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薩摩隼人と「七星(しちせい)」

作者: 薩摩の人

昭和の末くらいの頃、現在の鹿児島県霧島市国分に一人のおばあちゃんが暮らしておりました。

「花は霧島 煙草は国分」

の歌詞で始まる鹿児島県の民謡おはら節で歌われているとおり、煙草の栽培が盛んな街で当時は国分市と呼ばれていたところです。

フジエという名のおばあちゃんは豪放快活で国分市広瀬にある剣道場の師範代を務め、武道と煙草と家族をこよなく愛した生粋の薩摩隼人であった夫に先立たれ、四人の子供達のうち末娘が住む今の姶良市加治木町に一時身を寄せました。その末娘夫婦の家にはヤスという小学生の孫がいました。

ヤスはフジエばあちゃんのことが大好きでした。代々薩摩島津家家老職の武家の家柄に生まれた彼女は知性と気品、それでいて慈愛に満ちた人柄だったからです。そしてなによりヤスが嬉しかったことは体が弱く病弱で、勇猛果敢な豪傑男子を良しとする薩摩隼人としては落ちこぼれの出来そこないだった自分を大変可愛がってくれたたった一人の肉親だったからです。

フジエばあちゃんはしばしばゼイゼイヒューヒューと喘鳴を出して苦しむ孫を献身的に看病しました。

他方

「親に心配ばっかいかけっせえ情けない」

と喘息で苦しんでいる子供を尻目に嘆息して卑下するヤスの母親。

「自分の子供にそんなことを言ってはいけないよ」

フジエばあちゃんは末娘をそうたしなめましたが明子は何やら狼狽して居間の方へ行ってしまいました。

一方ヤスの父親は息子を自分自身が果たせなかった薩摩隼人一の剣道家にすることが彼の夢でしたが、それが自分の軟弱な息子には無理だとわかるとそれ以後息子には無関心になりました。ヤスの家庭はまあそういう境遇だったのです。

 小学校でのヤスへの同級生達の扱いも良いものではありませんでした。

体調がすぐれず体育の授業を見学した時、心無いクラスメートから「このサボリ魔ァヤッセンボー」と罵られました。「ヤッセンボ」というのは薩摩言葉で意気地無しという意味を表し薩摩隼人を卑下する最低の侮蔑言葉でした。

ヤスは悔しくてもこの病弱な体では刃向うことも出来ません。涙を必死に堪えて帰宅してフジエばあちゃんの膝元に抱き着いて号泣しました。

「薩摩ん男は親がけ死んでん涙を見すんな」(薩摩の男はたとえ親が死んだ時でも人に涙を見せてはならない)

これは武を第一とする薩摩隼人族の厳しい掟でありました。

それでもフジエばあちゃんは泣き出してやまないヤスをやさしく包みこんでくれました。

「学校で何かあったのね?」

「いじめっこが喘息で体育見学してた僕のことをヤッセンボって」

事情を知ったフジエばあちゃんは悲しい顔をして言いました。

「ごめんねえヤっちゃん、ばあちゃんの体が遺伝したかもしれないねえ」

「遺伝?」

「ばあちゃんも子供の頃喘息持ちの病弱でねえ、体育の成績はいつも丙だったよ」

「ヘイって?」

「昔の通信簿は甲・乙・丙の三段階で評価されてたんだよ、今の通信簿でいうと1だねえ」

「ええーばあちゃんもいそうだったんだぁ、いじめられた?」

「いじめられたねえ、でもばあちゃんはじっと黙っていたよ」

「嫌じゃなかったの?」

「そりゃいい気はしなかったねえ、でもねえヤっちゃん、本当に弱いヤッセンボは人のことをからかったり、いじめたりするほうなんだよ」

「どうして?」

「そういう人は自分に自信がないからさ、自分に自信がないから自分より弱いもの、小さいものをからかって自分を上に見せようとしてるの、そんなことで満足する意気地無しなんだよ、本当に強い薩摩隼人は、そうねえ、あなたのおじいちゃんみたいにどっしり構えて何があっても動じない、そして困っている人苦しんでいる人がいたら真っ先に駆け寄って手助けする、それが本当の薩摩隼人なんだよ」

「そうかぁその人、強くてやさしい人だったんだねえ」

「あの人は・・・おじいちゃんは特別だったのよ」

「だけどねえ薩摩隼人って言うけどみんながみんな強い人だったとは限らないんだよ」

「なんで?」

「関ヶ原の戦いって知ってるかい?」

「うん戦国時代の天下分け目の決戦でしょ?僕歴史は得意だよ」

「その時の島津のお殿様はね、その戦いの後の行く末を案じて動かず、弟の義弘公と僅かな手勢しか戦に向かっていかなかったんだよ」

「戦に行かなかった人みんなヤッセンボだね」

「この薩摩の国を守るために仕方がなかったとばあちゃんは思ってるよ、秀吉や家康とまともに戦ってもこの薩摩は無くなっていたかもしれないからねえ、そうだったらご先祖様はみんな戦で死んで、ばあちゃんや明子、それにヤっちゃんも生まれていなかったかもしれないんだよ」

「それは嫌だなあ、島津のお殿様ヤッセンボでもえらいね」

「戦争って勇敢な人から死んでいくものなんだよ、ばあちゃんの伯父さんにあたる人も喜び勇んで西南の役に出征して最初に始まった戦で土手から一番槍で飛び込んで三歩目で死んだそうな」

「たった三歩・・・」

「そういうものだよ、戦争って、すべての人がそうだったとは言わないけれど隠れたり、味方を見殺しにしたり人様に言えないことを繰り返したりして生き延びたんだ、それが悪いこととは言わないけどねえ、ばあちゃんもそうだったんだよ」

「ばあちゃんも?」

「そうだよ満州でねえ、大東亜戦争、助けてあげたかったけどあの時は子供達を守るだけで精いっぱいだった、あれはとても辛かったねえ」

「なんで人間って戦争するの?」

「ばあちゃんにはわからないねえ、でもヤっちゃんは賢いから勉強して二度と戦争を起こさない優しい国にしておくれ」

「わかった、約束する」


すっかり泣き止んだヤスはこの夜もばあちゃんの隣ですやすやと眠りました。

彼女は安らかな表情で寝息を立てている孫の髪をやさしくなでていました。


そしてしばらく・・・

彼女の表情が変わった。

すっかり曲がってしまった腰をやっと持ち上げ立ち上がりそしてそそろと窓際へと向かい、彼女は夜空を見上げ回想した。

先の戦争、満州から引き上げる際助けられなかった沢山の人々、ロシア兵に連れさられ二度と帰ってこなかった親友のエっちゃん、子供達をかばって撃たれて死んだ白石さん、そしてそれでも守りきれなくて犠牲となった二人の我が子達のことを思い、一人声を殺して泣いた。

誰も知ることのない、ただ一人夜空を見上げて涙する老婦人。

手には最愛の夫が愛用した「七星」という国産煙草が強く強く握られて。


「才蔵さん・・・」


「今夜だけは・・・どうか私を抱きしめて下さい」


孫が見ることはない祖母の女の姿

下弦の月のその夜更け。

おおぐま座の星のひとつは未だ青く輝いて。

彼女の女としてのその姿を煙草の「七星」だけは知っていた。


その翌朝からヤスは強くなりました。どんなことがあっても動じなかった「誰か」

のような強くて大きな人間になるために、そしてばあちゃんの教えを受け継げるような、誰かの為に一身を捧げて人を助ける真の薩摩隼人を目指して。


 それから時を経てヤスは中学一年生になりました。ちょうどその頃フジエばあちゃんが国分の実家に戻りたいと言ったのです。

この頃のヤスは

「なんでかなあ寂しくなるのになあ」

くらいしか感じていませんでした。母は

「本人が帰りたいって言ってるんだし良いんじゃない?けど兄さん達にアタシが追い出したみたいに思わるのヤだからちゃんと母さんから説明してね」

みたいな感じでした。父はうんともすんとも言いませんでした。

そんな流れで結局フジエばあちゃんは国分の実家で独り暮らすことになったのです。

フジエばあちゃんの心の内を煙草の「七星」だけは知っていたのでした。

 

 それからしばらく経ってからのこと。

とある土曜の昼下がりヤスは自転車に乗って出かけました。

目的地はただ一路。フジエばあちゃんの住む国分市です。

ヤスが住む加治木町は隣の隼人町を挟んで自転車で行くにはかなり遠い道のりですがヤスは気にしません。

「あえて自分の足で会いに行くからいいんだよねえ、自転車だけど」

遠い道のりですがヤスにとってはちっとも苦には感じませんでした。

同時に体を鍛えるという狙いもあったのです。

薩摩では足腰の強い人のことを山坂達者といいます。

土曜に祖母の買い物などのお手伝いをして食事して薪を割って風呂を焚き

一緒に眠る。そして日曜の昼ごろ加治木に戻る。そんな週末を過ごしました。

 そんな日常を繰り返していたある時、ヤスはいつもは目もくれなかった祖霊舎に飾ってあった写真立てを見て思わず「あっ」と声を上げました。

忘れていた、いや五歳の頃、記憶の中から消してしまっていた大好きだったその人の最期を。

 

 昭和58年7月3日。

肺を患っていた才蔵じいちゃんは国分市の病院に入院しました。

当時幼稚園児だったヤスは足の綺麗な看護師さんに不思議なことを伝えられました。

「ねえボク、301号室の中村さんのお孫さんでしょう?」

「うんそうだよ」

「ボクからでもお父さんお母さんでもいいからおじいちゃんに煙草を吸うのを止めて下さいって説得してくれないかな?おじいちゃん先生が止めてるのも聞かず病室を抜け出して屋上で堂々と煙草吸ってるの」

「どうして?じいちゃんたばこ大好きだよ『しちせい』っていうの」

「でもね、煙草を止めてもらわないとおじいちゃんの病気は今よりもっと悪くなるんだよ」

「ふうん、でもじいちゃん絶対にたばこだけはやめないと思うよ」

「それだとダメなんだよねー、おじいちゃん死んでしまうかもしれないよ」

「シって何?」

「遠いお空に行ってしまうってことだよ」

「いいなあお空、僕も行きたい」

「あーもーどう言ったらいいんだろー私達が言っても『まだ青かでよかとよ』(まだ青いからいいんだ)って訳わからないこと言ってるし」

「何が青いの?」

「あ、ごめんねボクとにかくお願いね」

足の綺麗な看護師さんは忙しそうにどこかへ行ってしまいました。

(青いってなんだろ?あとでばあちゃんに聞いてみよう、それにしてもあの看護師さんの足きれいだったなあ)

ヤスは看護師さんの綺麗な足に見惚れてそのまま何かを忘れてしまったのでした。

そして。

 昭和58年10月26日 午後8時27分

「見ゆっ、見ゆっど、赤か」(見える、見えるぞ、赤い)

国分市のとある病院の一室で肩で息をしている一人の老人が夜空を見てつぶやきました。

才蔵じいちゃんはナースコールを押して駆けつけた看護師さんにこう言いました。

「すまんからんどん、おいげぇうっかたに電話をしてくいやい、『赤か』ち」

(申し訳ないけれども、俺の家の妻に電話をしてくれ、『赤い』と)

「承知しました」

看護師さんは一部妙な言葉に少し不思議そうな顔をしましたが、患者の容体からおおよそのことを察し、急いで電話をかけました。

「もしもし中村フジエ様のお宅ですか?こちら上小川病院の奥園という者ですが」

「はいそうですが、主人に何か?」

「ご主人から奥様にご連絡するようお願いされまして、そして私にはわかりかねますが奥様に『赤い』とお伝えするようにと、それでご主人のごよ・・・

「解りました、向かいます」

フジエばあちゃんは看護師さんの説明を遮るように返事をして電話を切りました。

そして子供達全員に電話を掛けました。

午後9時52分

フジエばあちゃんと四人の子供達

そしてヤスを含む孫三人が才蔵じいちゃんの病室に集合しました。

 「おおヤス来たか!」

才蔵じいちゃんは自分の子供達とまだ起きていた孫三人、そしてフジエばあちゃんみんながいるというのになぜかヤスだけに声をかけたのでした。

「うん来たよーおじいちゃん笑ってるけど苦しそう、大丈夫?」

「苦しくなかど!」

才蔵じいちゃんは笑顔でした。

けれども肩で息をして息も絶え絶え、子供のヤスでもその容体の悪さは明らかでした。

「おじいちゃんお空へ行っちゃうの?」

「じゃっど、ちょっいたっくっで」(そうだ、ちょっと行ってくるからな)

まるで近所の煙草屋にでも行ってくるかのように余裕そうに笑って言い放ちました。

けれど豪放快活だったその声はもうかすれて少しずつ弱々しくなりやせ我慢しているのは明らかでした。

ヤス以外の他の家族全員は才蔵じいちゃんが発言を許すまでずっと黙っている、

そんな様子でした。事実そんな家庭だったのです。

病室はいよいよ物々しくなり医師に看護婦が二人、そしてあらゆる機材が持ち込まれました。

看護師の一人が酸素吸入器をつけようとすると

「そげんとはいらん!持ってはっちけ!」(そんなものはいらない!持って出ていけ!)

才蔵じいちゃんはこの日一番の怒号を命の限り振り絞って叫びました。

医師は看護師に指で遠ざけるよう指示しました。

才蔵じいちゃんは顔は笑っていましたが今しがたの一声は体にかなり障った様子で

肩で息をしながら休んでいるようでした。


しばらくして

「フジ」

「はい」

「うぇあまだ青かで追っかけっくんなよ」(お前はまだ青いから追いかけてくるなよ)

「でも・・・」

「来んな!!」(来るな!!)

このやりとりは才蔵・フジエ、そして煙草の「七星」以外誰もわかりませんでした。

「フジ・・・煙草に火を着け」

「はい」

「中村さん!ここは病室ですよ・・・」

看護師さんが止めようとすると

「吸わせてあげて下さい!!」

その声は病室・病院、そしておそらく周辺の住宅まで届いた強く激しい咆哮でした。

ヤスは今まで聞いたこともないばあちゃんの大声に驚き面喰ってしまいました。

「許可します」

医師は冷静にそして機械的に答えました。

「でもここは・・・」

「許可します」

止めようとした看護師を医師は制して変わらず冷静に指示しました。


 国産煙草「七星」の封は才蔵の妻フジによってついに切られ、フジは手慣れた仕草で

愛する夫の口元へ「七星」をそっと咥えさせ、そして火が着けられました。

病室内に立ち込め始めた「七星」の煙

ヤスの気のせいかその禁断の煙は七色に輝きました。

「煙きれい」

ヤスは綺麗なものが好きでした。

「うんまか!じゃっど!こいじゃっど!」(うまい!そうだ!これだぞ!)

才蔵は満足そうに一服して笑いました。

そうして病室に「七星」の七色の煙がいよいよ立ち込めたその刹那

(??!!)


ヤスは驚きました。

「七星」の立ち込める七色の幻想紫煙のさなか

ヤスには見たこともない若く雄々しい男の人と美しい女の人の姿が見えたのです。


「フジ」

「はい」

「あいがとごわした」(ありがとうございました)

「ええ」

雄々しき夫は妻に感謝の意を伝え

美しき妻は夫にただ返事をし、そしてすべてを理解しました。


しばしの間の後。

「フジ」

「はい」

「よかど」(いいぞ)

「わかりました」


美しき妻は右手でそっと夫の咥えていた煙草「七星」を取って・・・


口づけ・・・。


それはほんの一瞬の出来事でした。


若き夫婦の想い合う現世最期の逢瀬。

重ね合う唇、握り合う左手

それは心なしか、女の方が強く激しく。


夢幻泡影。


看護師の一人が煙いのを堪えきれず病室の窓を開けると立ち込めていた「七星」の煙はたちまちのうちに消え失せ、そして今までヤスのすぐそばにいたはずの若い知らない二人はどこにもおらず、才蔵じいちゃんとフジエばあちゃんがいるだけでした。


「無理を申して誠にすみませんでした」

フジエばあちゃんは病院関係者に深々と頭を下げてお詫びをし、右手に持っていた「七星」

の火を消しその吸殻を真紅の手拭いで丁寧に包みそっと懐にしのばせました。


一時の沈黙。


そして開口

「男んしィ!」(男達)

「はい!!」

ヤスとその父親以外の男子

つまり才蔵じいちゃんの三人の息子たちは直立不動で一斉に返事をしました。

「おいがけ死んでも泣んなよ」(俺が死んでも泣くなよ)

「はい!!」

「見ちょけ!!こいが薩摩隼人の死にざまじゃっど!」(見ていろ!!これが薩摩隼人の

死にざまだ!!)

いまわの際にいるはずの老人には出せるはずもない豪放の大喝。

才蔵じいちゃんは笑っていました。

「ヤ、ヤス・・・」

「うん」

一体何か起こっているかわからないヤスはそれでもこのただごとではない切迫した重々しい状況を理解しようとしましたがやはりわからず、ただ才蔵じいちゃんのそばへ行きました。

「よか・・・よか薩摩隼人になったっど・・・」(良い薩摩隼人になるんだぞ)

「うん」

才蔵じいちゃんは震える右手でヤスの頭を撫でました。

「ば・・・あちゃんを頼ん・・・で・・・な」(ばあちゃんを頼むからな)

「うん」

何をお願いされたかこの時のヤスにはわかりませんでしたがとにかく返事をしました。


「フ・・・ジ・・・」

「なんでしょうか!?」

ヤスにはこの時ばあちゃんはじいちゃんに何かを言って欲しい気がする、と幼ながらに感じました。

穏やかないつものフジエばあちゃんの様子ではなかったからです。


「あ・・・い・・・し・・・」

「・・・・・・・・」

この時ヤスの頭を撫でていた老人の右手が力無くだらりと落ちました。

すぐさま医師が冷静かつ的確機械的に聴診器で心音を確認ののち脈を取り


「午後10時47分、ご永眠されました」

医師と看護師は深々と頭を下げ、黙祷しました。


「ありがとうございました」

フジエばあちゃんは顔色ひとつ変えず、病院関係者にお辞儀をしました。

明子はお金の心配を考え、ヤスの父は無言。

孫の二人の女の子達は椅子に腰かけ二人とも既に眠っていました。

息子三人は揃って最敬礼

三男の良蔵だけ目に光るものがありました。

清拭等患者の死後対応が看護師達によって速やかに行われる中、ヤスだけが不思議そうに

「ばあちゃん、じいちゃん寝ちゃったね」

と何気なく声をかけました。

フジエばあちゃんは何かを必死に堪えるように黙ってうなずきました。

「じいちゃん何か言おうとしてたねえ、でも明日聞けばいいよね?」

ヤスのその言葉にフジエばあちゃんはついに堪えきれず強く激しく嗚咽しました。

この反応にヤスは直感でフジエばあちゃんに何かとても悪いことをしてしまったような気がしてショックでくらくらめまいがしました。


ぱたん


ヤスはその場に倒れ一言

「足きれい」


看護師さんのせわしく機敏に働く綺麗な足だけが見え

そして意識を失いました。


その後翌日翌々日ととり行われる一連のお別れの儀式

ヤスは大好きな才蔵じいちゃんのシの現実を受け入れられず、本能的にこの夜起こったことすべてを才蔵じいちゃんごと記憶から抹消したのでした。


ヤスが中学三年生になった10月26日

フジエばあちゃんは愛する夫と奇しくも同じ日にこの世を去りました。

国分市の自宅での安らかな死。

祖母の危篤の時、すべてを理解していたヤスはおそらく自分と同じあの体験をしたであろう祖父の死に一人だけ落涙した良蔵伯父に「七星」の煙草を吸わせました。

やはり現れた若き雄々しき夫才蔵は

「もうよかど」(もういいぞ)

とだけ伝え

美しき妻フジエは

「この時をお待ち申し上げておりました」

とひしと抱き合い、そうして妻は夫の三歩先を歩いて一緒に天へ昇っていきました。

祖母の実家高野家に伝わる「高野三歩の捨てがまり」の掟

西南の役の初戦、たった三歩で大事な跡取りを失った当家は、祖母の嫁入り前に

外出時には必ず夫の三歩先を歩いて、有事の際は夫の盾となり一族の血を絶やさぬよう諭されたと、男さえ無事なら跡取りは消えぬ、と大叔父からそれを聞いたのでした。

祖母は祖父の最期の夜からずっと死を望んでいたんだとヤスは悟ったのでした。

 祖母の通夜、ヤスは一人「七星」を手に空を見上げて星を探しました。

「アルコル、アルコル、うーんやっぱり青いなあ」

アルコル。おおぐま座の恒星。別名死兆星。

薩摩隼人族に限りこの美しい星が赤く見えた時、それは死の兆しだという言い伝え。

これは祖父の幻覚か思い違いかもしれないけれど。

「『七星』、お前だけはすべてわかっていたんだよね」

「将来僕もお嫁さんをもらおう、足の綺麗な、足の綺麗な女の子はくるくるとよく働く人だから」

ヤスがなぜこのように思ったのかを「七星」だけは知っていた。




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