夫婦と間男の物語
結婚には三つの袋があるらしい。まずは堪忍袋、些細なことで目くじら立てずに仲良く暮らせということらしい。次に給料袋、なるほど、愛でお米は買えない。最後はお袋、産んでもらった恩を忘れるなということらしい。
しかしベロンベロンに酔っぱらった私の上司は、お袋をくだらない下ネタに変えてお寒いジョークを飛ばしていた。ただでさえ窮屈な立場の上に、きついドレスに身を包んで愛想笑いを浮かべる私の身にもなってほしい。
そんなこんなで突入した結婚生活もはや三年目。一部ドゥードゥー企業務めの夫は、いわゆる出世頭と言われる立場で、私は結婚直後に仕事を辞めた。辞めてやった。
たまの友達との無駄電話で、「あら、いいわねぇ。家なんかはねぇ……」などという台詞を聞くたびに、むくむくと優越感の芽生える音を聞いた。
だけど誤解をされてもらっては困る。こんな私にだって悩みはあるのだ。
お付き合いしていた頃から性に淡白だった夫は、結婚してからはさらに回数は減り、今では月に一回私を抱けばいい方だ。こちらからどんなにアクションをかけても夫は乗ってこず、私の横で寝息を立てる始末である。
そんな時、私はどうしようもない寂しさに襲われる。寂しさは伝播する。ソファーや、テレビや、カーテンや、はてはただよう埃にも伝播して、すべてが作り物のように思えるのだ。まるで私は、金魚鉢の中の金魚のよう……
だから私は愛人を作った。愛はコンビニでも買えるようだが、私はもう少し探して、SNSでシュウサクさんと知り合った。張りのある肌の内には、筋肉がたわわに実り、その手で触れられるだけで私の体は震えた。まだまだ若い自尊心を持て余し、無理して大人ぶる様子に、こちらのサービスも弾むというもの。
ああ、大学生のシュウサクさん、甘い声のシュウサクさん、千夜一夜の時を越え、二人の奏でるその音は、水琴窟の、雫のよう、小さくかすかにそれでいて、確かにこの世に音を上げる。
誰からも求められない人生に、なんの意味があるんだろう?
三日間の出張だという夫を送りだした私は、急いで部屋の掃除をした。これからこの家が、シュウサクさんとの愛の巣になるのだ。
普段は気怠い掃除機掛けも、心は弾んでまるでダンスでも踊るようだ。
用を済ませた私は、夫にはなんの効果も無かった布面積が極端に少ない下着を取り出し、鏡の前であててみて、キャッと顔を赤らめたりしてみる。傍から見たらいい歳こいて何やってんだと呆れられそうだが、それでもよかった。それくらい楽しみなのだ。
約束の時間がやってきた。チャイムが鳴り、私は玄関に飛んでいった。
玄関を開けると、シュウサクさんはいきなり私に抱きついてきた。そのままキスをして、お姫様抱っこで寝室までつれていかれた。
嬉しいやら恥ずかしいやら、それでも私は十代の少女のようにシュウサクさんの腕の中で浮かれた。
その日は一晩中抱き合い、翌日目を覚ますと一緒にお風呂へ入った。すっかり新婚気分だ。
風呂上がりに夫のウィスキーを拝借し、お互いが口に含んで飲ませ合いをしていると、スマホが鳴った。
良い所なのになんだよ、と私は酔いの回った頭で電話の主を呪った。しかしシュウサクさんにはそんな素振りは少しも見えずにスマホを取った。
はい、というと夫が出た。仕事が早く片付いて、もう駅についたのだという。
連絡が遅れてごめんねという夫に、私は目をぱちくりさせながら聞き返した。
「駅って、そこの駅? 最寄り駅ってこと?」
そう、という夫に適当な返事を返し、スマホを切ると私たちはベッドからポーンと弾き出た。
すぐに服を着ると、見られたら即アウトなものを拾い集めてゴミ袋に入れた。消臭スプレーをまき、窓を開けて換気をする。
爽やかな春風に吹かれながら、ああ、せめてここが一階ならばなぁ、とマンション購入時に少しでも高層を求めたことを後悔したが、そんなことをしていても何もならない。それに後悔しはじめたら切りが無い。何故過去の私は、駅前のこんなマンションを選んでしまったのだ!
シュウサクさんはシャツ一枚切るのに手こずっていた。靴下、靴下とブツブツ言っている。
「靴下は足元、ジーンズはそこ、他は探して!」
私は居間へいくと散らかったままの皿を乱暴に流しにつっこみ、部屋をぐるりと見渡した。余計な物は特にない。性欲のみのシュウサクさんに感謝だ。
玄関で物音がした。
私は寝室へ飛んでいくと(この時の私の足には羽が生えていたと思う)、ビニール袋を掴んで玄関へ行った。途中で洗面台の下にビニール袋を押し込み、シュウサクさんの靴を持って戻ってきた。
間一髪だった。直後に夫の間延びした声がした。
どうしましょう、とシュウサクさんを見た瞬間悟った。
駄目だこいつは。
絶望しか浮かんでいないシュウサクさんに、私が何とかしなければと腹をくくる。
しかしどうする、彼をベランダに隠すか? いや駄目だ、夫は用もないのにベランダに出たがる。ならクローゼットに? そっちも駄目だ。夫は自分で服を掛けたがる。
ウンウン唸っていると、サイドテーブルに並べられた本が目についた。糞長いアラビアの寝物語だ。しかもご丁寧に翻訳の違う三版に加えて最近出たガランの写本まで並んでいる。
それだけでも結構な量になるもので、小さなサイドテーブルはそれだけで一杯になっていた。
私はかつてこれで夫と喧嘩をした。私は私の雑誌を並べたかったのだ。
一つで十分じゃないという私に、夫は三つ必要なんだと言い張った。どれも同じじゃないというと、全部違うんだと否定した。
珍しく駄々をこねる夫に、私は大人しく引き下がることにした。
家事の合間合間にやる事が無かった私は、暇つぶしにそれらを読んでみた。夫が言うよう確かに違いはあったが、文学的素養のない私にとっては誤差の範囲としか思えなかった。大筋さえ合っていれば、編集者のセンスなんてどうでもよかった。
その中でもフランスの東洋学者版に注目した。
今にもパニックに襲われそうなシュウサクさんを抱いてやって落ち着かせ、耳元でそっと言い聞かせた。
「私がコーヒーカップを三回叩いて合図をするから、そうしたらここから出てきてね。分かった?」
私は夫におかえりといい、コーヒーを淹れに台所へ行った。その間も夫からは目を離さなかった。少しでも不穏な動きがあれば、先に行動に移れるよう神経を張り詰めていた。
夫は居間のソファーで座りぐったりとしていた。そのまま溶けていってしまいそうで、一時的でもそうしてくれたどんなに助かるか。ありもしない可能性に縋り始めたら危険信号である。私は小さく頭を振って気合いを入れなおす。
「疲れたよ、本当に疲れたよ……」
そう繰り返す夫に、私は向かいに座りながら大変ねぇなどと呟いてみる。まあ、本当に大変なのはこっちなのだが……
背広を脱いで立ち上がろうとした夫に、そっと駆け寄り上着を受け取り、しばらくそのまま休んでいろよと無言の圧力を掛ける。
「いきなり帰って来たから何事かと思ったわよ」
「いやあ、思いのほか仕事が早く片付いちゃってね。つい待ちきれなくなって帰ってきちゃったんだ」
そういって夫は寂しそうに笑った。
ここだと、と私は思った。男は度胸、女は愛嬌、されど女にも度胸が必要とされる瞬間はあるのだ。
「へっへっへ。ねえ。ヤーコフ・ペトーロヴィッチ・ゴリャートキン君」
そこら辺に転がっていた本の一節を適当に言ってみた。それでも馬鹿な夫には効果があったようで、すぐに乗ってきてくれた。
「私は前々から考えておったのですが、われわれ人間には騙されやすい人間と騙されにくい人間の二種類がいるようですな。いいえ、ヤーコフ・ペトーロヴィッチ・ゴリャートキン君、私は真面目に話しているんですぞ。一般論なんてそんな生易しいものじゃなくて、全く、神のみぞ知るというわけで、私の経験から申しましても、人間、だれしもすぐに騙されるわけじゃない。しかしどうです、ある種の人間にとってはそれはまるで好物といった具合で自ら騙されることを欲しているかのようで、例えばこうして」
私は夫の背後に回り込み、左手で目隠しをした。
「いきなりどうしたんだい。あ、随分とお酒臭いが、もしかして酔っぱらっているのかい?」
「たまの気晴らしと思って頂いちゃったの」
しょうがないなぁ、という夫に、私は内心ほくそえんだ。
「あなたって、本当に人が良いわね。もし私があなたを裏切っていて、今この瞬間も愛人と一緒にいたとしたらどうするの? 私たちの生活は薄氷を踏むような物で、いつ壊れてもおかしくはなかったのよ。たとえばね、私がこうやって合図をするじゃない」
こぼれるのも構わずカップでテーブルを三回叩いた。
「するとね、隣の寝室から私の愛人が出てくるの。だけどね、私……何も聞いていないわ。知らないわ……だって、その愛人手には、ナイフが握られているんですもの。蛍光灯の明かりを反射するそれを……憎い憎いとあなたに突き立てようと愛人は進んでくるの……私は、止めてたわ。駄目よ、そんなことは私は望んでない! だけど愛人は構わずこちらにやってくるの……私の静止も聞かずに……それでね、愛人は大きく振りかぶって、ズブリ!」
私は右手の人差し指を夫の背中に突き立てた。
夫の体はビクッと震えた。
「なんてことになったら怖いわね」
私はクルっと翻ると、夫の向かいの席に戻った。
シュウサクさんは言いつけ通り、私が小芝居をやっている間に部屋から出ていってくれた。
まだ湯気の立つコーヒーを一息で飲んで、私は心の中で深いため息をついた。
これで小じわでも増えたらあんたのせいだぞ、と夫に呪詛を送る。決して風呂上がりに怠りがちなスキンケアのせいじゃない、文句は言うなよ……
「さっきの話、どこかで聞いたことあったな。何夜だったかな」
そういって腕を組んで考えていた夫はソファーから立ち上がり、そのまま寝室へいった。
調べるのならご勝手にどうぞ、あんなゴタゴタの中でも証拠を残すようなヘマはしない。
開きななおって踏ん反り返る私のもとに、何かをひっくり返す音が聞こえてきた。
「君は千夜一夜を読んだといっていたね。あの物語にはいろんなマジックアイテムが登場してね、例えば空飛ぶ絨毯だったり、魔法のランプだったり、魔法の指輪だったり、魔法のリンゴだったり、いくら調理しても材料が減らない鍋だったり――いや、これはドラウパティの持ち物だったかかったか――何にしても、憶えていないかな、マドリュス版の八百七夜から八百十四夜を。もちろん君は何版を読んだとまで言っていなかったんで、この物語を知らないかもしれないが、あれにはね、おっと、ここの配線がこうなっているのか……例えどこに居ようと、ああ、こうなってるから取れないのか……念じるだけで好きなものを見通せる魔法の望遠鏡が、よし取れた、出てくるんだ。それでね、これが俺の」
戻ってきた夫の手には片手に乗るほどの小さなカメラが握られていた。
やられたと思った。が、すぐにこうなったからには仕方がないじゃないかと開き直っている自分がいた。
これが、これが……と繰り返す夫に、
「魔法の望遠鏡?」
と私が聞くと、うん、と力なく頷いた。
その時私は思った。この場で私の頬でも張って、なじってくれたらどんなに気分が楽か。それは私が夫に求め続けてきたのもだ。
しかし夫は、ごめんね、ごめんね、と謝り続ける。
そんな夫の姿を、金魚鉢の金魚を眺めるように見つめる私には、憎むことが出来なかった。
ただ、悪い事をしなぁ、と心に鈍い痛みが走っただけだった。