優子
「ちょっと来なさい。」
「あっ、はい。今行きます。」
パタパタパタパタ
「あなた、何この点数。」
「…………」
「何なのよ、この・点・数・は!」
シチューを温めている鍋がごぽっごぽっと鳴るリビングに響く、母親の声。その声とコツコツ机に爪をぶつける音がリンクする。
「ごめんなさい。」
蚊の啼くようなか細い声が優子の口から発せられる。普段からあまり通るとは言えない声が更に小さくなり、それが尚一層母親を苛立たせ
コツコツコツコツコツコツ
爪を叩き付ける音がテンポアップした。
「得点源の化学で200点満点中191点しかないじゃないの。数学に至っては180点代。この一ヶ月何やってたのよ。」
「でも、偏差値も順位も先月よりあがっ…」
じろり。母親が私の眼を覗き込む。
「言い訳するんじゃないよ。完璧にできてから生意気な口を利きなさい。」
親指を中にして両手をぎゅっと握り締め、
「ごめんなさい。」
ごぽごぽごぽごぽ
「話は以上です。シチューが温まったから今からご飯にしましょう。これを食べたら勉強しなさい。」
母親が食事の支度にかかったのを確認すると、後ろを向き瞼を閉じて極めて静かに息を吐いた。
母親があんなにも成績に口を挟むのはいつからだったろうか。高校入学してから?中学生?小学生?あれ判らない。小学校高学年の時には既に今のようだった…と思う。しかし学年が下がるにつれどんどん記憶は曖昧模糊となっていく。けれども私は不安ではない。私にはレイラがいるから。過去の愛された記憶の有無など興味はない。過去形にこだわったところで現在を生き抜くことはできないことぐらい解る。
「さっさと席ついて。今日もお父さんは呑んでくるから遅いって。」
「はぁい。」
「「いただきます。」」
左手は規則的に新聞をめくり時事関連の知識を蓄えてゆく。受験にもプライベートにも必要だから。海の向こうでは今日も大量虐殺が起こっている。しかし私達の最優先事項は私達。
「シチューおいしいね。海老がたくさん。」
「ありがとう。たくさんあるからね。お父さんはどうせ食べないし。」
部屋に戻ったらまずレイラに話を聞いてもらおう。全国模試の成績が上がったことも、今日学校で読んだ本のことも、聞いてもらおう。先生に成績のことを褒めて貰ったこともお話しよう。
地域欄の中央には、布袋葵の大量繁殖。淡青紫色に浮かぶ孔雀の羽の様な模様が美しい。艶麗なそれらは悪魔と呼ばれても強く存在できている。
カチャリ
「ごちそうさまでした。」
「ちゃんと返ってきた模試の復習しなさいね。」
「はい。」
…トントントントン…
ガチャリ
キィー
バタン
部屋にやっと帰れた。
「ただいまぁレイラ♪疲れたよ。今日、この前の模試が返ってきたの。」
「おかえり優子♪テストえらいね。さすがあたしの優子。おいで。」
私達は抱きしめ合う。強く、つよく。レイラが優子の頭を優しく撫でる。私の優子、私が護ってあげるから。いつも頑張るあなたはあたしがみているわ。今はあたしにもたれていいのよ。「レイラありがとう。今日はまだまだたくさんレイラにお話したいことがあるの。お休み前にまたお話きいてくれる?」
「いくらでも聞いてあげる。無理しないようにね。また後でね、優子。」
「うん、また後でね。レイラ。」
どちらからともなく、緩やかに口付ける。手と手、指と指を絡め合わせながら。私達が私達であることの証明を。