶対零度の領域。


「ここからが本当の勝負よ、リオ=バーンレッド!」


レイナの宣言に、氷と炎が再び激突するその瞬間を、観客は息を呑んで見つめていた。


「な、なんということでしょう! 会場が――凍りついていく!? まるで氷の聖域っ! これは……レイナ選手の領域展開ですっ! トーナメント初、空間ごとの制圧だなんて! しゅごいっ!」


司会のリリィ=グリモアが目を輝かせて叫ぶ。観客もざわつき、会場は一転して白銀の世界へと変貌した。


「こんなもん……どってことねーぜ!」


リオ=バーンレッドは拳に力を込め、いつものように火を灯そうとする。だが、何も起きない。


「なっ……炎が……出ねぇ……!?」


「無駄よ、ここは私の領域。あなたの炎は……もう届かない」


レイナ=シュトルツの声が冷たく響く。氷の紋章が浮かび上がる中、彼女は冷静に剣を構えた。


「だったら――拳でぶち破るまでだッ!!」


リオが叫び、正面から突っ込む。その一撃をレイナは軽やかにかわし、氷剣で切り返す。鋭い斬撃がリオの肩を裂いた。


「くっ……!」


体勢を崩すリオに、レイナの静かな声が刺さる。


「あなたの戦いは真っすぐ。だけど、その瞳は遠くの未来ばかりを見ている」


「未来を掴むことを……否定するのか……?」


「いいえ、否定はしないわ。未来を掴み取ることはとても素晴らしい。でも……」

レイナの瞳が真っすぐにリオを射抜く。


「上ばかりを見て、足元を見なければ、いずれ足をすくわれる。あなたの目には“今”が見えていないのよ」


氷の空間に、彼女の言葉が淡く、しかし強く響いた。


「未来を見据えなきゃ、今も変えられねーだろッ!!」


凍てつく空間の中、リオ=バーンレッドが叫ぶ。炎をまとおうとするが、拳には何の力も宿らない。


「今も見えていないあなたに……未来なんて訪れないわッ!!」


レイナ=シュトルツが声を張り上げ、氷の精霊紋を解き放つ。その瞬間、氷の波動がリオの身体を包みこみ、脚から順に凍結が始まった。


「ぐっ……!」


歯を食いしばり、どうにかして炎を灯そうとするリオ。しかし領域内では《イグニス》の力は封じられ、炎は影すら見せない。


観客席がどよめく中――


「きゃーっ! レイナちゃんカッコいーっ!」


ミア=シェリル=フォン・ステラミューズが歓喜に満ちた声で叫ぶ。嬉しそうに身を乗り出す彼女の隣で、副会長カイル=ゼルクレイは鼻を鳴らす。


「フン……」


その少し後ろで、ユエ=クレストが心配そうに試合を見つめていた。


「おかしい……いつもなら、あの人は……」


「心が……揺れているのでしょうね」


落ち着いた声でそう言ったのは、ディア=クローデリア=ヴァン・エルツフェインだった。


ディアは昨夜のレンとの戦いを知っていた。

だからこそ見えてくるものあるのだろう。


「心の核を揺さぶられた者が、すぐに立ち直れるとは限りませんわ。ですが――」


ディアは氷に包まれかけたリオの姿を、じっと見据える。


「ここで飲まれるようであれば……どのみち彼は、あの方の前に立つ資格などなかったのでしょう」


静かに、だが断言するその声には、冷徹さとほんのわずかな期待が混ざっていた。


「くそっ……なんで、炎が……出ねぇんだよ……ッ!」


凍りついた大地を踏みしめ、リオ=バーンレッドは呻く。震える手を握り、拳に力を込める。しかし、彼の背に宿るはずの《イグニス》の炎は沈黙を保ったままだ。


「負けるわけにはいかねぇ……!」

「オレは……過去を振り切って……未来に進むって決めたんだ……!」


焦燥に塗れたその姿を、レイナ=シュトルツは静かに見つめる。そして、ふっと息を吐いて言葉を紡いだ。


「――戦いのきっかけは、未来を掴むことだったかもしれない」


リオの目がわずかに動く。レイナの声は、まるで凍てついた空間に灯る火のように静かに響いた。


「でもね、リオ。今があるのは……その道を、戦いを、歩いてきたからじゃないの?」


「未来を視ることも、大事よ。でもそれ以上に――今を見なきゃいけないの」


「仲間を。ライバルを。……そして、私を」


その言葉に、リオははっと息を呑む。

心に刻まれる数々の記憶――

副会長カイルとの真っ向勝負。

レン=アルクライトの深き物語と、魂を揺さぶられた戦い。

そして、今――この瞬間、目の前にいるレイナ=シュトルツ。

すべてが、自分の「今」を作っている。


「……そうか」


ぽつりとこぼしたその言葉の直後、リオの内側から熱がこみ上げてくる。全身を駆け抜けるそれは、炎の精霊イグニスが再び応えるように――


「……ああ、そうだよ……オレは……」


赤き炎が拳に灯り、熱風が氷の空間を切り裂くように吹き荒れた。

――その拳が、再び燃え始めた。


「……すまないな」


静かに、しかし確かに言葉を吐くリオ=バーンレッド。目の前で構える少女の姿を見つめる。


「そうだよな。今、俺の前に立ってるのは――お前だよな。レイナ=シュトルツ」


彼の視線はまっすぐで、まるで過去でも未来でもなく“今”という時間そのものを貫いていた。


「だったら……今はお前を見るぜ」


リオは拳を握り直す。炎が再び燃え上がり、足元の氷を溶かしていく。


「全力で、真っ向から……!」


その叫びと、まっすぐ向けられる熱い視線に、レイナの心臓が一瞬だけ高鳴る。


「――っ!」


思わずドキッとしてしまった自分に気づき、頬がかすかに赤く染まる。しかしすぐに表情を引き締め、首を振るようにその感情を振り払う。


「……ええ!」


氷の剣を構え、鋭く声を張り上げる。


「来なさい、リオ=バーンレッド!」


展開していた氷の領域が静かに収束していく。空気中の冷気が渦を巻き、すべての氷がレイナの手元へと集まり始める。


「――これで終わりよ!」


レイナの叫びと共に、その手に現れたのは、全身全霊を込めて作り上げた絶対零度の氷剣。まさに彼女のすべてを注いだ最後の一撃。対するリオは拳を握り、炎を拳に宿しながら一歩を踏み出す。


「来いよ、レイナァァァァ!!」


炎と氷、灼熱と絶対零度が交差する。


二人がぶつかり合った瞬間、凄まじい衝撃波が会場を駆け抜け、爆ぜるような音と共に氷の領域が砕け、空間が白い霧と氷塵に包まれる。観客席からは思わず声が漏れ、司会のリリィ=グリモアも思わずマイクを握りしめたまま息をのむ。


「な、なんという激突……っ! これは……!!」


静寂と混乱が入り交じる空気の中、ゆっくりと白い煙が晴れていく。そして、そこに現れたのは――

リオ=バーンレッドの拳が、レイナの額の寸前で止まっていた。


「……っ」


レイナの手にあった氷剣は、無数の破片となって地に散っていた。


「……終わり、だな」


リオは拳を下ろし、にかっと笑う。


「俺の勝ちだな」


レイナは呆れたように小さくため息をつき、しかしその表情には微笑が浮かんでいた。


「……次は、負けないわよ。絶対に」


その瞬間、リリィの熱狂した声がマイクを通して会場中に響き渡る。


「勝者――ッ! リオ=バーンレッドーーーッ!!!」


会場は一気に歓声と拍手の渦に包まれた。喝采の中、二人は向き合いながらも静かに微笑みを交わしていた。


「友情! そして……愛情が織りなす、青春きらめく名勝負でしたーっ!!」


満面の笑みでマイクを掲げるのは、司会・リリィ=グリモア。試合直後の興奮冷めやらぬ会場に、彼女の声が高らかに響き渡る。


「ま、待ちなさいっ!! 誰が愛情ですって!? そ、そんなの、あるわけないじゃないっ!!」


レイナ=シュトルツは、真っ赤になった顔を隠すように叫ぶが――


「それでは~っ! 気を取り直して、第2試合に参りましょうっ!」


リリィはにっこりと笑い、レイナの否定を完全スルー。


「ま、まってっ、いまの取り消しなさいってばっ!!」


なおも喚くレイナを、スタッフによりそっと場外へと誘導される中、リリィの声が場を切り裂くように響く。


「続いての試合っ! 準決勝進出をかけた、実力者同士の激突! 学園最強にして、栄光の頂点に君臨する――!」


「――シエラ=アルフィネ!!!」


その名が叫ばれた瞬間、場の空気が一変した。

沸き立っていた観客席の空気が、一気に張り詰める。

ざわめきが静まり返り、会場全体がシエラの登場を見守る沈黙の舞台と化す。

そして――静寂を切り裂くように、銀の光と共に彼女が歩み出た。

その姿はまさに“王”の威厳。冷たく澄んだ瞳が、すでに次の勝者を確信しているようだった。


「そして対するは……! 静かなる叙述の戦士、生徒会書記――!」


「レン=アルクライト!!」


リリィ=グリモアの声が高らかに会場に響く。しかし――現れない。扉の向こうから誰も出てこない。


「……ん? もう一度、いきますよ~っ! レン=アルクライト選手、試合場へどうぞーっ!!」


再び呼びかけるリリィ。だが、反応はない。

観客席がざわつきはじめ、次第に不穏な空気が広がっていく。


「ど、どうしたのかな? ちょっと、レン選手~!?」


焦りを隠しきれないリリィの元へ、スタッフの生徒が駆け寄り、耳元で何かをささやく。

リリィの表情がみるみる変わる――驚き、そして言葉を飲み込むような苦悩。


「え……あっ、そ……そんな……」


一瞬戸惑ったのち、リリィはマイクを握り直し、必死に笑顔を取り戻す。


「……ええっと……ただいま連絡が入りまして……レン=アルクライト選手、体調不良により、やむなく本試合を――棄権されましたっ……!」


どよめく会場。驚きと失望が交錯する空気の中、リリィは絞り出すように続ける。


「この結果……シエラ=アルフィネ選手の、決勝進出が決定しましたーっ!!」


拍手がまばらに起こる中、シエラは一歩も動かず静かに目を伏せる。

観客席にはざわめきと困惑が渦巻いていた。まさかの棄権により、準決勝の一角が崩れ――会場の空気はどこか白けたものになりかけていた。

そのとき、観客席を割って響く、男の声があった。


「だったら――このまま決勝、やっちまおうぜ!」


そう叫んだのは、――リオ=バーンレッド!

主人公は一直線に会場へと降り立ち、拳を握りしめて笑みを浮かべた。


「……もう一戦やれる体力は残ってるしな。こっちも、今が一番熱くなってるんだよ!」


突然の提案に、司会のリリィ=グリモアは目をぱちくりさせる。


「えっ!? ちょ、ちょっと待ってくださいリオ選手!? ま、まさか今から決勝戦を……って、え、えええ!? こ、これ進めていいのー!? ちょっとスタッフぅぅぅっ!?」


オロオロと視線を彷徨わせたリリィは、助けを求めるようにシエラ=アルフィネを振り返る。

しかし、シエラもまた静かに歩みを進め、リングへと降りてきた。


「問題はない。私も、今のまま戦うつもりでここにいる。」


その堂々とした声に、観客席が再びざわめく。

ふたりの間に流れるのは、勝者として、そして特別な何かを分かち合う者としての空気。

リリィは口をあんぐりと開けたまま、頭の中で一瞬だけ葛藤するが――もう覚悟を決めた。


「……こ、こうなったら、やるしかないですねっ……!」


ぱんっと自分の頬を叩き、マイクを握り直したリリィは満面の笑みで叫ぶ。


「では! 急遽予定を変更し――今からトーナメント決勝戦、行っちゃいますッ!!」


「さあっ、いまここに激突するのは――!」


「炎の拳、燃える本能! リオ=バーンレッド!!」


「対するは、ゼロの威光、絶対の孤高! シエラ=アルフィネ!!」


「トーナメント決勝戦――開幕ですッッ!!!」


会場が再び大歓声に包まれ、張り詰めた空気と熱気がぶつかり合う。

いま、頂上決戦の幕が上がる――!


「ようやく……ここまで来たぜ」


リングの中央、観衆の注目を一身に浴びながら、リオ=バーンレッドは拳を握りしめ、前を見据えていた。

その視線の先にいるのは、これまでの戦いのすべてを超える存在――シエラ=アルフィネ、生徒会長にして“ゼロの力”を宿す少女。


「俺は、あんたに……伝えたいことがあるんだ」


言葉は熱を帯びていた。拳と同じくらい、いやそれ以上に、心の奥から湧き上がる想いを――伝えたいと。

だが、彼女は冷たく、そして凛として応える。


「それは……私に“勝ってから”にすることね。あなたは、まだ“私の前”に立ってはいない」


その一言に、観客席は一瞬静まり返った。

息をのむように、誰もが試合開始の合図を待つ中――ユエと、生徒会の面々もまた固唾を呑んでいた。

その時だった。


「――ついに、ここまでたどり着いたのですね。彼は」


背後からかけられた声に、ユエはびくりと肩を揺らす。

振り返ると、そこには――黒髪の少年、レン=アルクライトの姿があった。


「……ッ、貴様……!」


レンの姿を見た瞬間、副会長カイル=ゼルクレイの眉間に深いしわが刻まれる。


「よく……我らの前に、姿を現せたな」


その声には怒りだけではない、裏切りへの静かな苛立ちと、かつての仲間への失望が滲んでいた。

だが、レンはその言葉には何も返さなかった。

ただ静かに前を見つめ、凛然としたまま言葉を紡ぐ。


「……この一戦だけは、見届けたかったのです。

 彼が“本当に”ここまで来るかを……そして、あの人に――届くかを」


その横顔には、かつての迷いも後悔もなかった。

彼の瞳は、確かに“今”を見ていた。

静寂のなか、試合開始の鐘が鳴り響こうとしていた――


「それではッ! 決勝戦、始めぇぇぇぇぇッ!!!」


司会――リリィ=グリモアの高らかな声がトーナメント会場に響き渡ると同時に、会場中が割れんばかりの歓声とともに熱狂の渦に包まれる。


「いくぜ……全力だッ!!」


リオ=バーンレッドはその叫びと共に、全身から轟々と吹き上がる灼熱の炎を纏った。炎は天を焼き、地を割るように激しく、赤く眩しい光となって彼の全身を包みこむ。そのまま地を蹴り、一直線にシエラへと突進する!

しかし――


「無駄よ」


シエラ=アルフィネの双眸は微動だにせず、ただ静かに、冷ややかに見据えていた。

彼女が静かに手をかざすと、その瞬間――リオの炎は、まるで何もなかったかのように“消え去る”。残ったのはただの空気。熱も、光も、力も、一切が消失していた。

それでもリオは止まらない。


「そんなの……関係ねぇッ!!」


勢いを殺さず、そのまま拳を振るう。真っすぐに、ただ相手に想いをぶつけるためだけの一撃!

だが――


「無駄って言ったはずよ」


シエラは微かに溜息をつくように、伸ばされた拳を――片手で受け止める。

衝撃も、風圧も、拳が持つ“威力”そのものすら、《ゼロ》の力の前には意味をなさない。

リオの拳は、確かに彼女に届いた。だが、彼女の力はそれを“無かったこと”にしたのだ。

――まるで、最初から何一つなかったように。


リオ=バーンレッドは驚愕と戸惑いを隠せなかった。

炎が消えた。それだけじゃない――渾身の拳すら、魂を込めた思いすら、すべてが“無”にされた。

まるでこの世界に最初から存在しなかったかのように。


「な、なんだよ……これは……っ!」


自分の拳が、まったく手応えなく消えた現実に、思わず後ずさるリオ。

その瞬間、シエラ=アルフィネが無言で歩み寄る。

彼女は静かに、まるで何かを確かめるようにリオの胸に手を置いた。


「消えなさい」


凛とした声が、無慈悲に響いた。

次の瞬間――爆発的な衝撃がリオの全身を襲う!


「ぐあっ!!」


リオの体が宙を舞い、地を這い、何メートルも吹っ飛ばされる。

それは物理的な打撃ではない。

彼女の力――《ゼロ》が、「そこにリオが“存在していた”という事実」を打ち消したのだ。

だからリオは弾かれた。

「そこにはいなかった」のなら、当然「そこに居続けることはできない」。

――“無に帰した空間”が、彼を拒絶し、押し出したのだ。

地に倒れたまま、リオは咳き込みながらも顔を上げた。

その瞳には、驚愕と、ほんのわずかな恐怖が混じっていた。

そして、対峙する彼女――シエラは、なおも無感情に立っていた。

まるで感情すらも、“無”の彼方に葬ってしまったかのように。


「……強い」


リオ=バーンレッドは、地面に手をつきながら、息を荒げていた。

これまで幾多の強者と拳を交えてきた。副会長・カイルの精密な言霊術。レンの魂すら紡ぎ変える物語魔道。レイナの凍てつく刃――どれもが手強く、確かに“強者”だった。

だが違う。

目の前に立つ彼女――シエラ=アルフィネの強さは、根本から異質だった。

圧倒的、という言葉では足りない。

彼女の強さは、「戦うことすら成立させない力」だった。

対峙して初めて分かるその“異常”。

拳を振るうたび、想いを込めるたびに、すべてが無にされる。

自分の力が、存在が、まるでこの世界に必要ないと言われているかのようで――

リオの胸に、わずかながら恐怖が芽生えた。


「チクショウ……っ、俺は、負けねぇ……っ!」


震える拳を握りしめ、がむしゃらに地を蹴る。

無我夢中で突っ込み、全力で拳を振り抜く。

けれど――その拳もまた、“触れる前に消される”。


「無駄だって言ってるでしょ」


静かに、冷ややかにそう告げたシエラの手が、またも空間に触れる。

瞬間、リオの存在は“拒まれ”、再び吹き飛ばされた。

何度も、何度も立ち上がり、突っ込むリオ。

しかし、結果は常に同じ。

ぶつけた想いはことごとく否定され、拳も、身体も、叫びすらも――無に消えていく。

一方的すぎる展開。

気づけば、沸き立っていた会場の熱気は冷え始めていた。

声援が、囁きに変わる。

歓声が、沈黙に包まれる。

静まり返る観客席に響くのは、リオの呻き声だけ。

その音が、ただ悲しく、無慈悲にこだまするだけだった。


観客席の片隅で、静かに試合を見守っていたレン=アルクライトが、ぽつりと呟いた。


「……やはり、無理でしたか」


そのつぶやきに、隣にいたユエ=クレストが顔を強張らせる。


「そ、そんな……っ!」


何とか反論しようと口を開くも、続く言葉が出てこない。目の前に広がる現実――圧倒的な力の差に、どんな言葉も虚しく思えてしまう。


レンはそんなユエに視線も向けず、冷静に告げる。


「現状を見れば、明らかでしょう。ディアさんとの戦いでは、会長は“もう一つの力”を使う必要がありました。ですが今、彼は……すべての攻撃を無にされている。本気にすらさせられないのであれば、勝ち目など……ない」


淡々と告げるその言葉に、ユエは肩を震わせ、目を伏せた。悔しくて、苦しくて、それでも何も言えなかった。

その時、鋭く凛とした声がその場を貫いた。


「それでも――あいつは“心を燃やす”ことで勝ってきたわ」


驚いて振り返ると、そこにいたのはレイナ=シュトルツ。先程まで選手控室にいたはずの彼女が、無言で観客席に立っていた。


「レイナさん……?」


「……たしかに、精霊の力も、能力も、彼の拳は会長には届かないかもしれない。でも――あいつは、そんな壁を越えてきたわ。私との戦いでも、そうだった。理屈じゃないの、あいつの強さは」


その言葉に、レンは微かに目を細める。


「“心を燃やす”、ですか……」


静かに舞台を見下ろしながら、レンはそっと視線を落とした。

未だ何度吹き飛ばされようとも立ち上がり、挑み続ける少年の姿が、そこにあった。

もう何度目だろうか。

いくら想いを拳に込めても、それは触れることなく“無”にされ、吹き飛ばされる。

ほんの些細なきっかけだった。

あの日、たまたま落としたハンカチを拾ってくれた。

それは一目惚れ。馬鹿みたいにまっすぐで、理由なんていらない感情。

伝えたかった。ただ、それだけだった。

そのためにここまで走ってきた。

レンに敗れかけた夜も、ディアの理に飲まれそうになった時も、レイナの刃に魂ごと凍らされそうになった瞬間も――全部、越えてきたつもりだった。

なのに。今、その想いごと、自信ごと、“存在”すらも打ち砕かれていく。

がくりと膝をつき、拳をついた床には血と焦げ跡が滲んでいた。

それでも目を上げる。睨むように、祈るように、ただ見上げる。

そこにいたのは――無情な瞳でこちらを見下ろす少女、

《シエラ=アルフィネ》。

その目に一切の揺らぎはなかった。感情の色さえもない、まさに“ゼロ”の視線。


(怖い……)


ふと、そんな思いが胸を締めつける。

あのとき芽生えた、かすかな恐怖心。

それは今、確かな形を持って広がっていた。

圧倒的な力。無慈悲な能力。揺るぎなき決意。


(……俺は、あいつの前に……立てているのか?)


歯を食いしばる。だが拳は震え、炎は出ない。

怖い――そんな感情を、彼はこれまで知らなかった。

痛みも、敗北も、悔しさも、全部、拳で乗り越えてきたつもりだった。

だが、今――初めて、それは“乗り越えられない壁”として彼の前に立ちはだかっていた。

その感情は、確かに心を蝕んでいた。

瞳から光が消えていく。

代わりに宿ったのは、恐怖の色。

目の前にいる少女。シエラ=アルフィネ。

彼が惚れた相手――そのはずだった。

だが今、そこに立っているのは、まるで異質の“何か”だった。

ただの少女ではない。

感情も、慈悲も、温もりも持たない、絶対的な“力”の化身。


「……う……あ……」


気づけば、一歩後ずさっていた。

自然と、足が逃げる。

心が、逃げようとしていた。

観客席が静まり返る中――レイナの鋭い声が響いた。


「どうして……!」


彼女の視線は、戦場で怯える彼に注がれていた。

さっきまで、全力でぶつかり合ったあの熱を思い出していた。

その隣で、レンが静かに呟いた。


「……怖いのですよ」


「……なにがよ……」


レイナの問いかけに、レンは目を閉じて答える。


「会長に……《シエラ=アルフィネ》に対峙する者は、皆、あの恐怖を味わう。

あの“ゼロ”の力。何もかもを打ち消す異質な力。

それは本能が拒絶する。立ち向かう意志すら奪ってしまうのです」


レイナが言葉を詰まらせる中、別の席で苛立った声が響いた。


「……くだらん」


副会長――カイル=ゼルクレイが、無言で席を立ち上がる。


「……どこに行くつもりよ!」


レイナが振り返り叫ぶが、カイルは足を止めずに吐き捨てる。


「こんなものを見ていても、不快なだけだ」


その声には、軽蔑と苛立ちが混じっていた。

会場の空気も、既に諦めムードへと傾いていた。

“弱い者いじめ”――そんな空気すら漂う戦い。

「もういいから早く終わらせてくれ」

そんな声が小さく、あちこちから漏れ始めていた。


「もし、もしこれで負けてしまったら、リオはどうなるのですか……?」


ユエの声は震え、絞り出すようだった。


レンはゆっくりと目を閉じ、静かに答えた。


「もう立ち上がれないでしょう。そして、前の彼にはもう戻れない……」


その言葉は冷たく、ユエの胸を締め付けた。


『そんなの嫌だ……!』


心の奥で叫ぶユエ。憧れ、追いかけてきたリオが、いなくなってしまうなんて――そんなの、絶対に嫌だと。


「負けるなー!頑張れー!」


ユエは思い切り大きな声で叫んだ。会場に響き渡るその声。しかし、届くはずのその声は、リオには届かなかった。何かが、聞こえるような気がする――だけど、それは恐怖の闇にかき消されていた。


シエラが一歩、ゆっくりと近づく。

その一歩が、恐怖の引き金となり、主人公は思わず逃げようとした。

しかし、先回りされた。強烈な一撃に吹き飛ばされ、地面に倒れ伏す。

そんな絶望の中、ふと目の前に何かが落ちているのを見つけた。

それは、あの時ヒロインが拾ってくれたハンカチだった。

そうだ――あのハンカチが、ヒロインとの出会いのきっかけだった。

彼女に拾ってもらったその瞬間、主人公は一目惚れをしたのだ。


「そうか……彼女にも、感情があるんだ……」


それは優しさだったのか、気まぐれだったのか、今となってはわからない。

でも確かに、あの時ハンカチを拾ってもらったとき、主人公は彼女の感情に触れていたのだ。

瞳の奥に、かすかな炎がともる。

吹けば消えてしまいそうなほど小さな、その炎。

それでも、今の主人公の胸にはその小さな炎が確かに燃えていた。

彼はゆっくりと、しかし確かな決意を胸に立ち上がった。


リオは拳にハンカチを巻き付け、シエラに向けて力強く突き出す。


「俺はあんたに伝えたいことがある!」


シエラは無表情のまま冷たく答える。


「それは勝ってからにしなさいと言ったはずよ。」


リオはニヤリと笑い返し、声を張り上げる。


「ああ、勝つぜ!だから宣言するんだ。俺はあんたが、シエラ=アルフィネが好きだ!」


その突然の告白にも、シエラは眉一つ動かさずにじっとリオを見つめていた。


「それでどうやって勝つつもり?」


とシエラが冷静に問う。

リオはニヤリと笑いながら、再び全身に炎を纏い突撃する。


「結局変わらないのね」


と、シエラは冷たく呟き、リオの攻撃をすべて無にする。

だが、すかさず吹き飛ばそうとした瞬間、リオは予想外の行動に出た。シエラに抱きついたのだ。

その距離に少し動揺を見せるシエラにリオは笑みを浮かべて言う。


「へへ、この距離ならさすがに吹き飛ばせないだろ?」


しかしシエラは冷めた声で一言。


「くだらない。」


そして体を軽やかに回転させ、リオを力強く投げ飛ばした。


シエラは無表情のまま、冷たく言い放つ。


「何をしようと無駄よ。私の力の前ではすべてが──」


「無に帰す……ってか?」


とリオが言葉を継ぐように笑いながら立ち上がる。

その身体はすでに傷だらけで、炎も不安定にゆらめいている。

それでもリオは、ぐっと拳を握りしめて言った。


「無駄なんかじゃないさ。だって……俺はまだ、立ってるだろ?」


リオの言葉に、シエラの瞳が一瞬だけ揺れた。だがすぐにその揺らぎを閉ざすように目を細め、再び静かに言い放つ。


「立つことに意味があるとでも?」


「あるさ」とリオは即答した。


「立ち続けること、諦めないこと、信じ続けること……全部、俺がここまで来た証だ。無にされようが、心をへし折られようが、俺は――この拳だけは、あんたに届けるためにある!」


リオは拳に巻かれたハンカチを見つめながら、心の奥に灯った確信を噛みしめていた。

――感情なんて、ないんじゃないかと、思ってた。

何度倒れても、何度無にされても、彼女の表情は変わらなかった。冷たく、無機質で、まるで自分の存在など意味がないとでも言うように。

だが――違った。

彼女はあの日、あの瞬間、落ちたハンカチを拾ってくれた。ただの布切れにすぎないそれを、彼女は無にはしなかった。それは、意味を持っていた。無にしなかったということは、彼女の中に“意味”があったということだ。

感情が、あったんだ。

だったらきっと、俺の想いだって、届くはずだ。

リオの視線の先、シエラは変わらぬ冷たい眼差しで彼を見据えていた。だが――その瞳の奥に、ほんのわずかに波紋のような揺らぎが走る。


「……くだらない」


シエラは小さく吐き捨てた。だがその声音には、どこか苛立ちが滲んでいた。


「どうして、そんなものにすがれるの?」


その問いに、リオは迷わず答える。


「すがってるんじゃねぇ。信じてるんだよ。あんたにも、心があるって。あの日拾ってくれたように、誰かの想いを受け止めることができるって――信じてるんだ」


シエラのまなざしが鋭くなる。


「……あんたは本当は、怖いんだろ?」


リオのその一言に、シエラの瞳がわずかに揺れた。


「……」


その反応を見逃さず、リオは前へと一歩踏み出す。


「あんたは、その力で……周りのすべてを“無”にしてきた。感情も、想いも、絆すらも。全部、拒絶してきた」


「……黙りなさい」


低く、凍てつくような声だった。だがその声音には――確かに迷いがあった。


「でもさ……本当は誰かと笑って、一緒に歩きたいって、思ってるんだろ? でも、怖いんだよな。力のせいで、その手でまた全部、無にしちまうかもしれないって……あんた自身が一番、あんたの力を怖がってるんだろッ!!」


魂を込めた叫びだった。

胸の奥に燃える想いが、リオの声に宿っていた。

その瞬間――


「黙りなさいって言ってるのよッ!!!」


シエラの怒声が、会場中に響き渡った。

氷のように冷たかった彼女の声が、初めて感情に染まっていた。静まり返る会場に、ただその叫びだけがこだました。


「ようやく……いい表情になったじゃねーか」


リオは口元を吊り上げ、いつものように豪快に笑ってみせた。

対するシエラの瞳には、静かだった氷の奥に――赤く燃える怒りの炎が宿っていた。

それは冷静を装った仮面が剥がれ、初めて露わになった本音の表情だった。


「……なら、その顔のまま来いよ。あんたの“本気”、受け止めてやる」


リオがそう挑発するように叫ぶと、シエラは一歩、前に進み出た。


「……あなたのその想いも、魂も……そのすべて、無に帰してあげる」


その声には、怒りだけではなく、何かを振り払うような決意も滲んでいた。

そして――その瞬間。


「我が名に応じて目覚めなさい、《ノルデン》……もう一つの力を」


青白い光がシエラの足元から立ち上り、空間が波打つ。

――それは、精霊ノルデンが持つもう一つの力。

“ゼロ”ではなく、“リバース(反転)”。


「始まりを、なかったことにする」

「魂の因果すら……書き換えるゼロよ――!」


解き放たれたその力は、空間すらも反転させる“完全な否定”。

それは単なる攻撃でも拒絶でもない。存在の根源から、リオという存在を“なかったこと”にする力だった。

その解放に、空間が軋む。風が止まり、時が凍りつくような圧が会場を包む。


「――消えなさい、リオ=バーンレッド」


そう、シエラが告げた瞬間、リオの視界に異常なほど純粋な白が押し寄せてきた――。

消えゆく――その感覚が、リオの全身を覆っていた。

足元が、手が、胸が、指先から少しずつ白く、音もなく塗り潰されていく。まるでこの世に存在した痕跡そのものが消されるように。

だが――それでも、リオの心は揺らがなかった。

いや、揺れている暇などなかった。


(……そうだ、俺は知ってる)


胸の奥に、レンとの死闘で精霊イグニスが伝えてくれた言葉が灯る。

“過去は変えられない”

あの日、あの時、孤独の中で見た嘘の家族も、研究室の白い空間も、全部――変わらない。

だがそれでも、リオは歩いてきた。数え切れない戦いを越え、人と出会い、想いを知り、絆を得た。

消えていく中で、魂の奥底で――ひとつの火が灯る。

いや、ずっと灯っていた。消えそうで、けして消えなかったあの火種。


「……俺は、変えたいんだよ」


リオの声はかすかだったが、確かにそこにあった。


「過去は変えられなくても――未来は、変えられる」


その言葉に呼応するように、リオの胸から赤い光が灯る。

それは、命の中心で燃える“魂の火”。

《イグニス》の力ではない。

それは、リオという存在そのもの――魂のぶつかり合いにおいて、リオが何よりも強く信じてきた“真っ直ぐな想い”。


(想いでぶつかるなら――俺は、誰にも負けねぇ!)


吹き消されかけた炎が、ゴォッと音を立てて燃え上がる。

シエラの“リバース”の力が進行を止め、一瞬、空間がねじれた。

そして――その火は、リオの全身を包み込み、“無”の力を押し返し始めた。


「なっ……!?」


シエラの瞳が、大きく見開かれる。


「俺は……ここにいる!消えたりなんかしねぇ!」


魂を叫ぶように、リオが拳を握る。

そこにはもう、怯えも迷いもない。

たとえ全てを無にされようとも、それでも燃え上がる魂の火――それこそが、リオ=バーンレッドの存在そのものだった。


「どうして……!」


シエラの声が震えた。

想定していたはずのすべてが、いま崩れ去ろうとしている。

無に還す力、それは“絶対”のはずだった。誰も彼もが逃げ出した。恐れ、ひれ伏した。なのに――この男だけは。


「……あんたは、すべてのものを無にして、拒絶してきたんだろう?」


リオの声は、燃えるように熱く、しかしどこまでも静かだった。


「でも俺は、すべてを受け入れて、乗り越えてきたんだ」


握られた拳が、震えながらも力強い。


「過去は変えられねえ。俺が歩んできた道は、決してきれいなもんじゃなかった。でも、それでも――全部、意味があったんだ。そして、それは……あんたも同じだ。いくら無にして、拒絶しようとも、あんたが歩いてきた道にも――ちゃんと意味があるんだよ!」


その言葉に、シエラは目を見開き、唇を噛んだ。

痛みを感じないはずの心に、確かに波紋が広がる。


「……それでも、あなたの敗北は変わらないわ。あなたに、私は超えられない」


そう言い切った声には、かすかに揺れが混じっていた。

だが、リオはただ一言――優しく、まるでささやくように言った。


「勝つさ」


その言葉とともに、彼はそっと拳を見つめる。

そこには、彼女との出会いの象徴――ハンカチが結ばれていた。

想いだけじゃ足りなかった。

ただの憧れだけでも、戦えなかった。

だから、リオは込める。

歩んできた過去を。

これから掴む未来を。

そして、シエラ=アルフィネという少女のこの先までも――全部、受け止めて、込めて。


「俺は、全部受け取って……全部乗せて――もう一度、あんたにぶつける!」


その拳は、熱く、まっすぐに――ただ彼女に向けられていた。


リオの拳に込められた、魂すべてを燃やす紅き一閃の炎。

それは彼の歩み、願い、想い――すべてを象徴する“誓い”だった。


対するは、シエラの虚無。

全てを消し、否定し、拒絶するゼロの力。

世界そのものすら呑み込む完全なる無の一撃。


炎と虚無。

希望と拒絶。

願いと孤独。

相反する二つの力が、轟音と共にぶつかり合った。


「う、わああああああああっ!!」

会場全体を揺らす衝撃波。

地鳴りのような咆哮と共に、光と闇が混ざりあい、視界を奪う。

リオの拳から、紅蓮の炎がかき消されていく。

まるで燃え尽きた蝋燭の炎のように、弱々しく、儚く。

その光景に、シエラは悟った。


「やはり、同じ……」


力の差は歴然。

虚無の前では、すべてが無意味。

そう――思った、はずだった。

しかし、静寂の中で聞こえた、微かな“音”。

ゴォ……ッ、と空気が熱を帯びる音。

シエラの視線が揺れる。


「……なっ……!?」


消えたはずの炎が、再び灯り始める。

拳から、胸から、魂から――紅蓮の火が吹き上がる。

それは、逆境を覆す力。

それが、リオの精霊――《イグニス》。

基本属性にして、最強の火の精霊。

どんなに消されようと、どれだけ否定されようと、

想いが、意志がある限り――何度でも立ち上がり、燃え上がる。


「俺は、あんたに……この想いを届けるために!何度でも、何度でも――立ち上がるんだッ!!」


紅蓮の炎が天を焦がす。

再燃した火は、虚無すら焼き尽くすほどの激しさを帯びていた。




シエラは、ゆっくりと目を開けた。

視界に映るのは、蒼く澄んだ空と、降り注ぐ光。

その中に逆光で浮かび上がる一つの影。

見慣れた、けれど――今はどこか違って見える少年。


「よう、まだ夢の中か?」


豪快に笑うその顔。

そして、ためらいなく差し出される右手。

それは、勝者の手ではなく――同じ高さに立つ者の手だった。

思い出す。

二つの力が激突したあの瞬間、確かに見た。

あの炎は、ただ熱いだけじゃなかった。

真っ直ぐで、優しくて、温かくて――そして、強かった。


消されるはずの炎が、意志を持って燃え上がり、拒絶するゼロの力を貫いた。

その瞬間、視界が光に包まれ、次の瞬間には、自分の体は宙を舞っていた。


「……負けたのね、私……」


その声は、少しだけ悔しくて、けれど不思議なほどに清々しかった。


「そーだな、俺の勝ちだ!」


リオは笑って言い切ると、差し出していた手をもう一度揺らした。

シエラは、その手を見つめ、ほんの一瞬ためらった後に、そっと手を重ねる。

そのぬくもりに、確かに何かが溶けていく気がした。

立ち上がると同時に、司会のリリィ=グリモアが元気いっぱいの声で叫んだ。


「勝者、リオ=バーンレッドー!!!」


その瞬間、会場を包んでいた静寂が破られ、大歓声がどっと巻き起こる。

拍手、叫び声、笑顔、涙――全てが交じり合う祝福の渦の中、シエラ=アルフィネは、初めて味わう敗北に、不思議と心のどこかが温かくなっていることに気づいていた。


揺れんばかりの歓声の中、シエラ=アルフィネは静かに口を開いた。


「私に――伝えたいことがあるって、言っていたわね?」


リオ=バーンレッドはその言葉に、はっとして頭をかいた。

戦いの最中、勢いに任せて叫んだ告白が脳裏に蘇る。


「……あー、それはもう言っちまったからなぁ……」


彼は照れくさそうに頭をぽりぽりと掻きながら、視線をそらす。

その姿に、シエラはほんの少し肩を震わせて――くすりと笑った。


「どうせなら……また聞かせてくれない?」


その声は柔らかく、どこかはにかんでいて。

初めて見せる表情だった。

リオは真っ直ぐにシエラの目を見て、一歩踏み出すと、ハンカチを巻いた拳を突き出し、改めて言葉を紡ぐ。


「……俺は、あんたが好きだ。シエラ=アルフィネ。強くて、まっすぐで、でも……本当はちょっと不器用なところもあって。あんたと一緒に、これからも歩いていきたいって、心から思ってる。」


シエラはその言葉を静かに聞き終えると、少しだけ唇を噛み、そして――意味深に笑った。


「……ふふ、もうちょっと様子を見てあげるわ。」


からかうようなその笑みは、しかし確かに柔らかく、今までとは違う、誰もが息を飲むような――少女らしい、初めての笑顔だった。

観客席では、歓声が鳴り止まない。ユエは目を真っ赤に腫らして大号泣しており、「リオくーん!」と叫ぶミアはレイナと手を取り合って喜んでいた。

(なおレイナは、昨日までのクールなツンデレキャラとは思えないほどのテンションで、キャラがぶれたのかと周囲がざわつくレベルだった)

ディア=クローデリア=ヴァン・エルツフェインは、変わっていく親友の姿を静かに、慈しむような眼差しで見つめていた。

副会長カイル=ゼルクレイはといえば、腕を組みながら眉をひそめ、

「……気に食わん」と小さく漏らしていた。

そして、レン=アルクライト。

彼は誰にも何も言わず、変わったシエラと、彼女を変えた少年を一瞥し、静かに背を向けて――その場を去った。

トーナメントの終幕、そして一つの物語のはじまりを告げるように、

空にはまばゆい光が差し込んでいた。










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