目下の悩みは指の太さと幼馴染への恋心
――時は流れて。
シャルルティーユは十八歳となっていた。
「あー、やっぱこの指じゃ針が持ちにくいな」
シャルルティーユは己の人差し指と親指の間に挟まれている細い銀色の針を見つめ、小さな溜息をついた。
シャルルティーユの指は美しい造作をしてはいるが一般的な男性の太さを持っている。
慣れてしまえばそう難しいことではないのだが、しかしやはり持ちにくいことは持ちにくかった。剣術を学んでいるため、指の腹が硬いことにも原因はあるかもしれない。
現在、シャルルティーユはアーガスティン家の庭にある四阿で刺繍をしていた。刺繍はシャルルティーユが幼い頃からの趣味である。
最初の刺繍は己の名の一字から始め、次第に刺せる文字を増やし、文字を完璧に刺繍出来るようになったあとは、簡単な図形に移った。いくつかの図形を刺せるようになると、今度はようやく家紋に移る。
アーガスティン家の家紋はそこまで難しくはなかったが、それでもはじめて布に刺した家紋は、今思い出せば恥ずかしいくらいの出来損ないだった。
(今はもう完璧だけどね)
刺繍は自室ですることもあれば、こうやって刺繍で疲れた目を庭を愛でて癒すため、四阿で行うこともあった。
四阿の外には、庭師が端正込めて整えた庭園が広がっている。
庭園には色とりどりの花が植えられているのだが、俯瞰的に見た時には青や紫の花が目立つように配置されている。そのため、庭園は全体的に涼し気な印象に仕上がっていた。
(綺麗だなあ。疲れた目にも優しいや)
しばらく四阿から庭園を眺めていたシャルルティーユは、じばらくするとまた刺繍を再開し始めた。
刺しては引き、刺してはまた引き抜きを一心不乱に繰り返す。
一針ではただの点にしか見えないそれが、回を重ねるごとに見事な紋様を描き出してゆく様が、シャルルティーユは大好きだった。
シャルルティーユの趣味が刺繍であることは、アーガスティン家の者ならば誰でも知っている。誰憚ることなく、男性のものとしては少々あれな趣味に没頭できるのは、ありがたいことだった。
白き魔女に呪いをかけられたシャルルティーユは、今では立派な若者に成長していた。
幼き頃は呪いを受けてなお、性差を感じさせぬ中性的な容姿のシャルルティーユだったが、今では細身ではあるが背が高く、ほど良く筋肉のついた堂々とした体躯を誇っている。
父のヨルクがその年代の男性の中でも背が高く体格の良い部類なので、どうやらシャルルティーユもその要素を受け継いでいるものと思われた。
その上、母親譲りの儚げな美貌まで受け継いでいるのである。
ようするに、現在のシャルルティーユは滅多にお目にかかれないほどの美男子だったのだが、しかし、家の者やアーガスティン侯爵邸の近隣の領民以外でその姿を見た者は極端に少なかった。
両親は社交シーズン毎に王都へと赴き宿を取るが、シャルルティーユがそれについて行ったことはない。
呪いにかけられてから社交界に顔を出したのは、十五の集いの一度だけだった。
それにほとんどの貴族の子息子女は十五の集いを終えたあたりから王都に住まいを移し、交友関係を広げようと躍起になるものだが、シャルルティーユが領地を出ることはなかった。
何故ならば、シャルルティーユにはそうできない理由があったからだ。
その理由とはもちろん、白き魔女にかけられた呪いである。
両親は八年経った今でもシャルルティーユの呪いを解くことを諦めておらず、当人たるシャルルティーユとて、その両親の想いを否定出来るほどには今の己の境遇を吹っ切れてはいない。
いつかこの身体は女性に戻るかも知れない。
そう考えれば、男性としてのシャルルティーユをあまり世間に広めない方がのちのちの為には良いのではないかと、そうアーガスティン侯爵家の面々は結論を出したのだ。
そのため、あまり人前に出ないシャルルティーユに対し、やれ、顔に大きな火傷の痕があるやら、両親とは似てもにつかない醜男やら、とても人前に出せない立ち居振る舞いであるやらと、悪意ある噂が流れることになるのだが――その噂をアーガスティン領の領民たちが信じることはなかった。
シャルルティーユの美貌を実際に何度も目にし、その気さくで優雅な態度に接している領民たちは噂がまったくの事実無根であることを知っていたからである。
そして領民たちには跡継ぎであるシャルルティーユがなぜ社交界に顔を出さないのかという理由にも、ある心当たりがあったのだ。
今から八年前のある日を境に、アーガスティンの領地では、ある噂が囁かれ始めた。
アーガスティンの跡取り息子が、白き魔女に呪いをかけられた。
誰の口から洩れたわけではない。しかし八年前の領主の息子の誕生日。白き魔女の姿を目撃した者は何人もいたのだ。
そしてその白き魔女が領主の館の敷地内に入っていく姿も――。
アーガスティンの跡取り息子は呪われている。
唯一、領内で囁かれているその噂だけがシャルルティーユをアーガスティン家の跡継ぎとして評価する上での若干の不安要素として領民たちの間では囁かれていたのだが、しかし、噂の当人であるシャルルティーユの最近の悩みは、領民たちの悩みとはかなりかけ離れたものだった。
最近のシャルルティーユの悩み。それは幼馴染の少女のことだ。
幼馴染の少女――ローズはとても美しい少女だった。
艶やかな白金色の髪に、瑞々しい翠色の瞳のローズは、ちょうどシャルルティーユが呪いを受けた一月後にこの領地へアーガスティン家の客人としてやってきた。
はじめてローズを見た時の衝撃を、シャルルティーユは今でもはっきりと覚えている。
シャルルティーユは可愛いもの、綺麗なもの、美しいものが大好きだ。そんなシャルルティーユの性癖に、ローズはぴたりと当てはまった。
出会ったときのローズはまるで男の子のように髪が短く、世界中のすべてが敵だと思っているかのように、鋭く、反抗的な目をしていたが、それでもその類まれな美貌は少しも損なわれてはいなかった。
ローズの白金色の髪はまるで夜空に浮かぶ月の様に清らかで、翠色の瞳はシャルルティーユの母が持つエメラルドの宝石のように美しかった。
シャルルティーユは友人になって欲しいと、出会ったばかりのローズに手を差し出した。その頃はまだシャルルティーユの手も、今の様に骨ばってはおらず、白く、細く、美しい手をしていた。
ローズにしてみれば領主の息子からいきなり友達になってなどと言われてさぞ困ったことだろう。しかしそんなシャルルティーユの行動に一瞬戸惑いを見せたローズだったが、やがておずおずとシャルルティーユの手を握り返してくれた。
己に向けられたその笑みともいえない微かな笑みを見た瞬間、シャルルティーユの時は止まった。
ローズがあまりにも美しかったからだ。
しかもローズは可愛らしく美しいだけではなく、平民であるはずなのに、言動にはどこか高貴さが感じられた。両親はすでに亡く、家族は後見人としてついてきた伯父夫婦だという年嵩の男性と女性だけだった。
しかし領主であるアーガスティン家の客人が平民というのは少々おかしい。すると平民というのは嘘で、ローズは実はそれなりの生まれということが考えられる。
もしかしたら名のある貴族の庶子なのかもしれないとも、シャルルティーユは考えた。出生を偽るには何かしらの理由があるはずだが、ローズの美貌と気品を鑑みれば、その答えが一番しっくりきたからだ。
シャルルティーユの両親は何か知っているようだったが、それをシャルルティーユに伝えるようなことはしなかった。シャルルティーユの知る必要のないことだと判断されたのだろう。
しかし、そんなことはシャルルティーユにはどうでも良いことだった。シャルルティーユは一目でローズを気にいったし、出会ったその日から仲良くなった。
それ以来、十八になるこの歳まで、シャルルティーユはローズと共に生きて来た。ローズの傍でローズを見つめ、美しく可憐なローズが常に傍にいてくれる奇跡に感謝しつづけてきた。
最初は友情だった筈だ。
まだ女性から男性に変わったばかりのシャルルティーユにとって、美しいローズはお気に入りの人形のように心を捕らえて離さなかったが、それは友情の枠を越えたものではなかった。
傍にいて、慈しむ。
だたそれだけの筈だった。
だが、いつしかローズの姿を見ればシャルルティーユの鼓動は速まり、ローズの事を考えると胸が甘やかに痛むようになった。
シャルルティーユも年頃、普通ならば、近くにいる魅力的な異性にときめくのは、何らおかしいことではない。
しかし問題は、シャルルティーユが普通ではないこと。
その身体に、呪いがかけられているということだった。