華燭の典
あの人を兄と呼ぶようになったのはいつからだっただろう。1歳に満たない頃にこの家にやってきて14年。もうすぐ15歳になる。15歳といえばこの国の結婚可能年齢だ。故国で結婚式を挙げてから14年。この国の法律のために正式な夫婦ではないけれど、もうそれだけの月日が流れた。もちろん、当人たちの希望で結ばれたわけではなく、誰が見ても納得の政略結婚だ。しかも、私にだけメリットのある。あの人はどう思っているだろうか。7つも年下の、成人もしない女があの人の心を得ているとは思えない。大切にされてないわけじゃないけれど、それは家族とか妹とか、そんなところでしかないだろう。むしろ、本当に愛する人を選ぶときの枷にはなっていないだろうか。そんなことばかり考える。
12歳から始まった貴族院の生活も、残りわずかだ。新しい知り合いもできたし、友人といっていい間柄の相手もできた。そのほとんどが、卒業後間も無く結婚する。貴族院は結婚前の最後の自由でもある。花嫁学校のようなものだ。妻として、母としての教養やマナー、立ち振る舞いを学ぶ。社交術としての会話やダンス、お茶会の作法、楽器の演奏から政治経済、世界情勢、果ては乗馬までを3年間で学ぶ。卒業生は結婚相手に困らないということで、無理をしてでも皆娘をこの学院へ入れる。
卒業の挨拶は、王太子妃に内定している侯爵家のフェリカ様に決まった。王太子殿下は現在18歳。似合いの夫婦になられるだろう。 令嬢たちに人気のある男性は、フェリカ様の兄君のセドリック様、同じく侯爵家で軍部にいらっしゃるカール様、そして、私の夫であり次期宰相と目される筆頭公爵家次期当主、リオン様だ。だからこそ思う、私があの人の自由を奪っているのだ、と。
リオン様はどんな令嬢が近づいても全く靡かないと言われている。独身男性なら火遊びも珍しくないのに、そんな噂すら出さない。隙のない完璧な王子様、なんだそうだ。私がデビュー前なので、他の人の前でのことは噂でしかないが、家では私にとても甘い、理想の兄だ。その代わり、私の周りから男性は徹底的に排除されている。私が会うことのできる男性は実の両親や兄弟を除けば出入りの業者や使用人すら義父より年上か5歳未満に限られ、護衛すら女性がになっている。それをさせているのはリオン様だと聞いた。でも、私は、自惚れることはできない。
「あなたから言ってくださる?私、リオン様の婚約者ですの」
そう言って私の前に来たのは、あなたが初めてじゃない。
「私にはなんの権限もありませんが、お兄様にはお伝えしておきます」
いつものように返したのだけど、この方は違う反応を示された。
「あなたは養女だと聞きました。あなたはリオン様をどう思ってらっしゃるの?あなたが望めばリオン様は応えて下さるのではなくて?」
「……私が何か望むことはできません。ただでさえ、兄には負担をかけているのです。
私が何か望めば、兄はそれを叶えようとするでしょう。何を犠牲にしてでも。だからこそ、私が望むことはありません」
「それって…」
「お引き取りください、シャヌマ様。これ以上は不毛です」
まだ何か言いたそうだったが、お帰りいただいた。私は何も望めない。私が望めばそれは命令になってしまうから。
内密に王城に呼ばれたのは、シャヌマ様の訪問の数日後だった。こちらの両親とともに謁見室に入ると、陛下の他にもう1人いらっしゃった。
「久しいな、リリ」
「兄上様」
そこにいたのは、私の異母兄だった。
「あちらがようやく落ち着いたので、会いに来たよ。リリ、帰れると言ったら、どうする?」
兄上の思いがけない言葉に私は固まってしまった。帰る?あちらに?
「まあ、では、片付いたのね」
義母の声が響く。義母は母の従兄弟にあたる。あちらに残る親戚や知人も多いので、祖国の家族のことが気にかかっていたのだろう。
「ええ。懸案は解決しました。それで、両親より身軽な私が使者に立つことが決まったんです。急な話で即答はできないでしょうから、また返答を聞かせてほしい。視察などもあるから、しばらくこちらに滞在するからね」
突然の話に、即答できなかった。故国の政争のために生まれる前から命を狙われ、そのために結婚という形で家を抜けた。故国の法律では、女性は婚姻すれば生家を継ぐことができなくなるから。そのあとは、外交で父母がこちらに来た時に内密に面会するだけだった。そんなあちらに思い入れはない。気にかかるのは兄のことだけ。兄と呼んでいなければ、踏みとどまれなくなりそうな、彼の方だけ。
「リリ、いいかな」
城に与えられた部屋に戻り、考え込んでいた私の元へ、異母兄が訪ねて来た。
「兄上様…」
「リリは、どうしたい?しがらみも、リオンの気持ちも考えない、リリ自身の望みは?」
真剣に向き合ってくれているのを感じ、私も正直に答えることにした。
「私は、このままここにいたいです。戻って別の人に嫁ぐのは考えられない。けれど、考えてしまうのです。私が望めば、リオン様は断れない。リオン様の本当の望みを、私が奪い取ってしまう。伝えることも、諦めることも、今の私にはできません」
「リリはさ、思い違いをしているんじゃないかな」
異母兄の言葉に、顔を上げた。
「実はさ、何度かうちに戻る機会はあった。それをね、嫌がって、もっともらしい理由をつけて、一番反対してたのはリオンなんだよ。その話を、リリの耳に入れることすら嫌がった。彼がそんなことをした理由、リリなら聞いてもいいんじゃないかな。彼はちゃんと地位を築いてるよ。リリの命令を聞かなければならなかった子どもの頃とは違う。本音で話す時期なんじゃないかな。ダメなら、帰ってくればいいさ。父上も母上も、歓迎してくれる」
「兄上様…ありがとうございます」
自宅に戻ると、兄がいた。
「サク殿下は、なんと?」
兄に庭に誘われ、2人になったところで尋ねられた。
「あちらに戻らないかと、言われました。立太子も済んで、反対派も静かになったそうで」
「それで、…戻りたいのか?」
兄の目の奥が、揺れた。
「突然のことでしたので、まだ分かりません。兄上様には、こちらでよく話し合うようにと言われました」
どちらとも取れない曖昧な返事を返す。兄は、しばらく逡巡し、それからこちらを真っ直ぐ見て言った。
「リリアーナ。私と、正式に夫婦になりませんか。今までのような、庇護のための形式のものでなく、正式に」
「でも、私は子どもだし、何も知らないし、とても釣り合うとは思えません。先日いらっしゃったシャヌマ様なら釣り合うかもしれませんが」
「…なぜここで、あの方の名前が?」
「先日私を訪ねていらっしゃったときに、兄様の婚約者だとおっしゃっていましたから」
「…そのような事実はありません。私は、あちらであなたを抱っこして結婚式を挙げたときから、他の女性に目を向けたことはありません」
「…え?」
私は驚いて固まってしまった。あのとき、まだ私は1歳に満たなかったのに。兄だって、まだ7つだったはず。
「やはり、きづいてなかったか」
兄が苦笑した。
「リアを愛しているよ。義務ではなく、本心からね。他の女性など必要ない。私が手に入れたいのはあなただけだよ、リア」
真剣な目でそう言われ、私の目から涙が溢れた。
「本当に…?私、ここにいていいの?兄さまの、妻でいていいの?私、まだ子どもだし、いろいろ兄さまに負担をかけてしまうのに、ずっと、あきらめなきゃって、思って、でも、兄さまって呼んでないと、もうどうしようもなくて、いいの?私で、いいの?」
ぐちゃぐちゃになって、なにを言いたいのかうまく伝えられない。
「あなたがいいんです。リア。あなたの背景など、どうにでもなる。それだけの地位にいると、自負してるよ。そのためだけに、今を手に入れたんだから。返事は?」
「私、リオン様の、妻になりたいです。私も、愛してるから」
それからは、怒涛の展開だった。私は一度祖国に戻ることになり、両親とともに、第一王女として入国し、こちらの国で結婚式を挙げた。国王が参列するわりには、こじんまりとした式になった。私は、両親である隣国の国王夫妻と、初めてゆっくり話をした。
「今、幸せか?」
父に聞かれ、私は笑顔で答えた。
「もちろんです。結婚相手にリオン様を選んでいただき、感謝しています」
「私たちはお前になにもしてやれなかった。幸せにおなり」
「はい。…お父様」
そうして、私とリオン様は、夫婦になった。