辻売りを始めました <C209>
登戸村の登場です。今は川崎市多摩区にある登戸駅の近くですが、新田開発で土地の状況が大きく変わった時期のため、全く仮想の街風景です。
■安永7年(1778年)2月中旬 武蔵国橘樹郡金程村から登戸村へ
その日の夕方になっても、まだ庭に置いた火鉢の中の練炭は燃え尽きておらず、結局火が消えたことが確認できたのは夜になってからであった。
この結果に父・百太郎は大いに満足し、明日は一緒に試しに売りにいくことの念押しをされた。
翌朝、仮七輪を3個、試作練炭14個を背負い籠に入れて登戸村に向った。
金程村から多摩川沿いにある登戸村までは約3里=12km程の距離である。
まずは登り下りする細い山道を通り、隣村である細山村に向う。
この細山村からは多摩川系支流の一つである五反田川に沿って坂を下り東へ進むと、川の名前の由来である五反田村で津久井往還道に合流する。
津久井往還道は、後の世で世田谷通りと呼ばれた道で、江戸から三軒茶屋で大山街道と別れて登戸を通り、生田・柿生・鶴川を経由し町田を通り津久井地方へ至る街道である。
津久井で取れた鮎を献上した道であることから、鮎街道とも呼ばれている。
そのまま五反田川の流れに沿って東へ進むと生田の山間、枡形山の北側を抜けると、多摩川沿いに開けた平野部に出る。
そこからが登戸村になる。津久井往還道は多摩川を挟んで登戸村と猪方村・和泉村に分かれており、船による渡し場がある。
また、この船着き場から多摩川を使い江戸との物資輸送を行うことから、登戸がこのあたりの物流の一拠点ともなっている。
登戸村についたのは、昼にはまだ充分間がある時刻だった。
まずは、金程村が木炭を卸す先となってる商家の出先へ顔を出す。
そこの番頭の中田さんは百太郎の顔見知りだったようだ。
「今回は木炭ではなく、木炭で作った珍しいものを持ってきました。
村ではこれにどれ位の値段がつくのかが判らないので、色んな人に見てもらい幾らなら買ってもらえるのかを知りたいと考えています」
そう言いながら、練炭を一個取り出して番頭の中田さんに見せた。
「これは木炭を固めたものですね。
燃えカスなんかをまとめて囲炉裏に放り込むなんて事はどこの家でもよくやることで、目新しいものではないんじゃないですか。
重さも350匁位ですから、やっとこさ50文(=1250円)という所ですかね。
この値段も、いつも卸してくださるお礼も含んだ価格なんですよ」
「希望する値段とは随分違うので、この村の辻で競り売りしてみていいですか」
番頭の中田さんはちょっと困ったような顔をしたが、最初に付けた値段が値段だけに、この言い分に頷くしかなかった。
まあ、相手は一応商家の番頭なので、足元を見てくるのは予想通りだ。
安い指値をしてきたら、それをネタに村の辻で売るための許可を貰うのが狙いだったので、希望していた1個100文をずばり出してこなかったことを、むしろ感謝した。
商家を出ると、父も同じように思っていたようで、義兵衛にささやいた。
「これで一応仁義を切ったので、思い切り辻売りができるぞ。
それにしても、業突く張りの番頭がいきなり一個50文という値を出してきたのは驚きだ。
重さから換算したのだろうが、言い値が上等の木炭と同じ値段だった。
ひょっとすると、お前の目論見の1個100文というのはあながち間違いではないかも知れないな。
ならば、思い切って1個200文と吹っかけて始めようか。
それよりも、覚悟はできているのかな。
これから客寄せをして見世物を始めるのだが、その見世物とはワシら自身なのだぞ」
辻売りということから、バナナの叩き売りかガマの油売りを想像していたので俺自身は一向に構わない。
200文=5000円から始めて、段々安くしていき、お買い得感をあおって100文~150文で売り切ろうという方法も納得できる。
しかし、まだ若い義兵衛はどうだろう。
『あんなことを言っているが、見世物になって大丈夫か』
義兵衛は小さく頷き、内なる俺に話し始めた。
「この話が出たときから、僕は覚悟をしていた。
自分の未来・村の未来がかかっているので、これくらいどうということはない。
ただ、贅沢を言わせてもらえば、どうせやるなら登戸村ではなく、もっと大勢の人出が見込める溝口村か川崎宿でやりたかったなぁ」
『その覚悟や良し。ではまずは準備だ』
津久井往還道と多摩川沿いの道が交わる辻に高札がかかっているが、その真向かいの一角に場所を確保し、持ってきた物を並べる。
七輪という名前はまだ世の中にないので、特製火鉢ということにして2個を背後に、1個を真正面に置く。
次いで、練炭2個を真正面火鉢の横に置き、11個を背後に積み上げる。
あとの1個を父は手にした。
この手配の間に、義兵衛は火打ち石で長縄に火をつけ、種火を作る。これで舞台準備はできた。
「炭やぁ~、炭。炭やぁ~、炭。これから炭を売り始めるよぉ~」
父は背負い籠をひっくり返して台座を作るとこのうえに立ち、大きな通る声で何度も叫び始めた。
丁度、対岸の和泉村から棒手振の一団がガヤガヤと上がってきたところで、こういった人も含めて父・百太郎の声に引かれて集まり始めた。
特に棒手振の一団は、江戸方面で朝一の商売を終え、多少暖かくなった懐で物見遊山といった風情なのだ。
こいつらが、最初にどう食いついてくれるかで見世物の成否が決まるに違いない。
「皆様、ここにお目にかけまするは我が金程村が生み出した奇跡の炭でござりまする。
火が着きやすく、しかも朝一度火が着くと夜まで消えることがなく熱を発し続ける代物で御座りまする。
夕刻に火を着ければ、朝までホカホカと暖かく熱を放ちつづけまする。
その名を練炭」
一番前でしゃがみこみ、熱心に地面に置かれた火鉢とその横の練炭を観察していた客が言った。
「練炭とは、とんと聞かぬ名であるな」
父は我が意を得たりとばかりに両手を広げ、空いた手に手ぬぐいも掴み、練炭と手ぬぐいを振り回して見せる。
「よくぞ尋ねてくださった。
練炭とは、すなわち練った炭。
我が金程村で極上の炭を練り上げて拵えた代物で御座りまする。
その特徴・燃える秘訣はこのレンコン穴に御座ぁい~。
しかも、こちらに用意いたした火鉢。
なんと、この練炭に合わせて改造致したる専用火鉢。
これが何とこの練炭がピタリと嵌る大きさで、しかも小さくまとまっている。
普通の木炭をくべて暖を取る、囲炉裏にくべて煮炊きするというと、必ずや場所をとるものだが、それがなんとこの専用火鉢ではこの大きさで、何とことが足りてしまうという便利さ。
しかとご覧あれ」
「その小さな塊で一日も火が保つというのは、本当なのか」
今度は少し後ろで立ち見していた客が言った。
「ははぁ、疑ってらっしゃる。
よう御座いましょう。
それでは、ここで実演させて頂きましょう。
特とご覧あれ」
父は台から飛び降り、前に置かれた火鉢に手にした練炭を納めた。
その上に枯葉を2枚乗せると義兵衛から種火を受け取った。
「皆様、少し見えにくいかも知れませぬが、これより練炭に火を入れまする。
特に難しいことはなく、チョイと枯葉を乗せて火を移すだけでこの練炭に火が着きまする。
薪や炭に火を起す手間を思えば、なんと素早くできることと驚きの着火で御座いまする~」
大仰な姿勢で種火の乗った縄を枯葉に付けると、少し白煙が上がった後炎が上がり、練炭の上が赤く光った。
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