遺書
私は、夢のない子供でした。
周囲の同級生たちが拙い字で野球選手になりたいだとか、医者になりたいだとかそんな作文を書いていること、それを先生が嬉しそうに眺めること、それらが私にはひどく滑稽な風景に見えていました。
私は嘘をつくのが上手でした。三枚の原稿用紙に、でかでかと社長になりたいと書き胸を張ってさも自分も夢見る少年である風を装い作文を読みました。先生も他の同級生たちの時と同じような表情で
「いい夢ですね。なれるように頑張りましょうね」
と言ってうれしそうな顔をするだけでした本当は社長になんてなれないとわかっていました。同じように同級生たちの夢も大体は叶わないことも。
将来のことを考えることは私のなかで苦痛以外の何物でもありませんでした。この苦痛を説明するにはまず私の家族から説明しなければなりません。
私は平凡な家庭に生まれました。ここで言う平凡というのは客観的なものでなくひどく主観的なものです。私は私たちの家族以外の家族の実情を知り得る術がなかったのです。これは私だけでなくすべての人に共通することだと思っています。誰も自分たち以外の家族の内情など知ることはできないのです。だからこそ私は私の家族を平凡などこにでもある普通の家族だと考えていました。
父は厳しい男でした。私は何度も父の機嫌を損ね殴られた記憶があります。父は私を殴る時に履いていたスリッパで殴りました。拳を使わなかったのは父なりの優しさだったのだと思います。また父は陰湿な男でした。よく叔母の悪口を私に言って聞かせました。
母は周りと同じであれという考えの女でした。いつも口癖のようにどうしてあなたは周りと同じようにできないのと怒鳴られました
一度、母に一緒に月に行こうとベランダから突き落とされそうになったことを覚えています。私が算数のテストで60点を取って帰ってきたからでした。
そんな両親は私だけでなく他の子どもたちの夢を笑いました。
「野球選手になりたいなんて甘いな」
と父は嗤っていました。
「あなた、この子も社長になりたいなんて…。何とか言ってあげてください。どうして現実を見れないの…」
母は悲しそうに言っていました。私は夢を見るというのが母を悲しませ、父に嗤われるという事を小学生の頃に学びました。
それから私の夢は誰かに将来の夢を聞かれたときに必ずサラリーマンと答えるようになりました。結果として私は近所で賢い部類の子供としての立場を確立していきました。
賢い子供を演じるのは比較的簡単なことでした。近所の大人に対して敬語を使ったり、他の子供がしないような謙遜をしてみたりそんなことを積み重ねていくうちに私を馬鹿でやんちゃな子供だとみる人はいなくなりました。